3 アルノルド、主君を思う
間髪を入れず、二人は茂みに身を隠した。
小鳥達が先を争うようにして梢から飛びたっていったあとは、不気味なほどの静寂が辺りを包み込んだ。時折、遠くの広場から子供の声が微かに聞こえてくるほかは、虫の羽音すら聞こえてこない。緑の隙間から、銃弾が飛んできたと思しき方向に目を凝らすものの、人影はおろか、気配すら見当たらなかった。
「どっちを狙ってるんだと思う?」
ひそひそと話しかけてくるヴェーに、アルノルドは憮然と返答した。
「これまでの話を考えると、狙われているのは俺だろう」
「だよな」
一際大きく溜め息を吐き出してから、ヴェーは腰のホルスターから拳銃を抜いた。
「援護してやるから、とりあえず逃げろ。あとで北四番詰所で落ち合おう。あそこの班長はお前もよく知っているハスロだ」
「分かった」
茂みを揺らしながら、ヴェーがアルノルドから離れていく。五つ数えて、アルノルドはヴェーとは反対の方向へ走り出した。狙いを定められないよう、できる限りの注意をはらいながら、木の陰を選んで全力で駆ける。
今にも弾丸が、背後から飛んでくるのではないか、身体に、手足に、頭に打ちこまれるのではないか。腹の底に冷たい氷を詰め込まれたような感覚に襲われ続けながら、アルノルドは無事、森を抜けた。
公園を脱したアルノルドは、人混みに紛れるべく目抜き通りへと足を向けた。
ヴェーのことが心配ではあったが、アルノルドがあの森から逃げおおせた以上、敵があの場にとどまる理由はない。なにしろ、敵の標的はアルノルドなのだから。
――ヴェーならば、きっと大丈夫だ。
大きく深呼吸して、胸の奥の不安を吹き飛ばす。それからアルノルドは、改めて先刻のヴェーの言葉を反芻した。
――北四番詰所、か……。
アルノルドの眉間に皺が寄る。
自分にかけられた濡れ衣にもかかわらず、それを晴らすためにアルノルドにできることは、今現在何も無かった。アルノルドの無実を信じて動いてくれている皆の、邪魔をしないように気をつけるのが、せいぜいだろう。
となると、自分がヴェー達に合流するのは、好ましくないのではないだろうか。
アルノルドは唇を引き結んだ。
敵側の謀略が未だ潰えていないこの状況で、アルノルドがヴェー達と行動をともにしているということが表沙汰になれば、彼らの立場が悪くなる。それに、先刻の森での出来事のように、周囲の人間を巻き添えにすることになるかもしれない。
しかし、一度は「分かった」と了承した以上、何らかの連絡をつけなければ、ヴェーが心配するだろう。どうしたものか、と悩んでいると、ふと、「若王」という言葉が、アルノルドの耳に飛び込んできた。
声が聞こえてきた方角へ顔を向ければ、円形広場の雑踏の向こう、王立劇場の階段前に王家の紋章が入った馬車が止まるのが見えた。
往来をゆく人々の流れが、みるみるうちに滞っていく。アルノルドも周囲の人間に倣って、劇場のほうへと近づいていった。
長身を生かして人垣の後ろから覗いてみれば、ロニーが馬車から降り立つところだった。
すらりとした手足を包むは、アルノルドの母校でもある中等学校の制服だ。折り目正しい藍色のスーツに、黒とえんじの縞模様のネクタイ。まだ十六歳だというのに、すっかり大人びて見えるのは、子供の頃の印象が強いせいだろうか。一年ぶりにまみえたその姿は、王の風格すら感じられるものだった。
たかが一年、されど一年。アルノルドにとって僅かな時間だったとしても、思春期を過ごすロニーにとっては、とても長い時間だったのかもしれない。そう唐突に思い当たり、アルノルドは大きく息を呑んだ。
一年前、ラスパスに赴くことを御前に報告した時、ロニーはほんの少しだけ唇を尖らせて、「何故そんな僻地へ行くのだ」と問うてきた。
