第60話 夏休みXIII

 どれくらいの時間歩いただろうか。前方に光が見えてくる。光と言っても薄暗いものではあるが。夕方という時間帯に相応しい、その薄暗い空間に足を踏み入れた俺は、思わず息をのんでしまった。息を吐くことを忘れてしまった。

「きれい」

 秋月のその言葉を、普段の俺であれば、もっといい言い回しがあるだろう、などと一蹴しただろうが、このときばかりは俺も何も言うことができなかった。何も言わなかった。その通りだった。言葉では語ることができない光景がそこにはあった。

 それでも言葉で語れというのであれば、一言で語るべきだろう。この光景を説明するにはどんな言葉でも蛇足となってしまうだろうから。

「満天の星」

 その言葉を誰が紡いだのかはわからない。秋月かもしれないし、高坂か倉敷のどちらかもしくは二人ともが呟いたのかもしれない。それとも俺自身が――。とにかく、その言葉こそ、この場において唯一発することを許された言葉だと俺は直感した。論理とか道理とか、そういったものを超越した考えだった。考えというよりは思いといったほうがいいのかもしれない。

 夕方なのに、星空がこんなにも輝いて見えるだなんて。

 俺たち四人がその光景に見惚れてると、不意に石を蹴り飛ばしたような音が反響した。俺たちは互いに顔を見合わせるも、誰も心当たりがないような表情を浮かべている。奥へと続く木々に囲まれた周りの空間に光を順番に当てていく。すると、一本の木の下に蹲る人影があった――あの服は冬川だ。

 俺たちは彼女のもとへと駆け寄る。

「凛! 急にいなくなって心配したじゃない」

 伏せていた顔をゆっくりとこちらへと向けた冬川は、幽霊でも見たかのような驚いた表情をしていた。

「……どうして、あなたたちがここへ」

「それはこっちのセリフ! どうして一人でこんなところまで」

 秋月が続けて言葉を放つ。冬川は口を開いたが、後ろに高坂と倉敷がいることに気づくと口を閉ざしてしまった。

「……ごめんなさい。私たちは席を外す――」

 その場から立ち去ろうとする高坂と倉敷。

「二人はここにいて。このまま」

 秋月の叫び声を押し殺したような声音が、彼女たち二人の言葉と行動を制止させた。

 秋月は冬川の瞳を正面から見つめて、ゆっくりと話し出す。

「凛。思っていることがあるのなら、言葉にしたらどうかな。言ってくれないと、周りの人たちは何もわからないよ。……もしかしたら、言葉にすることで、何かが壊れてしまうんじゃないか、失われてしまうんじゃないか、そう思っているのかもしれない。でもね、私はこうも思うの。同時に何かも生まれるんじゃないかって。それが憎しみだったり、悲しみだったり、そういったものになってしまうかもしれない。……でも、何かが変わることは確かなことだと私は思う。言葉にすることで、何かが変わり、その変化が次の一歩を踏み出す機会を与えてくれる。……まずは、言葉にしないと始まらないよ。始まらないと終わらない。凛や彼女たちが抱えている物語のプロローグが、ようやく今紡がれようとしているんだよ。だからさ――」

 その後の秋月の言葉は紡がれなかった。凛がその場でゆっくりと立ち上がったからだ。

「美空、心配かけてごめんなさい。そして、ありがとう、心配してくれて。それに、こう……めぐみも、美穂も、古川くんも。私、勝手に一人で抱え込んでた。周りの人に迷惑をかけているだなんて、全く思ってもいなかった。私は日記を書いていたみたい。私以外の人に読んでもらうことなんて考えもしていない、私だけのための言葉の羅列。物語になりえない言葉たち。物語は一人では決して生まれない――そんなこと、とうの昔に知っていたはずなのに」

 一度うつむき、そして彼女はまた顔を上げる。

「聞いてください。私がこれから紡ぐ物語のプロローグを」

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