第十一章 裏表(8)
八
結構な量の中身がユキの上着にかかった。当の客は自分のグラスの中の飲み物がユキにかかったことに気付いていない様子だ。ユキはムッとして、その男性客の背中をトントンと叩いたが、相手は話に夢中でまったく気付く様子はない。
「あのー、かかったんですけど!」
まったく無駄だった。腹も立ったが、ユキもついに文句を言うことをあきらめて、先へ進むことにする。そのままずっと押し合いへし合いされながら、ようやくカウンター近くにたどり着いた。
カウンターの右奥には、バーチェアのような椅子と簡易な丸テーブルがいくつか備えられていることもあって、入り口からホールに比べると幾分
「やめて!」と慌ててそのお札を取り出して男に押し付けたら、男は肩をすくめて首を横に振り、腕組みをして失望のまなざしでユキを見やった。
その男から急いで離れて、脱いだ上着を畳んで腕にかけ、ユキはほうほうの体でカウンターへたどり着く。そしてビールを注文してから店員に大声で訊いた。
「キジシマって人に、会いたいの」
「何?」
「キジシマって言ったのよ、キ、ジ、シ、マ!」
がたいの良い、黒いタンクトップ姿の店員の男は、眉を顰め、ユキをじろじろと見て、それから言った。
「知らねえよ、そんな名前の人は」
「本当か【tapster】(バーテンダー)? もう一度よく考えてくれよ」
背中越しに聞こえたその声にびっくりしてユキが振り返る。大声で店員にそう言ったのは、ようやくユキに追いついた祖父谷だった。
男の出現に【tapster】と頬に刻んだ店員はいっそう警戒の表情を浮かべる。
「あんたたち、そのキジシマって人に何の用だ」
ユキが大声で答える。
「訊きたいことがあるの」
「訊きたいこと……?」
【tapster】は厳しい表情のまま、再び二人をじろじろと見た。
「うっ……!」
祖父谷を見た【tapster】の表情が明らかに変わる。二人はその表情の変化に気付いた。だが店員は苛立たしげに二人に答えた。
「とにかく、そんな人知らねえ」
【tapster】は注文を受けていたビールをユキに手渡すと、別の客の応対を始めた。
「ユキちゃん、知らないってさ。帰ろう」
「……」
ユキは首を傾げる。どうしようか思案している風だ。
その時、祖父谷が苦しそうな表情を浮かべ、ユキの耳元で声を振り絞った。
「ちょっと、ちょっと待ってて。気分が悪いんだ。トイレ、行ってくる」
酒酔いに加えて店内の人いきれに酔ったのをついに我慢しきれなくなったのか。ユキは、仕方がないわねという表情で、ジャケットを掛けていない右腕を、手のひらを上にして持ち上げ、どうぞ行ってらっしゃいというジェスチャーをした。祖父谷は蒼白な顔をしてトイレがあると思しき方向の人の群れに飛び込んでいった。
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