ロンガヴィタ
例えば、お蕎麦屋さんが〈そばアレルギー〉になってしまったり、猫好きが〈猫アレルギー〉になってしまったり。
近い存在にも関わらず……いや、近い存在だからこそ、かかってしまう病気というものがこの世には存在している。
神様はなんて残酷なことをするんだ……と文句を言ったバチが当たったのか、俺にとって1番大切な人が、とんでもないアレルギーを発症してしまった。
しかも、命に関わるほど重いアレルギー。
その対象は……俺だ。
理夏(りか)と初めて会ったのは高校1年生の時。
俺たちは同じ学校のクラスメイトだったが、何度か言葉を交わしたことがある程度で特に仲が良かったわけでは無かった。
俺は俺で全然違う女子と付き合うことになって浮かれまくってる時、理夏も先輩だかと付き合ってるなんて噂が聞こえて来た、ぐらいの関係のまま高校卒業。
特に彼女のことを意識することも無く、大学進学、卒業、そして社会人になった。
そんな彼女と再会したのは、とある年の同窓会。
みんなそれぞれ仕事やら人間関係やらに行き詰まりがちで、口から出るのがほとんど愚痴の類いといった重い雰囲気の中、バカみたいにケラケラと笑っている女、それが理夏だった。
俺自身、元々やりたかった仕事とはまったく違う職に就いていて、転職しようかどうか真剣に悩んでいる時期で、脳天気に笑う理夏の姿を見て正直ちょっとイラッとしてしまった。
酒が入ってたのもあって、思わず「うるせーなもう」と口に出してしまう。
すると理夏は、
「あれ、順平くんじゃん、久し振り! 相変わらず格好いいね!」
と、笑いながら俺の背中をポンと叩いた。
自分で言うのも何だが、ブサイクじゃ無いにしても決してカッコいいなんて言われるようなルックスでは無い。
生涯でそんなセリフを言われたことなんて無いし、間違い無く冷やかしてきてるなこれは……と、さらに苛立ちが強まった。
仕事上のストレスも相まって、さらに汚い言葉が口を突いて出そうになったその時。
「私、好きだったんだよね順平君のこと! あっ、思わず言っちゃった、てへっ」
そう言って、理夏は顔を真っ赤にしながら笑った。
周りの連中が「ヒューヒュー!」とか言い出し、結婚行進曲をハミングしだす奴も出てきた。
「な、な、なに言っちゃってんの急に? ば、バカじゃねーの!?」
俺は悪態をつきながらも、心臓はバックバクだった。
久し振りに会った理夏はとびきりの美人に……なんてドラマみたいなご都合主義とはいかないものの、その笑顔はとてもチャーミングで、くすんでた俺の目にはとても眩しく、そして魅力的に映った。
とにかく、それをきっかけに皆が皆、現実世界から高校時代に戻った。
あの蒸し暑い教室にタイムスリップしたかのように、恋バナだの下ネタだの、ワイワイガヤガヤし始めた。
何となく気持ちも落ち着いてきて、俺と理夏も普通に世間話をし始めた。
俺はその時──というか今もだが──、新種の花を開発するという仕事をしている。
なんでこうなったのか自分でも不思議なぐらいなのだが、何故か俺にはこの仕事の才能があったらしい。
そして、驚いたのが理夏の仕事。
「私は、お花屋さんやってるよ! 子供の頃からずっと夢だったんだ! 凄いでしょ!」
そう言って無邪気に笑える彼女がとても羨ましかった。
そして、生まれて始めて“運命”というあやふや過ぎる存在を明確に感じた。
花を創る俺と、花を売る理夏。
彼女は小さい頃からの夢だったみたいだけど俺はそんなの全然知らなかったし、そもそも俺なんて花の名前もろくに言えなかったぐらいで、気付いたらこの仕事してたって感じなのに。
でも目指してたものじゃないからこそ、余計に何か非現実的な何かを感じずにはいられなかった。
なによりも、時間を忘れるぐらいとにかく喋りまくって分かった確かなこと。
それは、俺と理夏はもの凄く気が合う……ってこと。
いくらでも話すことができて、価値観も似通っていて、お互いの見た目も気に入ってる……そんな2人が付き合うのに時間がかかるわけがなかった。
最初は普通の恋人同士だったが、2人とも“もっと一緒にいたい!”という気持ちが抑えきれなくなり、早々に同棲することになった。
そのまま結婚しても良いと本気で思ったが、さすがに時期尚早すぎるだろと思って自重した。
……が。
奔放な理夏は、普通にごく自然な流れで結婚に関する話を振ってきた。
「ねえ、結婚したら家事の分担どーする? 私、掃除好きだから掃除大臣やる!」
「オッケー。そんじゃ、俺は料理大臣だな。理夏に任せたりなんかしたら、腹がいつまで持つのやら……」
