断片抄
春里 亮介
インフェリオリティ・コンプレックス(前篇)
鏡の奥にいる自分と目を合わせて始まる朝、スラム街の彼方此方に点在している水溜りから掬った泥のような洗顔剤を穢い顔面に塗りたくって温い水道水で流していた私の行為は日常から逸脱していない。
薄い化粧でさえ私の素肌が頑なに拒絶している為、風邪や花粉症を患っていなくても顔面の三分の二以上を蔽い隠せる大きなマスクを着用して家を出た。会社に着く迄の間は録音した深夜ラジオをいつも聴いている。特段面白いとも思えない芸人が内輪話で盛り上がっているしょうもない音源だったが、世間の雑音をシャットアウトできるものであれば何でもよかった。
始業十分前にオフィスへ入ると、加齢臭を香水にしている課長からもっと早く来いと八十パーセントの確率で注意されるが、大抵無視している。今日も二十パーセントを選ばなかったようだが、課長は舌打ちの反応を追加した。なお、愛嬌の良い他の女子社員が私より後に出社してもこいつ(役職で恭しく呼ぶのに吐気がした)は文句を一切言わず、気持ち悪い視線と笑顔で私を除く女子社員を脳内で抱いているだろう。
派遣社員の仕事は退屈な事務作業が続いてしんどいが、責任は少ない。適当に反感を買うだけで済むし。つまらないミスを私がしても営業課員の男共は眉間に皺を寄せて蔑むだけなのが大半であり、優しい言葉をかけてフォローしてくれるのが少数派だった。
「
流行りの塩顔系俳優に似た腰の低いこの営業課員は珍しくも後者であり、私より年下でもよく出来た人間だと偉そうに評価させていただく。表面上では私を鄭重に扱ってくれている彼でも、ブランド品で武装した高価値な(薄っぺらい)女とプライベートで遊ぶ際に、「職場で使えない女がいるんだけどさー」と黒い部分を見せるのは現実的であるし、私はぐうの音も出ない。空想世界にいる彼の愚痴は当然の行いであり、私はそういった社会の勝ち組へストレスを与えて勝ち組のストレスを解消するサンドバックであることが存在意義なのだ。
一人の時間を大事にしていた、と主張すれば聞こえは良いが……本音を申し上げると似たような顔をした女子社員が蝟集する休憩室に居ると呼吸が苦しくなる為、昼休みは必ず近くの公園のベンチでコンビニ弁当を食べていた。雨の日は仕方なく休憩時間をずらし、空いているファミレスで日替わりランチを選んでいた。今日は晴れ過ぎて直射日光がきついようなので、日傘の影に隠れてベンチに座っていた。梅雨が明けて酷暑の季節に差し掛かる中、都会の公園には人が少なく、ゴミ箱から溢れているペットボトルや食べかけのパンをつつくカラスが目立っていた。
――上京して四年。寂しい人生が続くことに三代リナは何を思う?
小説内の登場人物になりきったつもりで自分に問うが返事は無い。辛苦をかなぐり捨てる覚悟を以ての沈黙だったが、何かに耐えていることを自覚している以上虚しさが募るばかりだ。
鳴き喚く蝉の音をバックミュージックに白米を口へ押し込み、ペットボトルの御茶で喉を潤す。土色のカットソーが汗で皮膚に張り附き、安物のパンプスを脱いで足を組む。此処が自宅だったらスカートを捲って阿保らしい欠伸をするのだが、そこまで落ちぶれたくない最低限のプライドは一応持ち合わせているようなので、羞恥心は大切に心の中へしまっておきたい。
公園といっても、申し訳ない程度に設えた長方形の広場には木陰が乏しい。夏の太陽に出迎えられてわざわざ屋外で暇を潰す変質者は私一人で充分であったが、この時間になると私のような特定のOLが決まってやって来ていた。
顔を覚えてしまったあの子は五月くらいから出現したと思う。流石に梅雨時は屋根の無いベンチに座らないと推し量るが、天候が良くなってから私が昼休みに来るとあの子もいたのだ。今日は……。
ベンチの左端へ寄っていた私は僅かに揺れ、天秤をそっと釣り合わせるような……静かに右傍へ座る者を察知した。
「あの子じゃん」
ゆくりなく、私しか通じない呼称を口に出した。決まって公園へ来るあの子が私の隣へ訪れたのだ。
「こんにちは。お隣、いいですか?」
私の不審な発言も燦々と耀く太陽で包み込み、柔らかい声音であの子が語りかける。パンプスを履き直した私はどうぞ、と端的に許可を出した。
現状の背景を再把握するべく、私の視線は短時間で忙しなく動いた。あの子も私と同じく日傘で紫外線を防禦していたが、品のある純白の彩色から、スーパーで適当に購入した私のと比べてはいけないものであろう。
手のひらサイズの弁当箱をバッグから取り出したあの子の表情は嬉々としていて、整った鼻梁と切れ長の目、くっきりと現れている顎の線……大多数の女性が憧れる美貌を備えていた。背も高く、モデルのような細い脚を七分丈のパンツでより長く見せて、並ばれている私はあの子の魅力を最大限に引き出せる合コンのブス枠でいる。こんな世界どうでもいいな、と投げやりな気持ちを抑えて視路を遠くへ移すと、空いている他のベンチに視点が定まり即座にあの子を主体にした視界へと戻ってきた。
「珍しい人ね。敢えて人のいるベンチを選ぶの」
「昼休みにいつもいるお姉さんとお話できれば、と思いまして」
冷たい口調であったかもしれないが、あの子はプチトマトを箸でつまみ乍ら積極的な姿勢を私に分からせた。
「あなたも似たようなことを思っていたのね。何でいつも公園にいるのよ」
「一人でいる時間が好きなので」
「同感だけど。暑いじゃない。何処かのカフェで過ごしてもいいんじゃないの」
それもそうですね、とあの子は頭を擡げてから言葉を紡いだ。「逆にお姉さんは蒸し暑い季節になっても、どうして外でお過ごしなのですか」
「外食するお金が無いってのもあるけど、なんとなくだよ」
他人と同じ空間を共有するのが億劫だから、というのが私の本音であったが実際には違う返答が声になった。珍しいことだ。
そうですか、とあの子は無難な相槌を打ち、黙々と食事を始めた。私は既に食べ終わり、ビニール袋にゴミを入れて縛った。無言は夏の音で掻き消されているので苦痛ではないと見做していたはずが、蝉の断末魔をずっと聴いていると気が狂いそうになったので仕方なく私から話材を与えた。ってか、歩み寄ったあんたから話すなら話せよ。
「会社、この近くなの」
「あ、はい。B社で営業事務の仕事をしています」
「え? B社って鋼管材とか扱っている商社でしょ。 私、同業他社のE社にいるの。名前知ってる?」
「あっ! お姉さん、E社の人だったのですか。それは失礼しました……」
苦笑いを浮かべて謝罪をしたあの子は、ライバル会社の人間に馴れ馴れしく近寄ったことによる愚かさを感じたらしい。でも、私は一向に構わない。そもそも、同じ業界で鎬を削る二社が徒歩で移動できる距離に事務所を構えているのが悪いのだ、と言ってしまうのは暴論になるだろうか。
「別にいいよ。私、会社に対する忠誠心はこれっぽっちもないし。にしてもあんたも大変ね。この業界の営業マンって頭の固い化石みたいなクソ親父しかいないでしょ」
躊躇なく悪態をつく私の発言に、あの子は口を隠して破顔した。
「全くですねえ。お姉さんもE社で苦労されていそう……」
「まあね。ああ、お姉さんってやめてよ。あんたとそんなに年、変わらないと思うし。私、三代リナ」
遅れた自己紹介を告げると、あの子は口に入れたブロッコリーを一生懸命に咀嚼し、水筒で喉へ押し込んでから答えてくれた。
「ご、ごめんなさいリナさん。礼儀がなくって」と、あの子は私の下の名前を自然に呼んでくれた。まるで中学からの同級生であることを保証してくれるように。
「あたし、
その瞬間、身元を不明にしていた《あの子》は喪失し、こんな私に関与することを選んだ奇特な人……樋野ヨシカが顕現された。
ヨシカとの繋がりはその日に留まらず、雨でなければ此処のベンチで昼休みに会おうと約束をした。別に雨の場合は場所を変えて落ち合っても良かったのだが、梅雨明けの今は快晴が続いていたのでそう深く考えていなかった。
私とヨシカの関係が続いたのは意外であった。所々遠慮しながらも、彼女から話題を振ってくれる。ヨシカは今年二十六になるらしく、私の一個下らしい。また、大学では私と同じ経済学部を専行していたが、私と違って知名度も偏差値も高い難関の国公立大であった。第六志望の私立大で無駄な四年間を過ごした私は恥ずかしくて大学名を言えなかったが、ヨシカは私との係累を示すようないくつかの共通点に喜んでくれた。
「あたしとリナさんって、似ていますよねえ。同じようなことを勉強してきて、同じような職場で働き、同じ公園で日傘を差して佇んでシンクロしていたんですよ」
二日に一回は(統計期間は二週間程度であるが)、そんなことをヨシカは喋っていた。私は可もなく不可もない相槌を打ち、熱中症になりつつある身体をペットボトルの緑茶で誤魔化した。
「ヨシカは暑くないのか? 確か……五月からだっけ。此処に来ていたのって」
「ええ」
「年中、公園で昼メシを食べるのか? ってか、今までもそうしていたのか?」
素朴な疑問に対してヨシカは頭を擡げ、結局そのまま答えずはにかんで、その日の別れに至ったこともある。
私の卑見というより客観的な総意になるが、世間からズレているのは私だけでない。むしろ、奇特な私に接点を持った彼女の方が変わり者である。
そういえば、一人の時間を邪魔されたことを不愉快だと感じそびれていた。他者の明朗な空気を吸って瘴気を吐くことを回避するために私は孤独を選択していたのに、自分の許へ来るヨシカを拒絶しようと試みる自分は存外いなく、日傘の下で向日葵の笑顔を優美に咲かす彼女に紐で引っ張られているかのように、今の私は公園へ引き寄せられていたのだ。
――唐突であるが、私とヨシカの未来へ先駆している存在者になりきって一言残させてもらう。社会人の大半が待望している夏休みの直前、二人の関係性を良くも悪くも更新させるイベントが発生した、と。
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