「今、父上が譲位について、主だった者達に相談しているところだ。おそらく今年中には、私が正式に次期王の指名を受けることになるだろう。これでお前も、訳の分からぬ子供の守から、王の騎士に、名実ともに出世できるというものだ。どうだ、ルノ、近衛部隊に来てくれないか」
王の騎士。その甘美な響きに、アルノルドは一瞬自分の心が揺らぐのが分かった。
だがしかし、と、アルノルドは胸の前でこぶしを握りしめた。一度拝領した任務を途中で投げ出して、何が騎士か、と。
それに、今までアルノルドが、学友達が揶揄するところの「子守」をしてきたのは、ロニーが王位継承者だったからではない。
身長に似合わぬ大きな剣を構え、怯むことなく真っ直ぐ挑みかかってきた小さな剣士。「私は強くならねばならぬ。強くあらねばならぬのだ」ロニーはいつも、まじないのようにそう呟いていた。
その真剣な眼差しに、アルノルドの心は強く引き寄せられた。
最初は、単なる好奇心だった。何故そこまで必死に高みを目指すのか。だが、それが単なる優越感や自己顕示欲を満たすためだけのものではないらしい、と分かってくるや、アルノルドは素直に感心した。自分よりも七つも年下の子供にもかかわらず、その克己の意気を心から尊敬したのだ。
「どうした、アルノルド・サガフィ」
黙りこくったままのアルノルドに、ロニーが怪訝そうな眼差しを投げる。
アルノルドは、唇を噛んだ。
ロニーが王となれば、王位の推定相続人だった頃よりも、その身は格段に危険に晒されることとなるだろう。今のままの未熟な自分では、ロニーを守ることなど叶わないに違いない。
そのためにも、父の影が差さぬところで、一からおのれを鍛え直したかった。そういう意味ではラスパス行きは、彼にとって願ってもない機会だったのだ。二年と言われた任期の間に、押しも押されもせぬ「騎士」となって、王都へ戻る。そうやって初めて、アルノルドは、ロニーをその傍で守る資格を手にすることができるのだ。
心を決めると、アルノルドは顔を上げた。我が君の、翡翠の瞳を正面から見つめる。
「身に余るお言葉、ありがとうございます。二年後、ラスパスでの任期が明けたら、改めて王都へ戻って参ります」
そうして、アルノルドは辞令に従い故郷を離れた。
任務に、訓練に、無我夢中で没頭している間に、一年は飛ぶように過ぎ去り、今回が初めての里帰りだったのだ……。
黄色い歓声が周囲から湧き起こり、アルノルドは、はっと我に返った。
護衛に囲まれたロニーが、群衆に向かって笑顔で手を振っていた。
士官学校の卒業式を思い出して、アルノルドは苦笑を漏らした。あの時はとってつけたようだった「すまし顔」も、今では随分と板についておられる、と、感慨深げに頷く。
一年ぶりだからだろうか、今日はやけに昔のことを思い出す日だ。アルノルドはそっと目を細めた。
あの卒業式のあと、来賓の控室に呼ばれたアルノルドは、先刻までの「すまし顔」とは打って変わって、唇を噛みうなだれるロニーに出迎えられた。
「今まで、王家の者だということを黙っていてすまなかった」
既にヴェー達に散々「三年間も気づかないお前が変だ」と言われていたこともあって、アルノルドは申し訳なさと情けなさに身を引きちぎられんばかりだった。
「いや、そんな、お顔をお上げください。私のほうこそ、殿下に対してとんでもないご無礼の数々を……」
しばらくの間、二人は言葉も無く立ち尽くしていた。
が、やがてロニーの視線がちらちらと辺りを彷徨い始めたかと思えば、とうとうロニーは、「驚いたか」と得意げな笑みを満面に浮かべ、胸を張った。
「馬子にも衣装、とはよく言ったものだろう?」
そう言うと、ロニーはその場でくるりと回って、制服のガウンをひらりとなびかせた。
「わざわざ私が言わずともそのうち分かるだろう、と思っていたのもあるが、なにより、ルノが私を他の者と変わらず扱ってくれるのが、嬉しかったんだ。君の親切心に甘えきってしまった。すまない」
