侵蝕する刃
運天
起動する仮想
AR技術というものを知っているだろうか。オーグメンテッド・リアリティと言い、日本語では拡張現実と訳される。
現実の環境にコンピュータで情報を付加あるいは削除したりするもので、スマートフォンなど用い、カメラを通して見た実際の光景に情報を重ね書きして、見た者に提示する技術だ。
たとえば、特定のアプリケーションを使用して食事に訪れた店を見てみると、何もないはずの店先に仮想の看板が浮かんでおり、そこにお薦めのメニューやそこで食事をした人たちの感想が書かれていたりする。中には、そこから店のサイトにリンクが貼られていたりして、アクセスすると優待を受けられることもある。
そんな技術を用いたアプリケーションがいくつもあるのだが、ある日、ぼくは奇妙なアプリケーションを手に入れた。
Genb@というものだ。
そのアプリケーションは、昼食も終え、残り少ない昼休みをスマートフォンで適当にネット検索している時に見つけたものだった。
最初はフィッシング詐欺やスパイウェアのような危険な感じがした。しかし、そのサイトにはアダルト広告もなければ金融会社の勧誘もない。黒い背景の中央にまるで落款のように赤い正方形があり、中抜きでGenb@と記され、その下にDOWNLOAD、STAFF・ONLYと記されているだけだった。
携帯電話会社が推奨する正規のものではない。正規のものなら、それ相応のサイトで販売や配布がされているからだ。
何処の誰とも知れない人物が個人で作成したものらしかった。中にはウィルスが混入されていたり、OSにダメージを与えてしまうようなろくでもないものがあったりするが、それでも、時折使い勝手のいいものや思いがけなくおもしろいものもあり、ぼくは何気にそのアプリケーションをダウンロード、インストールして試すことにした。
もしも危険なものでもセキュリティ・ソフトは最新にしていたし、つまらないものならその場で消してしまえばいいという軽い気持ちからだった。
それに――STAFF・ONLYという言葉にも言い知れない不思議な魅力を感じていた。もしかしたら何処かの企業やイベント関係者が間違って、一般人に公開してしまったのではないか、これはレアな状況なのではないかという期待を抱いたのだ。
早速試してみる。
スマートフォンの画面に新しく作成されたGenb@というアイコンをクリックする。
何が起きるのかと思えば、スマートフォンのカメラが起動された。
それだけだった。新型の撮影用ソフトか何かかと思ったが、シャッター・ボタンのようなものもない。
ぼくがいつも昼休みに利用している公園の風景をぐるりと映してみたが、何か見えるものでもなく、単純にカメラ機能を起動させただけのようだった。
いや、そうでもなかった。
画面の下方に小さく矢印が出ていた。
今は、左の方向を向いている。
何かを指し示しているらしかった。
とりあえず行ってみようかと腰を上げたが、すぐに思い止まった。
ぼくは会社勤めのサラリーマンであり、しかも新入社員で、もうすぐ昼休みも終わる。そんな矢印を追いかけている暇はなかった。半年もある試用期間中に迂闊なことはできない。こんなつまらないことで昼からの仕事に遅れて印象を悪くするようなことはしたくない。
たとえ、やりたくもない、興味もない、必要性があるのかどうかもわからない、厳しくきつい仕事であっても、だ。
そんなことを考えつつよく見ると、矢印は会社の方向に向いていた。
それなら都合がいい。途中までその矢印を追うくらいはできるだろう。
五月の日差しの下、会社に向かって公園を歩き始めた。
オフィス街の中の公園ながら、案外に木々が多い。青々と繁り、心を穏やかにしてくれる。そのためか、昼休みにはここで休憩を取る人は多く、すれ違う人は絶えなかった。
どれほど進んだ頃か、その公園の一角に設けられた噴水に差しかかった。
スマートフォンを確認する。
矢印はまっすぐ噴水の方向を指し示していた。その先には公園の出入り口がある。そこまでなら矢印を追うことはできるが、公園を出てしまうと方向によっては無理になる。
結局、このアプリケーションが何のためのものか調べるのは早くても夜になりそうだと思いながら噴水の横を抜けようとして、画面の中の矢印が方向を変えているのに気づいた。
廻り込もうとした噴水の方向を向いていた。
そちらにスマートフォンを向けるが何もない。
噴水を指しているのではなく、公園の外の何処かを指しているのかも知れない。そうなると、残念ながらぼくの会社とは反対方向になるためこれまでだ。
アプリケーションを閉じようとしたら、矢印の方向がまた変わっていた。
噴水の方向だ。
さっきよりも更に廻り込んでいる位置であるのに、矢印は噴水を示していた。
だが、何があるというのだろうか。
噴水を見たが、いつもと何ら代わり映えするところなどない。相も変わらず、昭和の雰囲気を漂わせる造形から単調に水を噴き上げているだけだった。
そこでふと思い出した。このアプリケーションがカメラを起動させていたことを。
そのことはつまり、カメラを通して見ろということではないだろうか。
AR技術のことを思い出したぼくは、何が起きるのだろうかと期待しながらスマートフォンを噴水に向けていた。
画面の中、奇妙なものが噴水に重ね書きされていた。
ゲーム機の方向キーのようなものだ。
濃い灰色の十文字。やや下の棒の部分が長い。
見た目だけでは何を意味するのかわからない。恐らく、画面上でこの十文字に触れることで何かが起きるのだろうと、ぼくは思った。
もしかしたら、街の名所などを紹介するためのアプリケーションなのだろうか。もしそうだとすると、このアプリケーションはもう必要ないだろう。そんなつまらないことなど知りたくもない。
それでも、確認だけはしておこうと画面にタッチした。
音もなく十文字が展開する。パタパタという擬音が似合いそうなアニメーションで、小さかった十文字が画面いっぱいの十文字になった。
その中に何やら書かれている。
どうやらこの場所だけで見ることのできる情報のようだった。
あまり期待もせずにその内容を読むと、名所の紹介などとはまるで違うことがわかった。
そこにはまず、何年も前の日付が記されていた。
その次には長々とした文章が続くのだが、本当か嘘か、それはこの場所で起こった事件の内容が詳細に書かれており、死因で締め括られていた。
それで終わりではなかった。
最下部には下を向いた三角形があり、続きがあることを示していた。
かすかに震える指先で画面をスライドさせる。十字架の下の部分が伸び、そこに一枚の画像が名前とともに映し出された。
日差しが陰った気がした。
温度が下がった気がした。
ぼくは慌ててアプリケーションを停止し、その場を去った。
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