第十二章 騒乱(10)
十
聴衆がざわめきながらしきりに指を指しているので、祖父谷も思わず振り向いて見上げた。桜の装飾紐越しに、エスカレーターを下ってくる人影があった。前後に立つのは万三郎と杏児。真ん中で身を乗り出して聴衆に手を振っているのは【hope】だった。
司会者がホッとした様子でアナウンスする。
「皆様大変お待たせいたしました、【hope】さんです! 本日のメイン・ゲスト【hope】さんが何と二階からの登場です。大きな拍手でお迎え下さい」
状況を理解するにつれ、強く唇を噛む祖父谷の横で、ドスの利いた低い声で女がつぶやいた。
「祖父谷、貴様ヘマしやがって……穏便に済ませられなくなっちまったじゃねえか」
祖父谷が振り向いて女に耳打ちする。
「すみません、【bad!】さん」
すると女はさらに声を潜めて祖父谷を叱った。
「馬鹿野郎、俺――あたしは【bad!】じゃねえ。人に聞かれたらどうする!」
「す、すみません……」
祖父谷の横に座っているのは、金髪のロングストレートヘアーで、サングラスをかけた、祖父谷より背が高く、がっしりした体格の女だった。赤いワンピースのドレスのラインが不自然に筋肉をなぞっている。彼女の右頬の一部には、目立たぬよう肌色の、四角い小さな湿布薬が貼られており、その上にマジックで何やら書き足されていて、全体として【iPad!】と読める。
【iPad!】は一階に降り立とうとする【hope】をサングラスの奥で追いながら、手首に巻いたブレスレットの手のひら側を口に近づけ、つぶやいた。
「まあいい。獲物は目の前だ。お前ら、しばらく待て。俺――あたしがサングラスを取ったら、それが合図だ」
万雷の拍手の中、【hope】は万三郎と杏児に前後を守られ、【iPad!】の目の前を通ってステージに登って行った。一行に気付かれぬよう、祖父谷は顔を伏せている。
一時はどうなることかと色を失った司会者の声も弾んだ。
「それでは、『地球サロン・人類希望の集い』、いよいよメイン・イベント、ビッグワーズである【hope】氏によるハロー・トークです。では【hope】さん、よろしくお願いいたします」
客席に作られた通路を通って、【hope】を前後に挟んだ万三郎と杏児は、ステージ手前最前列のところで左右に分かれて、そのまま両脇まで歩いて行き、聴衆の方を向いて立った。一方で【hope】はそのまままっすぐ階段から登壇した。
「みなさんこんにちは、【hope】です」
【hope】は演台に設置されたマイクスタンドからワイヤレス・マイクを取り外すと、手慣れた様子でマイクを片手に、演台から離れ、ステージ前方に歩み出た。
「僕はもう来ないと皆さん思いましたか? 僕自身も、もうダメかと思いましたね。いえ実は、お腹くだしてトイレに座ってたんですよ。だけど僕は希望を捨てなかった。負けるもんかと。そしたら奇跡的に回復して、こうしてみなさんの前に立つことができました」
会場はやんややんやの拍手喝采となった。
ステージ下でその様子を見ていた万三郎は舌を巻く。
――すごいな。のっけから、下痢が止まった話をつかみで使う方も使う方だが、それで拍手を贈る聴衆もえらく【hope】をカリスマ化したもんだ。
【hope】は場数を踏んだ講演家のように、本題に入っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます