エビチリおばさんと豆乳おじさん
深瀬はる
第1話 ある日の山田苑
僕の家の近所に、小さな中華料理屋がある。「山田苑」と書かれたのれんは、作られたばかりのころは赤い布地に白文字がさぞ映えただろうが、今ではすっかり見る影もない。
山田何某さんが切り盛りしているのだろうと勝手に想像しているその店に、僕自身は入ったのことはないのだが、食事時にはカウンター十席程度とテーブル二つがそれなりに埋まっており、繁盛しているようだった。
どこの町にもこういう昔ながらの定食屋はぽつぽつあるもので、僕も幼いころは実家近くの、こう言ってはなんだが汚い店に、何度か父に連れられたことを覚えている。
父は定食屋の主人やなじみの客同士で談笑していて、僕は大人の話はよくわからないので小さいテレビで野球やバラエティー番組を眺めていたものだ。たまに、酔ったおじさんにお小遣いをもらった。
春に転勤で今の町に引っ越してきた僕は、この数か月忙しさに殺され続け、会社と家を往復するだけの生活を送っていた。大好きなラーメン屋巡りはおろか、ろくに散歩もしていなかったが、会社までの道のりにある山田苑は、幼いころを思い出すようで妙に気になっていた。
こっちに来てからずっと携わっていたプロジェクトがようやく落ち着き、ある日僕は同プロジェクトの先輩に食事に誘われた。
「面白い店があるんだ」
掛川さんは無類の酒好きだ。そんな彼が、
「酒がねぇのは惜しいんだけどな」
という店をわざわざ提案してきたのだ。さぞかしおいしい店に違いない。
掛川さんと歩く道は、よく知った道だった。それどころか、毎日往復している。そして目の前には薄汚れたのれんがぶら下がっていた。
『山田苑』
「やまだー! ゆいさんが来てやったぞ」
掛川さんは店内に声をかけながら扉を開け、近くのカウンター席に座った。
「何してる、はよ来い」
促され、僕は彼の隣に腰かけた。
外から通り過ぎ際に見かけるだけだは分からなかったが、店内の壁いたるところにチェブラーシカのポスターが貼ってあった。さらに、額に入った「つけものファンクラブ」の会員証。
「もう来ないでくださいって言ったでしょ」
現れたのは、二十代半ばの若い女性だった。てっきり定年後の老夫婦の道楽だと思っていた。しかし、それにしても、
「……小さい」
思っていることが声に出てしまった。彼女の身長は150センチに満たないだろう。
掛川さんといきなり言い合いをしていた彼女は、キッと僕を睨んだ。
「誰ですかこの人」
「後輩の幸太」
掛川さんが言った。どうも、と言いながら僕は小さく会釈した。
「幸太、初対面でそれはいくらなんでもかわいそうだろ。こいつ結構気にしてんのに」
大変失礼なことを言ってしまった。女性は、男性ほどは自身の背丈を気にしないものだと思っていた。
「三回に一回くらいめっちゃかわいいんだけど、三回に百回くらい貧乳だからな」
「うっさい! てかゆいさんのが胸ないでしょー」
「無念。胸だけに」
うん。どうやら盛大に勘違いされたみたいだ。
彼女は、山田恵子というらしい。恵子ちゃんは、まん丸の目にぷるぷるの唇、ボブのよく似合うかわいらしい子だった。掛川さん曰く、三回に一回しかかわいくないとのことだが、そんなレベルではないことは断言できる。
「注文は? 早く食べて帰ってください、できれば今すぐ帰ってください」
掛川さんは天津飯と餃子、僕はエビチリとライスセットを注文した。
恵子ちゃんが厨房に引っ込んだところで、僕は掛川さんに恵子ちゃんとの関係を聞いてみた。
恵子ちゃんは大学時代のサークルの後輩。サークルメンバーは掛川さんの下の名前「優一」を略して「ゆい」と呼んでいたらしい。そして、僕からすれば非常に仲が良いように見えるのだが、本人たちからしてみれば、
「えっ⁉ 即死しろって思ってんだけど」
「は? ゆいさんの遺言早く聞きたい」
と、そのような評価に不服のようだ。
僕たちの目の前に置かれたのは、エビチリが二皿。
「何だこれ、頼んでねぇんだけど。餃子は?」
「ゆいさんの分を別に作るのめんどくさかったんで、二人でエビチリ食べてくれません? それに私エビチリ好きなんですよ。エビ、えーびっちり! って感じ」
「つまんね。エビチリおばさんかよ」
文句を言いながらも、掛川さんは勢いよくエビチリを口に放り込んでいく。恵子ちゃんはなぜか「ルージュの伝言」を口ずさみながら、ペンギンズのポスターを壁に貼り始めた。ちなみに、その横には本郷奏多カレンダーが掛けてある。
店を出る時、恵子ちゃんは掛川さんに塩を撒いていた。
「次来るときは豆乳持ってくるわ」
「散々飲んだけど全然大きくなりませんでしたよ! てかもう来んな」
「飲んだのかよ。まぁ確かに豆みたいな乳してんな」
「あ?」
こうして店先で三十分ほど時間を使い、ようやくお開きになった。
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