【Live Log : 掌中の珠】

 彼女が訪れたのは、ロマが第二八七ログを見咎めた次の日のことである。


「――いらっしゃいませ」

 蝶番ちょうつがいの微かな軋りと、それを掻き消す軽やかなベルの音。来客を知らせる合図に、ロマはカウンターを拭く手を止め、顔を上げて決まり文句を口にする。釣られるように、フロアで各々の仕事をこなしていた者達からも、次々と同じ言葉が放り投げられた。

 手早くカウンターへ回り込んで布巾を流し台へ放り込み、ドアを開けたきり立ち尽くしている来客の許へ、足音を殺して駆け寄る。慌てて応対しようとしていた他のスタッフは、ロマが来たと見るや否や、すぐに身を引いて己の仕事へ戻った。彼女が引き受けたならば心配はいらない――そこには静かな、しかし確固たる信頼関係がある。

「此方が『ポストの墓場』で間違いないかしら?」

「はい。ログの閲覧をご希望の方でしょうか」

「ええ。古高七恵ふるたかななえ、と申します」

 貴婦人とは斯くあるものであろうと、そう思わせる女性である。

 淡い儚さの中にも強い芯を秘めた、矍鑠とした佇まい。一見沈鬱な色使いでありながら、確かな瀟洒を感じる洋装。肩口に零れる一房の白髪。酸いも甘いも知り尽くした老練さと、それでも尚清廉であろうとした覚悟の垣間見える鳶色の瞳。麗しきとはこのような者のことを指すのであろう。

「かしこまりました。マスターへ取り次ぎますので、少々お待ち下さい」

 ロマはいつものように、しかし心持ち丁寧に頭を下げた。

 それは静謐とした敬意であった。


 ロマの言葉を受け、薄暗い保管庫から昼のフロアへ出てきたマスターを、彼女は淡い笑みと共に出迎えた。

「初めまして、オーナーさん」

「お初に御目に掛かります、

 深々と、一礼。マスターの放った言葉に、スタッフの視線がその方へと集中する。アンドロイドの顔色など読むべくもないが、平素よりゆっくりと頭を上げるその仕草から、慣れたスタッフは深い感慨の色を見ていた。対する彼女は、予想通りの反応と言わんばかりに、ただ黙ってマスターの所作を見つめている。

 張り詰めた沈黙が少し。老婦人の声が、凛としてそれを破った。

「此処に私の過去が保管されていると聞きましたの」

「ええ。しかし、今の貴方には必要のないものも含んでおります」

「いいの。お返し頂けないかしら」

 ざわり、と空気が揺れた。

 見せてほしいではなく、返してほしい――恐らくそれは、マスター以外のスタッフ全員が、初めて出会う要求であろう。そんなことは出来ない、と勢いのまま口走りかけたロマを、マスターは黙って手で制する。気勢を削がれ、彼女が口を閉じたその隙を縫うように、再び深く頭を下げた。

「かしこまりました。此方にお持ちしますので、少々お待ちいただけますか」

「お頼みしますわ」

 老婦人は多くを語らない。ただ、柔らかく笑って会釈するばかりである。

 マスターもまた言葉少なだ。一旦失礼します、ときっぱりした態度で応対し、すぐに踵を返した。


 そして、暫し。店の表に出した看板が「OPEN」から「CLOSE」へ変わる。夜の為の仕込みと準備の時間だ。午後三時に閉められた扉は、午後六時になるまで開かれることはなく、客の流入は一度ここで止まる。

 さりとて、既にいる客を追い出すこともない。店から追い出すには複雑な手順が要ったし、無意味な諍いを起こす必要性をスタッフの誰もが感じなかったからだ。それ故、場所代を払って一日中カウンター席に居座る客も『ポストの墓場』では稀ではない。しかし今いる客は老女一人だった。

 客の出入りが止まってから数分。マスターがログを手にフロアへ戻ってきた。片手に頑丈な紙袋を提げ、平生と何ら変わりない態度で歩み寄るその姿に、またしても店内の眼が集まる。本当にログを人へ渡してしまうのか、と驚愕する視線と、マスターの言うことならば間違いはないだろうが、と諦念を交えつつも猜疑する視線。何とも言えぬ重苦しい雰囲気が周囲に漂う。

