第72話 津田ベーカリー繁盛の兆し?
昨晩、俺は母と一重から色々と文句を言われることを覚悟して家に帰った。
そして案の定、二人は機嫌を悪くしていたため、特に言い訳もせずに素直に謝った。
こういったケースの場合、ついつい先に言い訳をしてしまいがちだが、最善手はまず謝ることである。
もちろん事情については後々説明が必要だが、まずは誠心誠意謝った上で、落ち着いてからするのでも遅くは無い。
特に相手が女性の場合、感情が印象に大きく影響を与えるケースが多い。
例えどんな事情があろうとも、感情が高ぶっている時では会話すら成立しないことだってあるのだ。
俺が前世で学んだ、数少ない女性の取り扱い方……、いや、気遣いである。
……別に、恋人や奥さんがいたワケじゃないけどな。
それは兎も角として、俺は誠心誠意謝ったあと、土産として渡された津田ベーカリーのパンを見せる。
ラインナップは確認していなかったが、どうやら二人はその内容が大変お気に召したらしく、あっさりと機嫌を直してくれた。
まだ根に持たれている可能性は否定しきれないが、一先ずは安心といったところだろう。
それだけでも俺は、津田さんに対し感謝する気持ちで一杯であった。
◇
「おはよー、ハヤミン」
「おはよう、津田さん。どうしたの? なんだか元気ないみたいだけど……」
「うん、ちょっと寝不足でねぇ」
結局、昨晩はほとんど眠れなかった。
一度に色々なことがありすぎて、情報の整理が全く追いつかなかったのである。
……いや、それ以上に少し興奮気味だったのが原因だろうけど。
「何かあったの?」
「……うん。ちょっと、説明は難しいんだけどね」
誰かに相談したいのは山々なのだけど、事情が事情だけに説明が難しい。
しかも、ハヤミンは以前、神山のことが好きだったのである。
今はもう諦めたらしいけど、その彼女に昨日の件を相談するのは少し気が引ける。
「津田さん、おはよう」
「ッ!?」
どうしたものかと悩んでいると、不意に後ろから声がかかる。
振り向いて確認するまでもない。
声をかけてきたのは、現在私の悩みの種になっている張本人、神山だ。
「か、神山!? お、おはよう」
私はぎこちなく振り返りながら、なんとか作り笑顔でそう返すことができた。
明らかに不審な動きであったけど、神山は特に気にした素振りを見せなかった。
「速水さんも、おはよう」
「う、うん。おはよう、神山君」
ハヤミンも、少しぎこちなく挨拶を返す。
やはり諦めたといっても、まだまだ意識はしているらしい。
「……と、所でどうしたのよ神山。アンタから挨拶に来るなんて」
一応確認はしてみるが、恐らくは昨日のことが関係しているのだろうことは予測できた。
今まで神山が自分から挨拶してくることなんてなかったし、ほぼ間違いないと言っていいだろう。
……あまり考えたくは無いけど、もしかしたら幼稚園のアルバムを確認したのかもしれない。
所詮はただの口約束だしね……
それに、何かの拍子に気づいた可能性だって無くは無い。
私はドキドキしながら神山の返事を待つ。
「まずはお礼を言わせてくれ、昨日持たせてくれたお土産のお陰で、なんとか母さん達のご機嫌取りに成功したよ。ありがとう」
身構えていた私に対して返ってきたのは、ただのお礼であった。
これは完全に想定外である。
そもそも昨日のことであれば、助けられたのはこちらだというのに……
「それに、頂いたパンだけど、本当に美味しかったよ。あんなに美味いパンを食べたのは初めてだ」
さらに、神山はウチのパンについて絶賛し始める。
余程気に入ったのか、それぞれのパンに対する良かった点などを次々に語り始めた。
ウチのパンを美味しいと言ってくれるのは嬉しいのだけど、想定外過ぎて対応に困ってしまう。
「パン……? 津田さんのお家って、パン屋さんなの?」
「あれ、ハヤミンには言ってなかったっけ?」
ナイス、ハヤミン!
良くこのタイミングで突っ込んでくれた!
神山にへの対応に困っていたので、ハヤミンの質問で話の流れが変わって良かった……
「神山君がそんなに絶賛するなら、今度私も行ってみようかな……」
「是非そうするといいよ。あの味を知らないのは人生を損していると言っていい」
「ちょ、言い過ぎだよ! ウチなんてただの個人経営店だし、売り上げだってそんなに良く無いんだよ!?」
って、しまった余計な事を言ってしまった。
「売り上げが良くない……? あの味で?」
ホラ、やっぱり食いついた……
神山が余計なことに首を突っ込みたがるのは、有名な話だ。
怪しげな部活動をしていて、校内外で発生した問題の解決に取り組んでいるのだとか……
ウチのパンを絶賛してくれるのは凄く嬉しいのだけど、余計なことにはあまり首を突っ込んで欲しくない。
こちらにだって知られたくないことの一つや二つくらい、あるのだから……
「ホラ、やっぱり皆、駅前のスーパー利用するじゃない? わざわざパンだけウチに買いに来るのも面倒だし、ね」
実際の所、駅前に出来たスーパーのせいでお客さんが減ったことは事実だ。
元々立地はあまり良くなかったし、お客さんが流れるのも不思議なことではない。
「……成程ね。確かに立地的には少し不利と言えるか。……しかし、あの味を知ってなおスーパーのパンで、本当に満足できるのだろうか? 俺なら絶対できないがな……」
神山はこう言うけど、実際のところ多くの人は味より利便性を取る傾向にある。
特にパンは、代替えがいくらでもきく食品なので尚更だ。
味に関してだって、コンビニで売っているような菓子パンだって十分に美味しいものが売られている。
パン屋の私ですらそう思うのだから、間違いない。
「……しかし、そうか。やはり問題は立地なのだろうな。実に惜しい……」
神山は何やら頭を悩ませているが、とりあえず変な勘ぐり方はしていないようで安心する。
「ふむ。まあ、とりあえず我が家に関しては、今後パンを買うときは津田ベーカリーを利用させてもらうことにするよ。なるべく宣伝もするつもりだから、期待していてくれ」
「う、うん、ありがとう」
私はとりあえずそう返したけど、何故だか不安の方が大きく感じてしまうのであった。
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