第十章 鴨焼(12)
十二
「いろは」を出てすぐ左に十メートルほどのところ、シャッターの下ろされた商店の脇にある電柱の陰に、建物の壁にもたれかかるようにして立つ。
自分の本当の気持ちが分からなくなってきていた。
――今、私は怒っているのか、悲しいのか、それとも、ホッとしているのか……。
そのどれもが正解のような気がする。
店を出た万三郎が右を見て、左を見て、目を凝らせばすぐ見つけられそうなこの場所に立っておいて、スマホを取り出す。今日部屋を出る少し前に着信したスマホのメッセージを再び見る。
〈恋人同士の方が、何かと便利だからだ。分かったら動け〉
あの人の声さえ聞こえてきそうな字づらが恨めしい。
「ユキ!」
名前を呼ばれて、スマホを自分の胸に当てる。それから目を閉じて大きく息を吸った。今、呼ばれて確かに胸が高鳴った。そのことは、否定できない。
これから目を開ける。きっとそこに万三郎がいる。おかしな顔をして。
――どうしてあれくらいの冗談を真に受けて、そんなに怒っているのか納得できないけれど、放っておくと後々面倒くさいから謝っておこう。それにしても、どうしてあれくらいの冗談で……という顔よね。分かってるわ。
そうっと目を開けた。果たしてそこに万三郎がいた。おかしな顔をして。
止めていた息を大きく吐き出してからできるだけ平静を装って言う。
「すぐ謝りに来たことだけは、褒めてあげる」
「ユキ、ごめん。俺が悪かったよ」
私が激怒してなさそうなので、万三郎は安心したように一歩歩み寄ろうとした。
そこにたまたま空き缶があった。万三郎は空き缶に気付かず左足で勢いよく蹴とばしてしまった。
カン!
缶が飛んで行った先は、私がもたれかかっていた店舗の壁のすぐ横、隣の建物との間のわずかな隙間だ。低い弾道を描いて勢いよく暗がりに飛び込んだ空き缶は、何か不安定に積み重なった荒ごみか何かに激突したようだ。
ガッシャーン!
その小さな衝撃がきっかけとなって、おそらく、がれきが倒壊した。
と同時に、
「フンギャオーッ!」
という激しい叫び声が聞こえて、暗がりから突然、黒い何かが二つ、三つ、疾風のように飛び出して、電柱の陰に回ったかと思えば、万三郎と私の目の前に急に現れ、高速で駆け抜けていった。
「うおっ!」
万三郎は驚いて声を出す。私は思わず、恐怖のあまり、万三郎の胸に飛び込んで両手で万三郎のシャツの両脇の生地をしっかり握りこんでいた。
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