「お待たせ致しました。……此方でご覧になりますか」

「お邪魔でなければ、是非」

 しかし、そんなぎくしゃくとした空気も二人はまるで意に介さない。老婦人が着いた席のテーブルに紙袋を置き、丁寧に一礼して、マスターは静かに傍を離れる。彼女もまた、無言で会釈を返すばかりであった。

 ぱたり、とドアの閉じる音。バックヤードへ引っ込んでしまったのだ。一度裏へ閉じこもってしまったならば、彼は休憩時間が終わるか、いっそ強盗でも出ない限りフロアへ戻ることはない。表に残されたスタッフは揃って顔を見合わせ、諦めたように肩を落とした。

 “マスターからの釈明を聞くのは後にしよう”と。目は雄弁に語る。


 オーナーの姿が消え、時が経つこと十数分。

「お待たせしました、今日のお昼の賄いはクッキー三種! 紅茶も淹れたんで、好きなだけどうぞー」

「おーすげぇじゃねぇのー。俺の娘も丁度こう言うのにハマってるぜ」

 仕事を片付けていたスタッフ達は、カウンター席の隅でナベシマの焼いたクッキーを摘んでいた。夜に訪れる客の嵐、その前の穏やかさ。そこには賑やかな空気と緩やかな時が流れている。

 客が居ようと居まいと関係なく、休める時には思い切り休む。店の客とスタッフの間流れる不文律だった。

「七恵さん……いえ、ななみさん?」

「どちらでも」

「それでは、ななみさんも是非。サービスです」

「あら、ありがとう。気が利くのね」

 紙袋一杯のクリアファイルの、恐らくは三分の二ほどを読んだところであろうか。三十冊以上のファイルが積み重ねられた横に、ナベシマはクッキーを並べた皿とティーセットを置く。婦人の眼は文書を離れ、角砂糖入れを置こうとしていた彼女の横顔を、検めるように見つめていた。

 そして、一礼して去っていこうとした背に、柔らかく声を掛ける。

「御礼と言ってはなんだけれど、退屈な昔話を聞いて頂戴?」


「昔、話……?」

 疑惑の余韻さえ掻き消すほどに、緊張した空気が漂っていた。

 婦人はファイルを閉じ、そして自らの瞳も閉じる。何かを思い起こすための仕草である。

「貴方方はこのファイルの中身を一度は見ているのでしょう? でしたら、きっと私の過去に何が起こっていたかは、上辺であってもご存じのはずね。母親が父親に殺され、遺言の執行者も殺され、娘は行方不明――巷で一時期騒がれた事件の、行方不明になっていた娘が私」

「ぇあ、はいっ」

 しどろもどろになりながら返すナベシマへ、婦人はくすくすと面白そうに笑った。

 犯人は捕まっていないのではないのか――ログの中身を知るスタッフの脳裏に同じ疑問が掠めたものの、到底問いただせる空気ではなく。痛いほどの静謐に、老女の柔らかな声だけが転がる。

「あの後私は叔母に引き取られました。叔母さんには子供が居なくてね、本当の娘のように私を育ててくれて。もう叔母さんも叔父さんも亡くなってしまいましたけど、今でもあの頃が一番幸せだったと思うわ」

「い、今は?」

「あら、私はずっと幸せよ? そう思えるまでに時間が掛かっただけ。あの頃は考えなくても幸せだったものね」

 礼を失した問いに気分を損ねた様子もなく、婦人の手が目元に零れた髪を払う。ナベシマは気圧されたようにふらふらと数歩後ろへ下がると、糸の切れた人形の如く、すとんと椅子に腰を落とした。

 髪を払った手で、紅茶を一口。僅かな間を取り、再び話し出す。

「あんなに騒がれた事件の関係者でも、意外と普通の生活は送れるものね。私はごく普通に学び、友人を作り、大人になった。仕事はとても充実していた。大変な中でも甘い恋をして、家庭を持つことだって出来たわ。……それでも、私は怖かった」

「父親が、ですか……?」

「そうかもね。何度も振り払おうとしたけど、そう簡単に出来たら苦労しない。夢は毎日見たわ。私が小さかったときも、学生になっても、仕事が忙しくなってからも。夢の意味が分かってから、もっと怖くなった。大事な商用を控えた夜にうなされて、眼の下に出来た隈をメイクで必死に隠した朝もあった。亭主にも随分迷惑を掛けたわね」

