2 アルノルド、友と語らう
王都の中心部にあるこの緑地は、もともとは大聖堂に続く王家の庭園だった。現在は市民の憩いの場として広く開放されており、今も、春の花が満開となった花壇のそばで人々が休憩しているのが見える。
池の反対側にまわれば、道を挟んですぐ向こうが、アルノルドが通っていた初等学校だ。授業が終わり迎えの馬車を待つまでの間、ヴェーをはじめとする友人達とよくここで遊んだものだった。例えば、「隠れ鬼」、「騎士と泥棒」、「鍛冶屋の金槌」、そして「一番鶏が鳴いた」。
アルノルドの背後に、小枝を踏み折る音に続けて、含み笑いが聞こえた。
「流石の石頭も、あの符丁は理解できたか」
懐かしい節回しで「一番鶏が鳴いた」と歌いながら、ヴェーが木の陰から姿を現した。警備隊の上着をどこへ置いてきたのか、真っ白なシャツが陽光に眩しく輝いている。
「お前に今捕まられるとマズいんだ」
そう言って、ヴェーは森の奥のほうへと足を向けた。アルノルドも、慌ててそのあとを追う。
「二年ほど前から、石炭の値段が妙に高くなってきているのは知ってるか?」
「……聞いたことがある、ような気がする」
「それがな、エクウェ辺境伯という炭鉱持ちが中心となって、不当に石炭価格を吊り上げているらしい。なんでも、意に沿わない新興の炭鉱を幾つも潰している、とかなんとか。で、今年に入って、内務大臣マティアス・サガフィ侯爵の指示で、警備部、じゃなかった、今は情報部って言うんだった、が動き始めたそうなんだ」
広場で遊ぶ子供達の歓声が
「警備部、ということは……」
「そ。アイザス子爵、我が親父殿が陣頭指揮を仰せつかってさ。それが、敵はかなりの曲者で、内偵を入れても一切証拠が出てこない。おかげであの薄い頭髪がますますヤバい状態になってきてさ」
アルノルドがねぎらいの言葉を口にすると、ヴェーは苦笑を浮かべた。
「いや、親父の禿げ具合はどうでもよくて。ともかく、そういった動きを遂に辺境伯が察知したらしく、先日議会で伯が一席ぶったんだよ」
「確かな証拠もない状況で他人を疑うなど、皆さんは余程、清廉潔白な人生を歩んでおられるらしい。昔から言うではないか、一度も罪をおかしたことのない者だけが、石を投げる権利がある、と」
さも得意げに皮肉を口にしたエクウェ伯爵に対し、サガフィ侯爵は真っ向から反撃に出たという。
「何人たりとも、善人に石を投げることは許されない。その言葉は、悪人に対して言われたものだ。卿は自らの罪を認めるというのか。誰か、石を持て!」
ヴェーの話を聞いたアルノルドは、思わず頭を抱えた。我が父親ながら、なんと大人げない言いざまだ、と。
それまでに相当鬱憤を溜めておられたからなあ、と、ヴェーは随分侯爵に同情的だ。
「それで、今回の窃盗事件だ。お前にかけられた濡れ衣は、恐らく、侯の立場を貶めようと目論んでのことだろう。盗みの被害を受けたというのが、テレンス東部で一番大きな紡績工場の社長だ。親父の情報によると、こいつは、エクウェ伯の炭鉱から燃料を買っている。同じ州内に別の炭鉱があるにもかかわらず」
「濡れ衣であることに異論はないが、しかし父上を蹴落とすために、そんなことまでするものかな」
首をひねるアルノルドに、ヴェーは少しばかり苛立たしげに言葉を吐いた。
「いいか? 証拠が被害者の証言しかない上に、容疑者が逃げ回ってるわけでもないんだから、普通なら、『ちょっとお話を聞かせてください』ってところから始めるはずだ。それがいきなり、班一つ丸々使って待ち伏せて、問答無用に連行だ。そのくせ、社会的影響を考慮して、などと御託を並べて、他の班にはその事実を一切知らせない。俺が今回の件について事前に知り得たのも、たまたま運が良かっただけのことなんだ。ここまで非常識な状況が重なれば、どんな馬鹿でも、裏があるな、って思うだろ」
