第9話 ダレカノシアワセ

 

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 話し合った日から一週間が経過しようとしている。とても早かったように感じたかと問われれば私は首肯し、長かったかと問われれば、それにもまた頷いていただろう。明確な答えなど持ち合わせていなかった。時の流れを全く感じない一週間だったように思う。この期間、私たちはずっと復讐の成功のための準備を行っていた。そして、その決行が、週末の土曜日――すなわち、今日なのだ。

 電車で再び二人が住む町へと降り立ち、深く息を吸い込む。ここに深い緑が放つ本当の自然と思える環境はなかった。テレビで見るような大都会が広がっているわけではないのだが、車の量と人の量は、あの場所よりも明らかに多い。既に適応していた私にとって、長年住み慣れたはずの環境は、息苦しいだけのものだった。

 全ての音が、口から空気となって吸い込まれ、私の心をざわめかせているようだった。雑念の如くその音は私の決意を揺さぶる。意味ないんじゃないの、本当は怖いんでしょ、今なら止められる……。心臓の鼓動が大きくなってゆくのを、毎秒感じる。

「香織……ここまで来ちゃったけど、ちゃんとやれる? 今ならまだ――」

「里奈。ちょっと黙ってて」

 胸を軽く押さえて改めて呼吸を繰り返す。里奈は優しく背中を擦ってくれた。別に吐き気があるわけじゃないから、それは無意味なんだけどね……。

「落ち着いた?」

「……うん、ありがとう里奈。さっきは強く言ってごめん」

「別に気にしてないよ。それで? 本当に大丈夫? ……もう逃げられなくなっちゃうよ?」

 彼女の手にはスマホが握られている。これから私たちが行うことを示そうとしてくれているのだろう。里奈は私に、最後の確認を取ろうとしている。私がここで頷けば私は自身のスマホへとまっすぐに手を伸ばし、掛けるべき番号をコールする。首を振れば、それはまさに敗北を意味する。

――負けたくは、ないな。

 自分の小さなプライドが疼く。二人ばかりに笑わせるわけにはいかない。私も笑いたい。

「香織。最後の忠告。決めて」

 目の前で里奈のスマホが揺れている。彼女もこれは酷な行動だと思ってくれているのだろう。瞳は私を見ていないし、手も少し震えているのが確認できる。

「……ありがとう、里奈。私なんかのために」

 自分が酷く醜く思えた。私情に、関係ない友人を巻き込んで、なのにその友人に最初から励まされるなんて。とても滑稽だった。高らかに自分を嘲りたい。そしてその想いこそが二人へと恨みを晴らす原動力となり、里奈の手を押しのけ、私はポケットの中を弄(まさぐ)った。

「香織……」

 里奈は未だ震えの治まらぬ手のまま、スマホを元に戻す。

「……じゃ、始めようか」

「……うん!」

 伸ばした手を里奈は強く握った。彼女の分の手の震えをも私は受け止めたい。強く、強く握りしめた。



『あ、もしもし小松(こまつ)君? 前に転校した楠山(くすやま)香織だけど、今日ヒマだったりする……? え? あー、うん、お久ぶり。元気だったよ、うん……』

 私の質問には答えずに、なぜか世間話を彼は始めた。それに少しの間付き合い、もう一度私は質問をぶつける。

『……あ、暇なの? だったら頼みがあるんだけど……今から学校近くの公園に来てくれる? ……あぁ、うん、そこだよ。できるだけ早く来てくれると嬉しいかな。……うん、じゃあ待ってるねー』

「……どう? うまく誘えた?」

「うん、大丈夫。十分ほどで来るって」

「でもなんでわざわざ来てもらったの? え、えーっと……その女を誘うだけなら電話口で頼めばよかったと思うんだけど……」

「……もし電話口で言ったら、確実に色々と面倒なことが起きる。たとえば怖がられて切られたり、録音されてしまったりね。もしそれを証拠にされたら、きっと警察沙汰にされちゃうよ。その点実際に会って話せば簡単には逃げられないし、伝わりやすいと思ってね。あぁ、ちなみに言っておくと、私が直接茉優をここに呼び出さなかったのは、茉優を警戒させないため。私でも大丈夫だとは思ったけど、やっぱりここは元カレの小松君に言ってもらった方がいいと思ったからだよ」

 先ほど電話で呼び出した元クラスメイトの男子――小松|亮(りょう)――は、中一の時に茉優が付き合っていた人だ。童顔で小柄、声変わりもまだしておらず、非常に幼げのある男子生徒だった。一部の女子からは庇護欲をそそられる、と熱烈に支持されたが、茉優と付き合い始めたことでそれは収束した。別れてからしばらくすると再び女子たちの小松君へのアピールは復活したが、これは長くは続かなかった。一度誰かと付き合った子だから、というのが大きな理由らしい。それでもクラスの中心人物のひとりであり、友人も多い男子生徒だ。

「あっ、いたいた。久しぶりだね、楠山さん」

 私がベンチに座って待っていると、やがて少年の声が掛けられた。里奈は、目立たないところに待避してもらっている。

「ありがとう、来てくれて。やっぱり変わってないね」

 私が立ち上がると背丈がほぼ一緒の小松君は、今日もにこやかに笑っている。純真無垢そうな澄んだ瞳が、彼の不変を物語っていた。

「ううん、電話で言ったとおり、僕も暇だったから……。それで? 頼みたいことって何?」

「本当なら私もこの数週間にあったことを雑談みたく話したいんだけどね……。今日はもっと大切なことがあるんだ」

 それから私は周囲に人がいないか確認して、彼への頼みごとを耳打ちした。入口は一つしかなく、周囲は背の高い木々に囲まれており、誰にも整えられていないらしい草は至る所で好き放題に伸びている。遊具も錆びた鉄棒と滑り台、それにベンチがあるだけで、非常に静かだった。