 そう話す声には、しかし漣一つ立たず。

 窓の向こうの明るみへ向けられた眼は、此処ではない遠くを見つめる。

「人から見た私は、きっと幸せだったのでしょう。でも私は、今までずっと恐れていただけだった」

 意味が分からない、と言いたげな顔で、ナベシマは婦人の顔を見た。

 婦人もまた、彼女の顔を見ていた。

「名前を変え、姓を変え、過去を消して――“喜孝ななみ”として、私は生きてこられたかしら?」

「…………」

「私はいつまでも母を愛しています。だからもう一度、私は“喜孝ななみ”として、母から貰った名前と過去を負って生きたい。その為に、私は此処へ来たの。残っていること、忘れたこと、思い出さないようにしてきたこと……私が捨ててきた、“喜孝ななみ”の過去を取り戻すために。だから返してほしいの」


 いつの間にか、紅茶は冷め切っていた。

 誰も彼もが背を正して固まり、空気さえも停滞している。

「あら、オーナーさん」

 重苦しい停滞と膠着を打ち崩したのは、バックヤードと表を隔てる扉の軋りと、老婦人の明るい一声だった。凍り付いていたスタッフが一斉にその方へ眼をやり、矢のような視線を浴びて、マスターは扉を閉めた体勢のまま一同を見回す。そして、何も言わずに婦人の前まで歩み寄った。

 アンドロイドの機体は重く、古びた床を下手に歩けば容易に踏み抜いてしまう。しかし、その歩が床に悲鳴を挙げさせることはない。緊張した空気を乱すことなく歩み寄る様は、ある種不気味ですらあった。

「お伺いしたいことが御座います。喜孝様」

 感情の読めない声。鳶色の双眸が、色のないモノアイを見上げる。

「何でしょう?」

「貴方は、父親を許すことが出来ますか?」

「いいえ。私はそんなに大人じゃありませんもの」

 即答。そこに躊躇いや迷いはただの一瞬もない。

 蛇のように執念深い恨みが、童女の如く無邪気な笑みの裏に張り付いていた。

「かしこまりました」

 マスターはただ、いつものように頭を下げた。


 からん、からん。涼やかにドアベルの音が響く。

 重たい紙袋を片手に、颯爽と辞していった貴婦人の背を、ロマとマスターは並んで見送った。

「Nさん、私の疑問に答えてくれませんか。他のスタッフも思っていることです」

「ええ。ログの譲渡は今までにも数度実行した事例です。ログを書いた方本人か、或いは親族の方が強く希望され、諸条件が合致した場合にのみログの原本をお返ししています。勿論ですが、コピーは残してありますよ。これからが来ないとは限りません」

 ドアが閉じ、ベルの音が消えても、二人は立ち尽くしたまま。

 閉じられたドアを眺めながら、会話は続く。

「成程。今まで言わなかったってことは、私の管轄外だったんだと思います。勉強になりました。質問を変えましょう」

「……喜孝様があの場でイエスと言ったならば、私はこれをお渡しするつもりでした」

 誰しもが思い、かの者もまた回答の要求を予想したであろう質問を、わざわざもう一度言う必要もない。マスターは呟くように告げてエプロンのポケットに手を入れ、薄い茶封筒をロマに手渡した。

 “古高七恵様”――乱雑でがたがたの、釘で引っ掻いたような文字である。封筒のフラップは「〆」の字で適当に戒めてあるばかり、切手も張り付けられていなければ、名前以外のいかなる情報もない。仮令ポストに投函したとしても、届くはずのないものだ。

 渡せば届いた願いを、此処で握り潰す。その心は。

 ロマの表情は確信を得た者のそれであった。


「あの方にはもう、必要のないものです」

 これは第八ログへ。

 そう言い伝えて去っていくマスターに、ロマは黙って首肯した。



 〔当事案を以て、【Log 00287】関連ログは全て第八ログへ移行します。特殊業務担当スタッフはログ変動履歴の確認と修正を忘れないようにしてください。 :マスター〕

 〔また徹夜で整理しなきゃいけないのかよ! 鬼! 悪魔ー! :ヒナタ〕

 〔私は徹夜作業を強要も推奨もしていません。 :マスター〕



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