その姿は、大人びているというよりも、懸命に背伸びをしているように、アルノルドの目には映った。
次の瞬間、アルノルドはごく自然に、御前に膝を折っていた。
「ならば、これからは、友人としてではなく、我が主君として、この臣に甘えてくだされば」
あの時のおのれの台詞を思い出し、アルノルドは密かに息を呑んだ。
「甘えてください」と言っておきながら、その僅か二か月後に、アルノルドはロニーを容赦なく突き放したのだ。王都にとどまってくれと頼むロニーに、たとえ理由があったとはいえ、アルノルドははっきり「否」と返したのだ……。
「若王様も素敵だけど、カタリナ様もお美しいわね」
「本当、憧れるわあ」
すぐ近くから聞こえた会話の内容に、アルノルドは慌てて頭を切り替えた。声の主である二人連れの女性のほうへ一歩踏み出すと、「失礼」と声をかける。
「殿下と一緒にいらっしゃるのが、カタリナ様、なのですか?」
突然見知らぬ男に話しかけられた女性二人は、一瞬驚いた顔を見せたものの、アルノルドが真面目に問いかけていることが分かったようで、ほどなくにっこりと微笑んでくれた。
「そうよ」
「あら、ご存じないの?」
アルノルドは素直に首を縦に振った。
「この一年、田舎住まいだったものですから、色々と疎くて」
「エクウェ伯爵様のご息女なのよ」
ロニーの傍らに立つ小柄な女性を、アルノルドは今一度改めて見つめた。
傾き始めた陽の光を映して、結い上げられた栗色の髪が金色に輝いている。自信に満ち溢れた碧の瞳と、意志の強そうな鼻筋が、とても印象的な女性だった。落ち着いた物腰のせいか、ロニーよりも少し年上のように見える。
「お美しい方ですね」
素直に呟けば、二人から力強い同意の言葉が返ってきた。
「お美しいだけじゃあないわ。慈善活動にご熱心で、救護院に毎日のように通ってなさるのよ。まるで聖母じゃない」
「でも、お優しいだけでもなくてよ。先日は、議会に出向かれて、女性の権利について居並ぶ議員相手に意見を述べられたって聞くわ」
なるほど、これではロニーが惚れ込むのも無理はないかもしれない。アルノルドはそっと息を吐き出した。
そうこうしているうちに、ロニーはカタリナと何人もの護衛を従えて劇場の中へと入っていってしまった。
集まっていた人々も、元いた場所へとバラバラに散っていく。アルノルドも、先ほどの二人と別れて、大通りをゆっくりと歩き始めた。
あのロニーが、観劇をたしなむようになったとは、と、妙なところで感心する一方で、アルノルドは再び溜め息をついた。
――やはり、一年という期間は長すぎたのかもしれない。
そもそも近衛師団の件にしても、ロニーが一年後に再びアルノルドに声をかけてくれる保証など、本来ならどこにもない。なのに、それがさも当然のことであると思い込んでいた自分を、アルノルドは酷く情けなく思った。
そう、アルノルドが異郷で望んでいたふるさとは、一年前にアルノルドが旅立った時のままの王都だった。だが、アルノルドがラスパスにいる間も、時の流れは等しく王都を押し流していったのだ……。
アルノルドは、奥歯に力を込めた。
もはや一人前となった殿下が、誰と親交を結ぼうが、アルノルドには何の関係もないことだ。だが。
――あの、抜け目のない父上が、人目のあるところで噛みつくぐらいなのだから、エクウェ伯に後ろ暗いところがある可能性は高い。
それに加えて、今回の窃盗事件だ。アルノルドは、自分が悪事を働いていないことを知っている。自分にかけられた網の端を誰が握っているのか、ヴェーの話を聞く限り、答えは一つしか考えられない。
――たとえ、もう必要とされていないのだとしても、我が主君に害をなすものを摘み取るのは、臣下の義務だ。
アルノルドは、決意を込めた眼差しで、夕暮れの街を歩き続けた。
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