「……ということなの。頼めるかな? もし見返りが必要なら、何でも言うことを聞くから。あ、でも出来る限りね。恥ずかしいこととかはダメだよ?」

「僕をどんな人間だと思ってるの……? 要するに、茉優ちゃんをここに呼び出せばいいんだよね? それで、電話で呼んだらすぐにここから立ち去れ、と……。わかったけど、何で? 楠山さんも茉優ちゃんへの連絡手段ぐらいあるよね? わざわざ僕に頼まなくても……」

 うーんと、私はその返答に窮する。回答を用意するのを完全に忘れていた。どう納得させればいいだろうか。

「え、えっと、そのー……。実は私のケータイ、電池切れちゃってさー。それで切れる寸前に小松君に連絡したの。茉優って話し出すと長いからさー。多分電池無くなっちゃうなー、と思って」

 我ながら苦しい言い訳だと思ったが、小松君は大変だねー、と笑って受け入れてくれた。正直者の小松君に感謝しつつ、嘘を吐いて申し訳ないとも思う。

「分かった。とりあえず楠山さんに言われた通りにするよ。見返りってほどでもないけど、また今度出会ったら、そっちの話も聞かせてね」

 笑顔でスマホを取り出す小松君に、もちろん、と私も笑顔を返した。彼を恋人にできた茉優は、きっと幸せ者だっただろう。それを羨ましく思い、同時に彼を手放したことに対する怒りも湧き合がる。

別れた後も二人は教室内で普通の友人のように会話していたので、きっと互いに嫌い合っているということはない。ならば、今日も彼に誘われて、のこのことやってくるはずだ。

 目の前で、小松君はスマホを操作し、彼女を呼び出している。私たちのほかに誰もいない、静かな空間をわずかに破る彼の高めの声が、吹く風に鳴る葉擦れの音と共に私の耳に届く。彼の笑顔の度合いが増してゆくにつれ、私の鼓動はそれに苛まれるように勢いを増してゆく。いよいよ私たちは逃げ出せなくなった。ここから先は二人への復讐に多くの時間と心労をつぎ込むことになる。成功するかどうかよりも、復讐を行おうとしている自分という存在に対して、今更ながらに大きな恐怖を感じた。

 電話は一分ほどで終わった。相も変わらず笑顔を浮かべている小松君は、すぐに茉優は来るよ、と告げ、私が言ったとおりに公園を去っていった。

「里菜、里菜」

 小声で呼ぶと、備え付けられているトイレの背後から彼女が出てくる。

「……ここまでは順調かな」

 先ほどの会話は聞こえていたのだろう。すべてを悟ったような清らかな表情を浮かべている。

「うん。まぁ、始まったばっかだけどね」

「……それじゃ、これからだけど……」

 私たちは茉優が来るまでに、もう一度これからの行動について確認する。

  まずはやってきた茉優に対して、今の二人の状態を聞きだす。私としては恐ろしさしかないのだが、二人が付き合ってどれぐらいなのか、どこまでその関係は進んでいるのか、ということも聞きださなければならない。もし二人を引き離すことのできる要素があれば、確実に使用しなければならないからだ。茉優には、現時点で危害はあまり加えたくない。私が敵と認識しているとはいえ、元は馬の合う友人だったのだ。それがどうしても燃え上がる私の勢いに水をかけてしまう。できるだけ穏便に済ませ、茉優には帰ってもらいたい。

 そして、得た情報を元にして、まずは彼を茉優から引き離す方法を考える。ここに関しては、怪我を負わせることを厭わない。相手は二年も年上の男子なのだ。私たち二人の力は微弱な物であろうが、だからこそ、躊躇なく使うことができる。

「とりあえず今日は、茉優からの聞きだし。これだけね」

「うん。了解」

 先ほど感じた恐怖がまだ残っていることは否めない。ポケットに手を突っ込み、乾いた風に吹き飛ばされてゆく砂塵を震えながら見つめる。これが寒さから来ているものなのか、それとも例の感情によるものなのかは私にも分かっていない。一つ震える度に、体の熱が放出されていくように感じた。出された熱は、きっと私たちでない誰かの元に新たなぬくもりとなって届くのだろう。

――幸福とは誰かを踏み台にして得るモノ……。

 私が逃したぬくもりも、やがて誰かの幸せに変わる。私の中は冷たく染まり、誰かからのぬくもりも受け付けぬ体になってしまうのだろうか。それに対して、許せないという感情を湧かせる気力も今は無い。今なら受け入れることができそうな気がした。

 また強い風が通り抜けて行った。さらに深く手を入れようとして、それ以上入らないことに気づく。

「香織。しっかりして。大丈夫。何とかなるよ……」

 そんな根拠ないでしょ……。言い返そうとしてやめた。とても野暮に思い、そしてそんな返答をしようとしている自分がとても悲しい存在に思えた。

 私の服のポケットの中で握る里奈の手は、手袋越しにも温かいと感じられた。

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