6. Hot Wax




 ――エンジェル、というのは、本名?


 略歴を訊かれ、「売春経験はありません」と答えた後、デスクの向こうに座ったアソシエイトが、そのような質問をしてきたのを、思い出す。


 本来の発音は、アンヘル、ですが。


 ――響きもいいし、逆に本名だとは思われないだろうから、源氏名はそのままでどう? エンジェルで。


 そのハイエンドエスコートエージェンシーの面接は、ミッドタウンの外れにある古いホテルの一室で行われた。そこが、そのエージェンシーの事務所だった。真冬だった。部屋の中こそヒーターで温まっていたが、外の通路で待たされている間に身体は縮み上がった。木製のデスクと木製の三段の本棚と、デスクの上のオフィス用電話機以外には何もない部屋へ通され、全裸にされた。ブツが小さく見えるかも知れませんが、ちょっと外が寒かったので。聞かれるより早く言い訳をすると、アソシエイトはものさしをペニスに押し当てた。「心配要りません。うちはポルノ映画のプロダクション会社ではありませんから」。ものさしの硬さに、性器はさらに縮んだ。


 ――あなたは、規定の金額を支払ってくれるクライアント相手なら、どこまでできますか?


 大抵のことなら。


 ――入れられるのは平気?


 多分。ゴムさえあれば。


 ――入れるのは?


 多分。ゴムさえあれば。


 ――舐められるのは?


 平気です。


 ――舐めるのは?


 多分。


 ――特技は?


 ピアノが、弾けます。


 ――それは結構ですが、セックスにおいての特技は何かありますか?


 わかりません。


 ――何か質問は?


 クライアントの部屋に入ったら、何分以内に勃起しなければならないんですか?


 「心配要りません」、アソシエイトは繰り返した。「うちはポルノ映画のプロダクション会社ではありませんから」。


 そして、契約書にサインをさせられた。


 規定の金額を支払ってくれるクライアント相手なら、大抵のことなら平気だ。


 首を絞められても、死なない限りは平気だ。


 自分の身に生じる快楽も苦痛も、一瞬のことだと思えば随分と無関心になれる。そういう術を、いつ覚えたのか、もう記憶にない。無関心になるのは楽だ。それが自分にとって、一番の快楽かもしれない、と思う。


 だが、最近耐性が薄れてきている気がしてならない。神経が引き伸ばされて、必要以上に過敏になっているような感覚。


「ひとつのキャンドルにつき、一本のマッチ棒しか使ってはならないんだ」


 男は言う。


 狭い部屋には、床から棚といった平面という平面に様々な太さのキャンドルが据えられ、それらは全て白で統一されている。部屋中に異臭がたちこめる。クチナシだ、と男は異臭について説明する。最悪だ、と思う。


 奇妙に細長い箱から取り出されるマッチ棒は、男の前腕ほどの長さがある。右手にマッチ棒、左手にマッチ箱。慣れた仕草で両腕が交差し、舌打ちに似た音がする。マッチの先端が酸素を吸い込み、辺りが赤く変色する。キャンドルがひとつ灯され、直後に男の息が吹きかけられたマッチの先が絶命する。部屋の反対側に、アルミのトラッシュカンがある。マッチ棒の亡骸を運ぶ男の室内履きが、不気味に揺れるバスローブの裾から覗く。バスローブの丈も、間違っている。


 キャンドル百個。長すぎるマッチ棒。独りよがりの儀式と、室内履き。


 無駄の多い中年男相手には、残業必至、レートは五割増。覚悟しておけ。俺も、おまえも。


 キャンドルを全て灯し終え、男がこちらへ歩み寄る。それが合図のはずだ。ベッドの上、クチナシにむせ返りながらも、骨ばった人差し指だけで器用にナイロンシャツのボタンを弾き、ストリップを始めてみせる。だが、男は脇を通り抜け、隣接しているキッチンへ姿を消してしまう。これは何だ。


 待ちくたびれた。ベッドに仰向けに倒れ、ジーンズのジッパーを下げる。下着をずらし、性器を取り出し、無闇に扱く。部屋中で小さいオレンジ色の炎がちろちろする。目が回りそうになり、瞼を閉じる。単調に、右手を上下に動かし続ける。瞼の裏に、友人の顔を見る。クチナシで窒息しかけているせいだ、と故意に誤解してみる。キッチンで電子レンジのタイマーが弾ける音。友人の顔が途端に掻き消え、ポップコーンを連想し、右手の中身が萎える。腹が減った。


 瞼を開ければ、キッチンから戻ってきた男が目の前に立っていた。手には、今度は円筒状の白い容器。白いプラスティックの平たい棒を突っ込み、ゆっくりと、溶けた水飴をからめるような速度で掻き混ぜている。


「ねぇ。そのブロンドは、ニセモノなんだね」


 男が見ているのは、この右手に握られて性器ではなく、陰毛の方だった。脱色されたシャンペンブロンドの頭髪と、鼠蹊周りの濃いアーモンド色の縮れ毛を交互に眺め、頷き、男はまた容器の中身を捏ねる。


「ブロンドがいいね。君はブロンドが似合うよ」


 クチナシの空気が切迫する。危機を嗅ぎつけるのが、一息遅れた。


「とりあえず、その黒い方の毛は、処理しちゃいましょう」


 油断した。きらりと蜂蜜色。男がへらを上に持ち上げると、その金色の水飴状の物体が糸を引き、次にはこちらに向かってくる。斜めになったへらの先から、水飴が垂れ落ちる。ペニスの脇を掠め、慌てる。


 右手を横に引っ張り、かろうじてそれが急所に墜落するのを避けた。電子レンジで熱した水飴は、陰毛に隠れた敏感な皮膚の青白い部分にどろりと付着し、火傷を引き起こす。


 ふざけるな。


 金を寄越せ。


 もう二度と、来ない。





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