第68話 明かされそうで明かされなかった過去



「右に旋回するぞ! しっかり掴まっておけよ!」



「おーーーっ!」



 俺は走ったまま向きを変え、壁沿いに迫る。

 夕日少年にはしっかりと掴まれと言いつつ、手が離れて体が流れても問題ないギリギリの距離を保って旋回。



「ウヒャァーーーーッ♪」



 楽しそうで何よりだが、流石に疲れてきたな…

 前世とは違いしっかり鍛えているとはいえ、20キロ以上はあるだろう少年を担いで走り回るのは中々に重労働だ。


 一体、何故こうなってしまったのか?

 そんな事はわかりきっているのだが、自分に問わずにはいられなかった。

 少なくとも、俺はこうなる事を想定してはいなかったからである。


 事の発端は、この夕日少年に対し、少し痛い目を見せてやろうという俺の行動から始まった。

 何とも大人げない事ではあるが、幼少期の出来事は年齢を重ねてからも悪癖として残る可能性がある。

 目上の者に対しこのような態度を取っていれば、この少年は将来必ず苦労する事になるだろう。

 だからこそ、俺が躾を買って出たというワケだ。

 …決して怒りに駆られた故の行動では無い。


 しかし、想定外だったのは夕日少年の反応である。

 俺は力の差を誇示する為、夕日少年を掴み上げて振り回したのだが、どうやらこれが少年の中で大ヒットだったらしい。

 夕日少年は、それまでの態度がまるで嘘だったかのように俺に懐いてきたのだ。

 毒気を抜かれた俺は、結局そのまま夕日少年と遊ぶかたちになってしまった。

 そんなこんなで、今ではお互いに名前で呼び合う仲にまで発展している。



「あれ、姉ちゃんだ! 姉ちゃーーーん!」



 壁沿いを伝って吉水先生の方に戻る途中、夕日少年が何かに気づいて反応する。

 俺もほぼ同時に気づいたが、アレは…

 俺は夕日少年を担いだまま、吉水先生たちの所へ近づく。



「津田さん…? 何故こんな所に?」



「そ、それはこっちの台詞だよ! なんで神山が夕日と…?」



「それには海よりも深い事情があってだな…。まあ、それはいいとして、夕日が姉ちゃんとか言ってたな。ってことは、夕日が待っていたのは津田さんだったのか」



 園児がこんな時間まで残っているなんて事は、本来であればあり得ない。

 しかし、仕事をしている親向けに、多くの幼稚園では『居残り保育』というシステムが設けられている。

 これは通常の保育時間とは異なり、主に子供を預かる事を目的としたシステムで、大体16時以降がその時間に該当する。

 現在時刻は18時を過ぎており、夕日少年も当然親のお迎え待ちだと思っていたのだが、それがまさか津田さんとはな…

 これも何かの縁だろうか?



「夕日君のお迎えは、いつも朝日ちゃんがしてくれてるの。今日はちょっと遅かったんだけど、神山君がお守りしてくれたから助かっちゃったわ」



「…それは凄く助かったけど、なんでわざわざ神山が?」



「…まあきっかけは些細な事だが、俺もここの卒園生だからな。先輩として、後輩の面倒を見るのは別に不思議な事じゃないだろう?」



 流石に姉の前で、キツク指導するつもりだったなどとは言えない。

 結果的に嘘は吐いていないし、そういう事にしておいた方が良いだろうという判断だった。



「卒園生って、嘘…、神山も、この幼稚園に通ってたの?」



「そうだが…、俺もという事は、まさか津田さんも…?」



 記憶を辿るが、残念ながら覚えは無い…

 本来であれば、子供の頃の記憶だし当然と片付けてしまう所だが、俺の中身はあくまでもおっさんである。

 既に自意識のしっかりしていた俺は、幼少の頃の記憶も鮮明に覚えているのだ。

 にも関わらず、津田 朝日という名前にも、彼女の容姿にもまるで覚えが無い。

 偶々クラスが違ったという事だろうか…?



