第81話 文化祭Xlll

 途中何度か、廊下を走っているのを先生に目撃され注意を受けた俺は、ようやく屋上へと続く扉の前にたどり着いた。……正直、説教を受けていた時間を考えると、歩いて屋上に向かった方が早く屋上についていたのではないかという考えが頭をよぎったが、いい運動になったとポジティブに考えることにした。ネガティブ思考はよくないよくない。さっき、冬川にも卑屈になるなと言われたじゃないか。あれ、微妙に意味が違うような、という疑問は箱の中に閉じ込めて、屋上へと続く扉を押し開ける。

 扉が開くに従い、西日が少しずつ目の中に入り込んでくる。まぶしさに目を細めながら見えた視界の先には人影があった。柵に両腕をのせ、西日の方へと視線を向けている一人の人影――晴人だ。

「……晴人、そんなところで何してるんだ」

 どう声を掛ければいいのか分からず、何の意味もない無機質な質問が口から飛び出した。

「……春樹かい。よくここがわかったね」

 振り向いた晴人の顔はひどく疲れているようにみえた。相当な無理をしているのだろう。

「もし辛いなら、本当に降りても構わないんだぞ。上手く書けるかはわからないが、プロットは俺が書いてもいいし」

 口に手を当て腹を押さえながら、その場で体を丸める晴人。

「……何笑ってるんだよ。俺が折角、気を遣ってやってるのに」

 こちらを向いた晴人は、眼尻に浮かべた涙を拭きとる仕草をした。

「いや、春樹の口からまさかそんな僕を労わるような言葉が出るなんて。ちょっとびっくりしただけだよ」

 どんだけ俺のことを人でなしだと思っていたんだ、こいつは。俺様ちょっとショックだよ、晴人さん。

「……ありがとう。吹っ切れたよ。大丈夫、今度こそ本当に明日には原稿を見せられると思う。いや、必ず絶対に見せるよ、明日」

 目に力強い光を宿しながら、西日を背に受けながら、晴人はそんな言葉を紡いだ。

「わかった。その言葉を信じる」

 ここで信じてやらなきゃ、何が腐れ縁だ。晴人は頼りないところもある奴だが、必ずやると言ったことは絶対に成し遂げる男だ。それは中学からの付き合いで、身に染みるほどに知っている。染みすぎて晴人色に染まるくらいに理解している。

 ただ、根本的な問題はまだ解かれていない。結果は同じようであっても、その過程が異なればおのずと結果のどこかにも違いが生まれてくる。たとえそれが目には見えなかったとしても、過程を間違ってしまえば結果にほころびが生じてしまう。

「一つ聞かせてくれ。……どうして昔に戻ろうとしているんだ」

 俺の質問を予期していたのか、それとも突かれても痛くない話題なのか。晴人は表情を変えることなく俺の質問を聞いていた。

「再び歩き始めなければならないと気付いたからさ。中学のあの頃、僕は考え方を変えた。変わらなければならないと思ったんだ。そのときの僕の判断が間違いだったとは思わない。あれはあれで、あの頃の僕には必要だったからね。後悔はしていないよ」

 言葉は淀みなく、屋上の空気を震わして俺のもとへと飛んでくる。

「でも、それは中学のあの頃の話で、今の僕は知識をひたすらに求める必要はなくなった。なくなったというのは言い過ぎかもしれない。それほど重要ではなくなった。知識を蓄積するよりも、自分の頭で考えることがより大切になってきたんだ。だから僕はプロットを考えるのを担当することにした。これをきっかけに昔の自分のように、考える自分が当たり前に僕の日常に戻ることを期待していた。……そんなに簡単なものではなかったことは、とても身に染みて分かったけどね。一週間プロットについて考えをまとめようとしたけれど、何も思い浮かばなかったんだから」

 いつもよりも投げやりな口調を聞き、晴人が相当追い詰められているのを痛感する。

「……でも大丈夫。さっきも言ったけれど、明日にはプロットの構想を話すから。安心して」

 晴人がプロットを提出すること。確かにそれは相談部の部活動としてはとても大切なことだ。マイルストーンだ。しかし、たとえそのマイルストーンが達成されたとしても、晴人にとってはどうなんだ。プロットを提出したとしても、晴人の行き詰った現状や立ちはだかる問題を乗り越えたとは言えないのではないか。相談部にとっては同じ結果かもしれないが、晴人個人にとっての、そして腐れ縁である俺にとってのマイルストーンは別のところにあるのではないか。そう思えて仕方ない。

「もう少し詳しく教えてくれないか。例えば、《あの頃》というのは一体何のことなんだ」

 このまま屋上を立ち去ってしまいそうな雰囲気を醸し出していた晴人を呼び止めるように、俺は問いかける。

「それは言えない。申し訳ないけれど」

 間髪入れずに断固として口調で、彼の目は揺るぎない意志を宿していた。

「なんで――」

「どれだけ何を言われようとも、これだけは言えないよ。特に春樹には絶対にね」

 俺だけ? どうして。

 その気持ちが俺の喉元までせり上がってきた。しかし、晴人がその言葉を紡がれることを良しとしていなかった。もうこれ以上は何を聞かれても返答はしないという固く強い意志がひしひしと屋上の空気を伝わって感じられた。

 このようにまでして、晴人が知られたくないこととはいったい何なのか。

 何としてでも聞かなければ、聞き出さなければならない。そうでなければ晴人は、そして俺も前に進めないことは分かっていた。それでも、俺の中に潜むもう一人の偽善者が、その行動を抑制するように促してくる――晴人を傷つけてしまうのではないかという理由を盾にして、俺の前に立ちふさがっていた。そもそも、俺自身が偽善者でしかないのかもしれなかった。もう一人ではなく、俺はやっぱり俺一人で、その俺が偽善者であるということなのかもしれなかった。

 そうした俺の心の迷いが伝わったのか、晴人は俺を一瞥すると、そのまま俺の横を通り過ぎ、閉ざされていた屋上の扉を開け、校舎の中へと戻っていった。

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