上司は店子
やましん(テンパー)
『上司は店子』
父は、金持ちです。
大きな賃貸マンションを、みっつも持っています。
入居率も高くて好調です。
そのほかにも、いくつか会社を経営していました。
まあ、ぼくは、そのおかげで、ここまで大きくなりました。
とはいえ、ぼく自身は、今はサラリーマンの身です。
マンションの最上階と、そのもう一つ下に自宅がありますが、父とはあまり話もしません。
親子断絶状態と言いますか、まあ、そんな感じです。
ちなみに、もうひとつ下の階には、父の会社がありました。
はっきり言いまして、父とは、基本的な考え方の基準が違うのです。
父は、経済団体とかの役員さんで、さかんに政治運動とかもやってますし、人前で演説したりするのが、もう大好きです。でも、ぼくには、そのあたりには、まったく関心がありません。
父の会社は、多分、兄が継ぐのでしょう。
ぼくの今の仕事は、市の『悩み事相談所』の相談員です。
ちょっと資格とか、持っていましたからね。
しかし、正規職員じゃあなくて、短期アルバイトです。
体調の事は、あまり話していませんでした。
仕事ですから、責任がない訳ではないけれど、特に地位はありませんでした。
この度、新しい相談所長さんが異動してきました。
ぼくよりも多分若い、女性の方で、かなりのキャリアとか。
分厚い眼鏡をいつもかけていましたが、まだ20歳代から、やっと抜け出したあたりらしいです。
前の所長さんは、ノンキャリのおじさんで、ここで定年となり、勤務延長もせずに、いなくなりました。
いつも、にこにことした、ほんわかとした優しい方で、あまり厳しいモノの言い方はしない人でした。
ぼくには、最高の上司だったのです。
ここの所長さんは、キャリアとノンキャリの方とが、交互にやってくるのだそうです。
最初の挨拶の時から、彼女はもう、飛ばしていました。
「妥協は、一切なしです。すべては結果で判断します。相談に来られる方に満足していただけるように、常に自己研修して下さい。また、数値管理を徹底してください。コスト管理も厳密にお願いします。コピー1枚、無駄にしないでください。電気代も徹底管理します。一切の無駄は、排除します。無駄口もなしですから。よろしくお願いいたします。気を引き締めて、ゆきましょう。」
父が、自分の会社で話しているのとそっくりだとも思いましたし、まあ、当然のお話ではあるものの、あまり最初から飛ばすと、また、多少は気持ちの余裕というものがないと、ぼくのように、ぽきっと、折れてしまうのが、ちょっと心配でしたが。
ぼくが、父の会社を退職したのも、そんなことが原因でしたから。
しかし、実のところ、彼女はそんな心配など一切必要がない、鋼鉄の精神を備えた女性のようでした。
ただ、それからというもの、なんだか、毎日、針の山に座っているような日々になりました。
ぼくは基本的には、めったにお客様と、もめたりはしません。
しかし、ご相談の内容は多岐にわたり、けっこう大変なのです。
自分で回答ができない事は、きちんと専門部署につながなくてはなりません。
ぼくは、そうは言っても、やはりちょっとだけ病気持ちなので、彼女の悪魔のような視線が、かなり気にはなっておりました。
でも、後から聞けば、他の職員さんも、けっこう、そうだったらしいのですけれど。
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さて、ぼく自身は、マンション管理のお仕事などにも、一切、かかわってはいませんでしたが、時々トラブルなどで、自宅に押し掛けてくる方もあったりいたします。
ぼくは、たまたまそうしたケースに出くわしても、応接室に案内するくらいで、それ以上の関与はいたしません。
それは、まあ、家庭内の、お約束事項でもあります。
しかし、彼女が殴り込んできた時には、さすがにびっくりしました。
ようやく春も過ぎ、初夏の香りと、雨の香りが交錯していた時期です。
あんな顔の彼女は、昼間には全く見る事がありませんでした。
いつも、冷静沈着で、第三者的に客観的な人でしたから。
相談所にも、大声で苦情を言って来る方はありますが、彼女はいつも、慌てず騒がず、落ち着いて対応します。
そこらあたりは、なかなか大物の風情があったのです。
でも、その晩の彼女は違っていました。
なんだか、目が血走っているようで、ちょっと恐ろしい感じでした。
「もう、うるさくて、部屋にいられないでしょう! なんですか、このマンションは! いったい、なんで! ・・・あら、なんで、あ、あなたがここに居るの!」
彼女は叫びました。
「あの、ここが自宅だから。住所、見てなかったですか?」
「あ・・・・・」
そうなのです、全職員の住所録は作成していますが、幹部の人以外は、緊急連絡先の外は知りません。
彼女は『知っていたはず』なのです。
「あなた、ここの仕事もしてるのですか?」
彼女は、こんどは、急に心配そうに尋ねました。
「いいえ、ぼくはノータッチですから。どうぞ応接室に。母が対応しますので。専務ですから。」
ぼくは彼女を応接室に入れ、母に引き継ぎました。
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「あのかた、少し病気かも。」
母が言いました。
「やんわりと、病院行って見たら・・・と言ったけど。いつでも、相談に来たらいいとは、伝えたの。まあ、おたがい『個人情報』だから、あまり込み入った話はできないけどね。でも、かなり孤独みたいね。相談所の所長さんなのにね、相談できる人は、誰もいないみたいね。ご家族もないみたいだし。」
母は、面倒見が良すぎる性格の人です。
まあ、父があれで持っているのは、母のおかげなのですが、父自身は全然、そうは思っては、いないらしいのですが。
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所長様は、次の日から病気休暇になりました。
まあ、あれで、かなり無理していたんでしょうな。
相談所長で来ると言う事は、実は、ラインからは一歩外されたという事でもあったのですから。
その前の部署では、いろいろと、ややこしいもめごとがあったらしく、聞きました。
しかし、それからも、彼女は週に2~3回は、母のところに来て、なんだかんだと、世間話をしていました。
ぼくは、その後すぐに、その相談所を退職しました。
母は、事務員で会社に帰ってきたら?と言いましたが、父の会社に戻るのは、絶対に嫌だったので、小さな食品会社の製造員として、就職し直しました。
給料はむしろ、最低賃金の方に限りなく近かったけれども、今度はなんとか、正社員です。
そのかわり、仕事自体は、あまり難しくはありません。
箱を作ったり、商品を箱詰めにしたり、発送作業をしたりです。
ただし、肩こりは、かなり激しいのですが。
なので、いったい何時まで持つかは怪しいとは、自分でも思いますけれど、あまり深く考えて、またまた、悩み過ぎないようにと、お医者様には言われております。
ぼくの場合は、住むところも、家庭のバックアップもあるので、恵まれてはいます。
世の中には、ほんとうに自分では、もう、どうにもならない苦しみに囲まれてしまっている方が、ずいぶんと、多いのですから。
でも、彼女とのお付き合いが始まったのは、そのころからでした。
体調不調は、ぼくの方が先輩です。
いくらかうまく行きだしたら、最上階からは、出て行こうと思っています。
ただし、彼女は、その堅い殻は、なかなか脱ぎませんでしたけれどもね。
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上司は店子 やましん(テンパー) @yamashin-2
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