そこで、ヴェーはまたも大きく溜め息をついた。
「そもそも、少しでもお前という人間を知っておれば、お前が他人のものを盗むなんて大嘘だと分かるんだがなあ。今回の『アルノルド・サガフィ奪還作戦』にあたって、俺がどんなに苦労したか分かるか? 時間が無い上に、士官学校時代の連中は皆、何の冗談だ、って言って俺の話をすぐには信じてくれなかったんだからな」
全部解決したら、何か奢ってくれよな。そう笑うヴェーに、アルノルドは眉を上げてみせた。
「奪還作戦、というわりに、俺は自分でここまで逃げてきたわけだが」
「俺らも大っぴらに動けるわけじゃないんだ。それぐらい大目にみろよ」
こうやってヴェーと話していると、なんだか学生時代に戻ったような気がする。あの時あの場所で同じ時間を共有した皆が、自分のことを信頼してくれている、ということが、アルノルドは嬉しくてたまらなかった。一刻も早く濡れ衣を晴らし、素晴らしき友人達と祝杯を交わさなくては。決意も新たに、アルノルドは、まずは先刻からずっと気になっていたことを、ヴェーに聞いてもらうことにした。
「しかし、俺を陥れるにしても、もう少しやりようがあるだろう? 俺の足取りを詳しく調べれば、窃盗事件を起こす暇なぞないことが、すぐに分かるのに」
「……普通はな、もっとのんびりゆったり旅程を組むもんなんだよ。普通は、な。それに、窃盗には直接かかわっていなくとも、運び屋だった、と主張されたらどうする?」
「彼女のサインが入った、預かり証の控えがあるぞ。その時にペンと紙を借りたホテルの従業員が、我々の話を覚えているかもしれない」
ヴェーが二度三度とまばたきを繰り返した。
「お前、預かり証なんて書いたのか」
「人様の品を預かるんだ、当然のことだろう」
何を驚くことがあるのか、と、眉をひそめてみせれば、ヴェーの溜め息がますます深みを増す。
「お前、本当に、どこで切ってもアルノルドだな」
「当たり前だ」
しばしヴェーは何事か考え込んで、それから難しい顔で顎をさすった。
「ま、お前ならば、時間をかければ無実を証明できるんだろうが、……死んでしまったら話は別だからなあ」
「死ぬ……?」
思いもかけぬ不吉な単語に、反射的にアルノルドは目を剥いた。
対するヴェーは、僅かに目を細め、低く囁く。
「俺が予想した最悪の事態は、明日の朝に留置所で冷たくなったお前が発見される、ってやつだ。自責の念から、ということになるのか、はたまた不慮の事故か、どういう筋書きが用意されるかは知らんが、な」
「……まさか」
「強引な手段ではあるが、連中が望む結果を得るためには、これが一番確実な方法だ」
その瞬間、しわがれた鳥の声が頭上に響き渡り、二人は同時に身を竦ませた。
羽ばたきの音が遠ざかるのを、なんとなく無言で見送って、そうして二人同時に息を吐く。
「なあ、一体どういう状況で盗品を押しつけられることになったんだ?」
ヴェーに問われて、アルノルドは三日前の記憶を辿りはじめた。
荷造りや部屋の片づけを終え、予定通り昼過ぎにはラスパスの宿舎を出、十六時発テレンス行きの汽車に乗り込んだ。終点のテレンス着が二十時。そこから更に西へ向かう列車は、明朝を待たなければならない。予約してあったホテルに向かい、荷物を部屋に置いて、晩御飯を食べに食堂へ。そこで、問題の婦人と相席になったのだ。
