第2話 入学Ⅱ

「後片付けよろしくね。いってきまーす!」

 両親が家にいない間は、夏希が朝食を、俺が夕食の準備をしている――始めは、朝食と夕食を交代で担当しようとしたが、この通り、俺は朝起きられないからな。夕食担当だ。

 食器を片付け、自室に戻って制服に着替える。いつもと違うのは、制服がおろしたてということだろうか。糊のきいた制服は、今日が高校入学式であることを俺に再認識させる。

 中学の頃から愛用している自転車にまたがり、家を出る。物持ちはいい方だが、サイズの問題で、こいつもそろそろ買い替え時かなと感じている。

 住宅街の間を抜けていく一本の下り坂を自転車で走る。まだ冬の面影を残した冷えた風が、俺の意識をはっきりとさせていく。

 後ろから自転車が近づいてくる音がする。しばらくするとその音は俺の自転車と同期した。

「春樹! おっはよーう!」

 横を見なくてもわかる。中学の時からの腐れ縁、山内晴人だ。いつもより一段とテンションが高いのをいぶかしげに思いつつ晴人に視線をやる。

「入学式だね、楽しみ! ていっても、そんなに変化があるとも思えないけどね」

 まあ、確かにな。俺たちの通う高校は公立ではあるが私立の中高一貫みたいな感じで、中学メンツの九割近くがそのまま高校に上がる。高校と中学の規模は大体同じなので、外部から来る生徒は一割程度というわけで、中学の頃からの同期がほとんどを占める。

「……今日はいつもよりハイになっているようだが、何かあったのか」

 晴人は空を見上げる。

「まず、天気が晴れだってこと。自転車通学にとって、晴れほど最高な日はないでしょう! 気分爽快って意味でね。あとはやっぱり、メンバーはほとんど変わらないかもしれないけど、やっぱり高校生になるわけだし、気持ちは昂るよね」

 俺は曇りの方が好きだけどな。雨はもちろん自転車通学の天敵だが、晴れだと暑い。朝一から疲れたくはないからな。というようなことを言おうかと思ったが、道が急勾配に差し掛かったので口をつぐんだ。学生たちの間で心臓破りの坂とも呼ばれているこの坂は、毎年のマラソン大会で生徒たちを苦しめる諸悪の根源だ。中学の頃の苦い記憶がよみがえる。……高校ではマラソン大会でさらに長い距離を走るという噂である――憂鬱だ。

 坂を上りきると、斜め上方向に中学や高校の校舎が見えてきた。視線を道の方に戻した途端、急に視界の右下から黒い影が飛び出してきた。ブレーキを締め付けるように握り、ハンドルを左に急旋回させる。何とか黒い影との衝突は避けられたが、左後ろを走っていた晴人と衝突した。晴人も速度を落としていたため、擦り傷程度のけがで済んだのは不幸中の幸いといえるだろう。俺の愛用自転車も特に壊れた部分はなさそうだし。

 もふもふ、背中に何か柔らかいものが――。振り返ると、そこでは一匹の犬――ミニチュア・ダックスフンドが頭を擦りつけていた。飛び出してきたのはこいつだったか。チョコレートにクリームをトッピングしたような毛色をしており、印象的なのは、このつぶらな瞳だろうか。母が犬好きなのでこれまでにいろんな犬を飼ってきたが、これほどきれいに澄んだ瞳は見たことがない。――どれほど見つめていただろうか。大丈夫かと晴人に声を掛けられ、その犬から目を離すと、元来た細道に戻っていってしまった。特にけがはしていないようで良かったー。もし犬にけがをさせたなんて母に知られたら、どれほど絞られることか……。とまあ、これは冗談だが。

「初日から災難だったね。折角珍しく春樹のモチベーション高かったのに」

 ……こいつがどことなく面白がっているように見えるのは俺の錯覚だろうか。

「通常運転だぞ、俺は」

 晴人は両手のひらを上に向け、肩をすくめてこう言った。

「嘘はいけないよ。そうでもなきゃ、いつも授業開始時刻ギリギリだった春樹がこんなに朝早く登校するはずないじゃないか」

 ……その通りである。晴人恐るべし。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る