第3話
「ごだ…」
「ごたいく…」
「ごたいくん!」
枕元のランプに灯されるリッカさんの顔が目の前にあった。
「大丈夫!?すごく魘されてたの。汗もビショビショですごく辛そうだから、あまりに心配で…」
そういう彼女の目には、涙の後が見て取れた。
「ああ、あ」
うまく言葉が出てこない。
「とりあえず服を着替えた方と思う。」
リッカさんは確かにそう言ったが、僕は言葉として理解できないでいた。
「あの、上、脱がすよ?」
そう、リッカさんは断りだけいれて、僕のパジャマの上着を脱がしていく。
「わ、すごい汗…」
リッカさんはタオルを持って、僕の上半身の汗を拭き取っていく。
身体に心地よいタオルの接触を感じ、頭が冴えてくると、僕は衝撃的にリッカさんを怯えたように、抱きしめた。
リッカさんは、最初びくっとしたが、僕の汗だくの頭をタオルでゴシゴシしながら、軽く抱擁してくれた。
人間、死を目の前にすると、性欲が沸き立つと言うが、そういう事なのだろうか。
いつの間にか、手が自然にリッカさんのパジャマの中に伸びていた。
リッカさんは、優しく手で手を止め、言った。
「ダメ。その、嫌じゃないけど。」
その拒絶は、無理矢理押し通す事ができる類の拒絶である事を本能的に悟ったが、そこまで考えた事で眠った理性を取り戻す事ができた。
僕は、自分のした事を改めて自覚し、リッカさんのパジャマから手を抜いた。
「ごめん。」
「ダメ、許さない。罰として、もう少しこうしてる事。」
言われる通りに、僕は彼女の抱擁に身を任せた。
それは、確かに興奮した自分自身にとっては刑罰だったに違いないが、僕の心には癒し以外の何でも無かった。
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ふと、カーテンの方を見ると、薄っすら日が登る前の早朝のわずかな明るみが零れていた。
「朝だ。」
僕は、ただそう言った。
生きている。
朝がきた。僕は生きている。
朝が来る事がこんなにありがたい事だと感じたのは、初めてだ。
「そうね、朝よ。」
リッカさんは、いつもより大人びた優しい声で、復唱した。
「シャワー、浴びるね。ありがとう。落ち着いた。」
僕は、そう言って、リッカさんの抱擁から体を引くと、バスルームへ足を運んだ。
ザーという音の中、普段浴びるより温度を高く設定した熱いシャワーのお湯が僕の体を包みこむ。
あんなにリアルな夢は、初めての経験だった。目を閉じれば、鮮明に思い出される一日の記憶とゲームの光景。
スキーのストックが刺さった胸の辺りに手を当てて、僕は傷跡を探すが、何の痕跡も見られない。
「夢、だったんだよな…」
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「コーヒー飲む?」
「あ、いいね。頂く。」
シャワーを浴びても尚暖かい飲み物が欲しくて、食堂に着いた僕らは、飲み物のセルフコーナーに流れついた。
リッカさんは、小さく頷くと、個別包装のコップに載せてお湯を注ぐタイプのコーヒーとフィルタをコップの上にセットした。
「ねえ」
「ゆめ」
僕はリッカさんの言葉と被ったが、言い切った。
「夢を見たんだ。」
「すごくリアルで、」
「恐い夢だった。」
僕が言葉を紡ぐように吐き出す度に、リッカさんは優しく頷く。
言葉を繋ごうとするが、生唾を飲むだけで、喉から出ない。
「無理、しないでいいよ。」
リッカさんは、微笑をたたえていた。
僕はその言葉に甘えて、口を噤んだ。
「あ、ビスケットもあるね。値段書いてないし、少しだけ貰っちゃおっー」
リッカさんは、飲み物コーナーの下の棚からビスケットを探し出すと、おもむろに開けていく。
口にビスケットを頬張りながら、眉毛を軽く上げて、指で挟んだビスケットを僕の方に向ける。
「あっ、僕はいいよ。」
「ってか、値段ついてなかったらタダなのかい!」
自分の口調が少しづつ『普段通り』になっていく事に安堵していた。
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僕とリッカさんは、食堂で朝食を待つことにした。
他愛の話に区切りがついたところで、僕は、少し前から思っていた事を口にした。
「なんか、このペンション懐かしい感じがするんだよね。」
「あ、その感じ分かるかも。家庭的だし、置いてあるものもどことなくレトロっていうの?古臭さじゃなくて、古風な良いペンションって感じ。」
リッカさんは、鳩時計の方を見ながら言う。
「んー、それもそうなんだけどさ。それだけって事じゃないんだよね・・・」
「どっかで例のゲームの動画を見たんじゃないの?ペンションが、舞台として使われたやつ。」
「見てないしやってないと思うんだけどなぁ・・・」
そうしていると、コーヒーと朝食の香りが厨房から溢れ出してきた。
「早くからお待たせしましたね。どうぞ。」
スープとパンをテーブルに持ってきてくれたのは、最初に玄関で出迎えてくれた女性だ。
「仲がいいのね、羨ましいわ。」
リッカさんは、顔を赤くしていたが、僕は微妙な気持ちになった。
ご主人とうまくいっていないのだろうか?
