第一章 万三郎(6)


 視界には、こちらを向いている爺さん、そして俺がいた場所の隣に、さっき足を震わせていた男が立っている。彼はこちらを見て、あっけにとられたように目を見開き、口を半分開けていた。そして、少し手前で新渡戸部長も、やはりこちらを見て立っている。爺さんは、やはりもの凄い存在感で、まるで俺は見えない紐でがんじがらめに縛られているようだ。


 そして爺さんは、そのがんじがらめの紐のうち、一本をわずかに緩めてくれた……ような気がする。すなわち、笑わずして微笑んだのだ。その違いは……目だ。たぶん、目だけでそれを表現しているのだ。


 俺は、救われた。


 その場で行進するという、一見突飛な指示を、聞きたごうことなく遂行できた、その即断能力の高さに自己満足していた。


――俺が、正解だ。


 今や、爺さんに微笑み返す余裕すらある。爺さんは、一本の紐を緩めたまま俺に短く言った。


"Come back, to where you originally stood."


「イエッサー!」


 ともかく最初の「カムバック」だけは聴き取れたので、そう答えておいて、俺は静寂を縫って再び直線的に行進して、さっきの場所に戻った。爺さんが自ら進路から外れてくれた。


 最初の場所に戻ると、爺さんは表情を引き締め、流暢な英語で再度、隣の男に迫った。爺さんは今度は、男の目の前一メートルに立っている。


"Now, you’ve been given enough time to consider. What do you think, eh? "


 最後のこもった音の「あー?」のときに、爺さんは男を見たまま顎をわずかに上げた。俺は顏を動かさないようにして視線だけを左へやってみる。男の足は、また細かく震え出していた。凄まじい場の雰囲気だ。それでもついに彼は、腹に力を入れて回答を絞りだした。


「ナイス、トゥー、ミーチュー。アイム、ファイン」


――うーん、それはたぶん、違うだろう。


 案の定、爺さんは深いため息をついた。首を左右に振る。それから爺さんは、傍らの新渡戸部長に振り向いて言った。


 流暢な日本語で。


「新渡戸くん、よくここまでのレベルの若者を見つけたな」


「はっ、社長がおっしゃった、話にならんレベルというのはこのあたりかと」

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