「食事が終わってからも、しばらく世間話をしていたら、やがて彼女が、気分が悪い、と言い出してな。葡萄酒に酔ったかも、と言うので、ホテルの支配人に医務室の手配を頼んだんだが、そうこうしているうちに酔いが醒めたらしく……って、どうした、ヴェー?」
すぐそばの木に、よろよろと力無く寄りかかるヴェーを見て、アルノルドは眉をひそめた。
ヴェーは、すっかり疲れきった表情で、アルノルドを見上げてくる。
「相席、って、もしかして、それ、彼女のほうから言ってきたんじゃないのか?」
「ああ」
「でも、空席は他にもあったんだろ?」
「一人で食べるのは寂しいから、と言っていた」
ヴェーは依然として、ああ、とか、うう、とか妙な声を漏らしながら、木の幹に取りついている。
「気分が悪くなったって、もしかして『なんだか身体が熱くなってきたワ』とか? 『アラ、少し酔ったみたい』とか?」
「よく分かったな」
「で、苦しそうに服の胸元くつろがせたり」
「そのとおりだ」
とうとうヴェーは頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまった。
「……状況が読めてきたぞ。てか、酔いが醒めた彼女がどうしたって?」
「こんなに親切な人は初めてだ。ついては、一つお願いがあるのだが、と、あの小箱を渡された。これを王都のこの住所に届けたいのだが、自分は身体が弱くて長い旅ができないから、と。あなたのような親切な方と出会えたのは、神の采配かもしれない、とも言っていたな」
「で、二つ返事で受け取ったわけか」
「随分困っているようだったからな」
「……お前がアルノルド・サガフィで本当に良かった、と、心の底から思うよ」
深く深く嘆息して、ヴェーが立ち上がった。
「どういう意味だ」
「窃盗云々は、窮余の策だったんだな。恐らく、奴らが本来用意していたのは、もっと根性の悪い罠だ。
いいか、普通はな、男女が一緒に楽しく夕飯食って、食事のあとも話が弾んで、それで女のほうが『酔っちゃった』とかなんとか誘ってきたら、男は『少し休んだらいい』とか適当なこと言って、彼女を部屋に連れ込んで、……ってなるもんだ」
思わぬ方向に話が展開したことに驚いて、アルノルドは素っ頓狂な声を上げた。
「いや、待て、初めて会った女性相手に」
「いいから黙って聞け。で、もしもお前が普通の男みたいに彼女を自分の部屋に連れてったら、たぶん彼女は、そこで派手に騒ぎ出したはずだ。ホテル中の人間巻き込んでな。天下のサガフィ家のご子息が、力無き女性を無理矢理手籠めにしようとした、と言って、な」
俄かには信じがたい卑劣な筋書きに、アルノルドは呆然と立ち尽くした。
だが、落ち着いて考えると、確かにあの婦人は、今ヴェーが言ったとおりの行動をとっていた。そして、もしもその姦計が成功しておれば、間違いなく、アルノルドの父親であるサガフィ侯爵はこれまでにない窮地に立たされることになっただろう。
首筋を冷たい手で撫でられたような気がして、アルノルドはぞくりと身体を震わせた。
「しかし、マズいな……。奴らがここまでなりふり構わないとなると、殿下のほうも気を抜けないな」
「殿下が今回の件に何か関わっておられるのか?」
アルノルドの恐る恐るの問いかけに、ヴェーは「そういうわけじゃない」と首を横に振った。
「ただ、問題のエクウェ辺境伯には、男女合わせて四人の子供がいるんだが、一番上の娘のカタリナが、譲位が発表されて以来、殿下に露骨に取り入っているんだ」
病気がちな現王エリアスが、一粒種のロニーへ王位を譲る意思を示されてから、まだ半年しか経っていない。
エリアス王は生まれつき身体が弱く、季節の変わり目ごとに体調を崩しておられ、王が伏せるたびに、王都は重苦しい不安に包まれたものだった。それゆえ、譲位の一報がもたらされるなり、人々は王が無事この日を迎えられたことを、心の底から喜んだ。