「あら? もしかして良助君、気付いていなかったの? 結構朝日ちゃんとも仲良かったと思ったけど…?」



 仲が良かった…? 本当に…?

 ………駄目だ、本当に思い出せない。

 まさか、痴呆が始まったなんて事は無いよな…?



「仲が、良かった…?」



 おや? 津田さんもわからないのか?

 まあ、津田さんの場合は正真正銘幼女だったのだろうから当然かもしれないが、なんだか同士を得たようで少し心が軽くなる。

 しかしこうなってくると、俺達の記憶よりも、吉水先生の記憶が疑わしくなってくるな…



「…実は、吉水先生が勘違いしているんじゃ…?」



「な…、ちょっと良助君!? 今先生のこと、ボケ老人かなんかだと思わなかった!?」



「そ、そんな事ありませんよ! さっきも言った通り、先生はお若くて綺麗だと思います!」



「そう? ならいいけど。…でも、さっきのは勘違いって事は無いわよ? だって朝日ちゃんは…」



「ス、ストップ! 先生! それ以上は言わないで! なんか、ヤバイ気がするから!」



「え、ええ? でも…」



「お願い!」



「…わかりました。先生は、良助君の前では絶対この話をしないと誓います」



 ええ…、後でこっそり聞こうと思ってたのに、そんな…

 あんなやり取りをされたら、正直気になって仕方ないんだが…

 だって、ヤバイって…、何がヤバイんだ…?



「ありがとう先生! それと、今日は遅くなってすみませんでした!」



「あら、いいのよ。私も楽しかったし。それにお礼は良助君にも言ってあげて?」



 吉水先生がそう言うと、津田さんは目を泳がせながら挙動不審になる。

 なんだろうか、この反応は…



「あ、あ、あの、今日は、ありがとう? 夕日の面倒見てくれて…?」



 何故疑問形?

 まあ、いいけど…



「いや、俺も久しぶりに目いっぱい体を動かせたし、良い運動になったよ」



「それで…、その…、そろそろ夕日を返して欲しいんだけど…」



「ああ…って、すまない。残念ながら、それは無理そうだ」



「なんで!?」



「御覧の通りだ。夕日少年は完全に熟睡中だよ」



 あれ程うるさかった夕日少年が、津田さんと話し始めた辺りで静かになったのはそのせいである。



「あらあら、余程楽しかったのね~。すっかり熟睡しちゃって…。でもコレ、どうするの?」



「このまま俺が送っていきますよ。起こすのも可哀そうですしね」



 これだけ熟睡しているのを起こすのは、流石に気が引けるというものだ。

 津田さんに預けるという手もあるが、うら若き女子に重荷を持たせて夜道を歩かせるのは流石に酷だろう。



「うん、良助君ならそう言うと思った! じゃあ、夕日君と朝日ちゃんを宜しくね!」



「任せてください。では、また余裕があれば遊びに来ます。それでは…」



 俺はそう告げて門を出る。

 しかし、津田さんは門の中で固まったままであった。



「…津田さん? 早く行こう。そこにいると先生の迷惑になるよ?」



 いくら吉水先生が良い人だからといって、このまま居座られては流石に良い気持ちはしないだろう。

 この時間だと、彼女も既に残業の時間に突入している筈だからな。



「津田さん…?」



 しかし、彼女から応答は無い。

 仕方ないな…



「ほら、津田さん行こう。そもそも君が案内しないと、津田家の場所はわからないんだからね?」



 俺はとりあえず門の中に戻り、津田さんの手を引いて外に出る。

 吉水先生が満面の笑みで手を振ってきたので、こちらも飛び切りの笑顔で返したのだが、何故かドン引かれた。

 人の笑顔にその反応は、流石に理不尽だと思うんだがな…



「って! なんでそうなるの!?」



 津田さんが活動を再開したのは、俺が手を引いて歩き始めてから30秒ほど経った頃であった…



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