本当は、「オーナーの奥様ですか?」と聞きたかったのだが、先ほどの発言の後だとその聞き方は気まずい。
「従業員の方ですか?」
僕は、ワンクッション質問を和らげた。
「そうよ、住み込みで働いてるの。」
「春江さんー?」
厨房の方で名前を呼ぶ声が聞こえる。オーナーだ。
「あっ、呼ばれちゃった。」
「紅茶とコーヒーどちらをお持ちします?」
「コーヒーで。」
僕とリッカさんとほぼ同時に答えた。
春江さんと呼ばれた従業員は、そそくさと厨房へ消えていった。
こんなところで中年男女二人でペンションを経営するなど、オーナー婦人だろうと僕の中で決め込んでいた。
「こんなところで、中年の男女が二人でペンション経営って、色々ありそうね。
二人とも独身なのかな。」
リッカさんは、小声で、疑問を口にする。リッカさんも同じような疑問を抱えていたのだ。
「なんだろうね。結婚してないだけかもよ?どんな事情かは知らないけど。」
パンとスープを口に運びながら小声で話していると、従業員さんが近づいてきて、飲み物とスクランブルエッグとソーセージとサラダが乗った大皿の料理を給仕された。
僕らは、最初から待っていたので一番乗りで食べていたが、一階で泊まっていた宿泊客も、続々と空いたテーブルを埋めていき、食堂は徐々に賑やかになっていく。
僕とリッカさんがほぼ食べ終えた頃、ドタドタと言う階段を下りてくる足音が廊下から聞こえてくる。
食堂に顔を覗かせたのは、せいちゃんだった。
「ごだいくん、リッカさん、パパがまだ寝たいんだって。せいちゃん先にご飯食べるんだって。」
「ちょ、パパ、何やってんのんー。しょうがないね、せいちゃん、隣座る?」
リッカさんは、隣の席を後ろにずらして、せいちゃんを席に座らせた。
スープとパンとオレンジジュースが運ばれてくると、せいちゃんはスープにパンをつけて、むしゃむしゃ食べ始めた。パンにつけたスープがボトボトと垂れてしまっている。僕は、立ち上がって、せいちゃんの椅子を押して、深く座らせた。
「ごだい、わかってるのじゃないの。」
「ちょ、馬鹿にすんなよ?見ればわかるじゃ。」
「それでも、男って中々さっと動けないものよ。ねー、せーちゃん?」
せーちゃんは、パンを頬張りながら首をコクンと縦に振った。話がわかっている感じではない。
せいちゃんがパンを食べ終わると、また階段から人が降りてくる音が聞こえる。今度は、ツヨカヨの二人だろうと思ったが、足音は一人分だ。
食堂に、姿を現したのは、スーツの上に、毛皮のロングコートを着込み、マスクをし、サングラスをかけ、帽子を深く被ったいかにも怪しげな男だった。マスクの下には、白くて長い髭が伸びていて、顔下半分を覆っている。まるで、会社員になったサンタクロースのようだ。
怪しげな男は、二人掛けのテーブルに一人で座ると、パンとスープをもってこようとするアルバイトさんになにやら手で説明している。オーナー婦人の返しの言葉から判断するに、『料理は要らない、コーヒーだけくれ』と言った内容のやり取りだったのだろう。
「ねー、あれ、パパだよね?」
せいちゃんは、怪しげな男をチラッとみた後に、指をさしながら小声で言った。
そういわれてみれば、オジさんの体格とそっくりだった。髭が濃すぎてわかりにくいが、輪郭も似ているかもしれない。髭は、付け髭だろうか?