正式な戴冠式は二年後に、ロニーが十八歳になって中等学校を卒業してから執り行われることとなり、それまではエリアス陛下が引き続き王の錫杖を手になさる、とのことだったが、譲位を表明して緊張の糸が切れてしまわれたのか、早速陛下はお風邪をお召しになり、そのまま症状が悪化して離宮で静養、代わりにロニーが代理で玉座に座ることになってしまった。そうして、はや半年、今ではすっかり「若王」との呼称が、巷に定着してしまっている。人々のロニーに対する期待が、それだけ大きいということなのだろう。
アルノルドは、剣術の稽古の時の、思い詰めたようなロニーの眼差しを思い出していた。あの時、既にロニーは自分の双肩にかかるものの重さを自覚していたに違いない、と。
「譲位が決まってからというもの、殿下を補助するために、各界のお偉方がずーっとお傍に詰めててな。もうずっと、殿下の周りはむさ苦しいおやじばっかりなんだ。そりゃあ、殿下だっていいかげん飽きてくるさ。それで余計に、おやじ連中に気後れすることなく絡んでくるカタリナ嬢のことが、えらく気に入ってるみたいでさ……」
やれやれ、と肩を落としたのち、ヴェーはアルノルドの目を覗き込んできた。ここからが本題だ、と言わんばかりに。
「一昨日に、『アルノルド・サガフィが盗品を運んでいる』という情報が南管区に届いてな。さっきも言ったように、これはアシェル隊第二班にしか知らされていなかったんだが、偶然俺の隊の一人が小耳に挟み、俺に教えてくれてさ。調べたら、被害届を出しているのがエクウェ伯側の人間だと分かったんで、俺、昨日、王宮へ行ったんだよ。カタリナを通じてエクウェ伯を牽制するために」
「カタリナとやらは、そんなに王宮に入り浸っているのか?」
アルノルドの問いに対して、ヴェーは神妙な面持ちで頷いた。
「殿下はお前に随分懐いておられたからな。いや、お前が殿下に懐いていた、のほうが正しいか? なんにせよ、殿下のおぼえめでたき人間に害をなそうってのは、危険が大きい、と、エクウェ伯側に知らしめたかったんだが……」
「だが? どうした?」
ヴェーが、彼にしては珍しく、少し躊躇いがちに言葉を継いだ。
「殿下がさ、一言つまらなさそうに、『捕まえたらいいだろう』って」
その瞬間、アルノルドは、脳天に一撃を喰らったような気がした。
『仮に犯人が本物のアルノルド・サガフィだったとしても、確実に身柄を確保せよ、とのお達しだ』
先刻、警備隊の取り調べ室で聞いたあの言葉は、ヴェーによる演出などではなく、本当のことだったのだ。
「最初は物凄く不機嫌そうだったカタリナが、殿下のこの言葉を聞くや、自信たっぷりな顔で微笑んでさ。『お仕事頑張ってくださいね』だと! ああ、くそっ、むかつく!」
空に向かって咆えるヴェーの傍らで、アルノルドは、ただ呆然と立ち尽くした。同じ問いを何度も頭の中で繰り返しながら。
――殿下は、私が本当に盗みを働いたと思っておられるのだろうか……?
ロニーならば、自分が潔白であることを分かってくれる。そうアルノルドは信じていた。だが……、しかし……。
生ぬるい風が頬を撫でたかと思えば、周囲の木々が一斉にざわめき始める。アルノルドは、知らず唇を噛んだ。
「とにかく、だ。殿下は今回あてにならないばかりか、下手したら敵側にまわりかねん。さっさと皆と合流して……」
その刹那、一発の銃声が響き渡り、ヴェーのすぐ向こうで木の葉が弾けた。
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