「ああ、本当だ。言われてみれば、せいちゃんのパパだね。」
リッカさんは、言われて、確信したらしい。
「どうしよっか。変装してるってことは、ばれたくないだろうねぇ。なんだかおもしろそうだし、少し黙っててあげよっか。」
リッカさんが提案すると、せいちゃんは首を縦に振って、指をそっと自分の唇に当てて、「しー」と笑いながら言った。
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僕らは、とっくに食事が終わっていたが、ツヨカヨも降りてきたので、彼らが食事をする間、同席する流れになった。せいちゃんは、リビングの玩具で一人で遊んでいる。
「んで、二人は昨日は、どこまでいったん?」
会話が途切れた瞬間、見計らったように、カヨが微妙な質問を投げかけてきた。
『ぶふっ』と声がして、横を見るとリッカさんは、口にしたコーヒーで咽ていた。
背中をポンポンと叩いてやると、リッカさんはお礼を返した。
うろたえたリッカさんを見て、僕は逆に心が静まった。
「どこまでも何も、何もありませんよ。」
質問の意図を汲めば、この答えは嘘ではない。カヨさんの目を見ながら答えたが、どことなく落ち着かないので、僕も、コーヒーカップに手を伸ばした。代わる代わる付き合いで座っているので、すでに三杯目だ。
「リッカちゃんは、そうおもっとらんみたいやけどなー。顔真っ赤やで。」
ツヨが、関西弁で突っ込みを入れる。ツヨは、関西弁と標準語が混同した話し方をする人だ。
「顔が真っ赤、なのは、咽た、から、だから!」
リッカさんは、咽たての喉で詰まらせながら、説明した。
「せやか、まぁええ、大体わかった。外で、タバコ吸ってくるわ。」
そういうとツヨは、席を立ち、僕の肩を右手で二回力強く叩いて、立ち去っていった。カヨもそれに続く。
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リビングが、なにやら騒がしい。声から判断するに、朝食の片付けもそのままに、従業員の春江さんがせいちゃんと遊んでいるようだ。
一応、せいちゃんの保護を頼まれている身であるし、僕とリッカさんは、リビングに足を向けていた。
集中して遊んでいる二人はそのままに、リビングのソファに腰掛け、二人の様子を眺める。
春江さんは、相当こどもが好きなのだろう。本当に楽しそうに、せいちゃんと遊んでいた。
「子供、欲しいですよね……」
突然寂しそうな顔をすると、小さな声で呟いた。
僕は、先ほどの春江さんの『羨ましいです』も思い出して、なんと言って良いのか分からなかった。
「お相手は、オーナーさんですか?」
リッカさんは、唐突にピンポイントに突っ込んだ。
それは地雷なんじゃないかと思い、僕は一瞬ヒヤっとする。
春江さんは、くるっとリッカさんの方を振り向いた。
「えぇ……
その付き合っているとは言えるのですが。先に進めない理由があるみたいで…
悩みがあるなら、話してくれればいいんですけどね。」
せめて微笑を作ろうとするのに失敗し、憂いな表情を隠せない。
僕は、何を言って良いのか分からないが、リッカさんは迷わず言った。
「オーナーさんもきっと春江さんの事を気遣って黙ってるんですよ。
今はまだ言えない…時を待ってるのかも知れない。
だって、半分仕事とは言え、こんな辺鄙なところで一緒に暮らそうって思う人ですよ?特別に決まってます!」
「春江さん、そろそろお願いしますー」
厨房からオーナーの声が聞こえる。休憩中だったのだろう。
「すいませんね、折角の楽しい旅行なのに、暗い話しちゃって。
でも、ありがとう。また待ってみます。」
表情は、どことなく寂しいままだが、少しだけ目に光が灯った感じがしたのは気のせいだろうか。
「今行きますー」
そういって、彼女は、厨房に駆け出して行った。
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