「ちょっと順平! それは失礼発言じゃない? 私のミスなんて砂糖と塩を間違えちゃったり、フライパン使ったら確実に焦がしまくったりするぐらいなもんで……って、やばっ! お腹持ちそうにない! 順平正解!」
と、いちいち笑わせられたり、
「子供の名前どーする? キラっちゃう? それとも無難系? あっ、やっぱ私たちの子なら、花の名前を入れたいよね!!」
「パパ、ママ、じゃなくてずっと下の名前で呼び合いたいな~」
「順平と喋ってる時が1番幸せなんだから、おじいさんおばあさんになっても喋りまくるから覚悟しといてよね!」
みたいな話をしょっちゅうしていた。
人によっては、ちょっと重く感じてしまったりする場合もあるのだろうが、俺は間違い無く理夏と結婚すると思ってたし、一刻も早くしたいとも思ってたから、そんな会話を普通にニヤニヤしながら楽しんでいた。
彼女が“いつでもOK”なのは間違い無い。
それに関しちゃ俺も同じなのだが、彼女を必ず幸せにするために、俺は自分の中であるハードルを設定した。
それは、俺がリーダーとして開発に携わってる新種の花〈ロンガヴィタ〉の完成。
ある画期的な特徴を持つ花で正直かなりの強敵なのだが、開花予想CGを理夏に見せたとき「めちゃくちゃ綺麗! 完成したらうちの店に置かせてね!」と大はしゃぎする姿が今も瞼に焼き付いている。
その高いハードルを越えたとき、俺は理夏にプロポーズする。
本当に自分勝手で何の根拠も無いものだけど、それを成し遂げた時、俺は心から本気で「理夏を幸せにする」と言えるような気がしていた……。
──そして現在。
俺と理夏はまだ結婚していない。
それどころか……別れの危機に直面していた。
その理由は、気持ちが冷めたわけでも無く、浮気をしただの、性の不一致だのでもない。
ロンガヴィタの開発は順調に進み、奇しくも今日、ついに試作品第1号が完成し、通常環境でちゃんと花が咲くかどうかを確認するために種を家に持ち帰ってきた。
しかし、その家に理夏はもう居ない……。
その理由は……特定ヒトアレルギー症候群。
数年前に初めて発見された新種の病気であり、1億人に1人という稀な病気で、治療法の手がかりすら掴めていない難病に理夏が蝕まれてしまった。
その症状は『特定の人間と一定時間近くに居るだけで死んでしまう』という恐ろしいもの。
1番身近な人が対象になることがほとんどで、別名〈離恋病〉とも呼ばれていた
そして理夏にとってその『特定の人間』が俺、という残酷な現実。
つまり、大好きな理夏のそばにいるだけで、俺は理夏を殺してしまう。
しかも、特効薬も治療法も何も無い、不治の病と言われていて……。
「じゃあ、『近く』ってどれぐらい何ですか!?」
日本でも数人しか居ない、離恋病の研究をしている医者の1人と話をしたとき、思わず興奮してそう詰め寄ってしまった。
「それは彼女の体調や病気の進行状況によって変わります、としか言えず、本当に申し訳ありません」
と、先生は優しく答えてくれた。
「気休めにしかならないかも知れませんが、これを使ってみてはどうでしょうか」
そう言って、先生は一対のブレスレットを取りだした。
それは、1つが送信機で1つが受信機。
離恋病の発症者が送信機を身に付け、アレルギーの対象となる人間が受信機を身に付ける。
すると、送信機側のブレスレットが発症者の症状をリアルタイムでチェックし、悪化の兆候が出始めると受信機側に警告動作(バイブ)を促す。
つまり、俺が理夏に近づいて行き、ブレスレットが震えた場所。
そこが、俺たちの境界線……ってわけだ。
病気が発覚してからしばらく、理夏は今まで通り俺と一緒の家に住み続けていた。
向かい合って食事をする距離でも大丈夫だったが、隣り合って皿を洗おうとするとブレスレットが激しく震えた。
距離を取ろうとする俺に対し、理夏は「やだっ! こっち来て!」と無理矢理腕を引っ張ろうとした。
俺だってもちろんそばに居たかったが、理夏が死ぬのはもっとイヤだった。
「やだよ! 順平ともっと近くに居たいし、キスしたいし抱きしめたい!!」
あんなにずっと笑いっぱなしだった理夏が、泣きながら何度も何度もそう言い続ける。
俺だって全く同じ気持ちなのに、そうしてやれないジレンマで心が押しつぶされそうになった。
それが辛いのもあったし、離恋病の症状が進行して2人の境界線がどんどん広がって行くという現実的な理由から、理夏は実家に戻る事になった。
幸い、俺に近づくことさえしなければ、理夏の体は全くもって健康そのもので、日常生活はもちろん仕事も今まで通り問題無く続ける事ができた。
だとすれば、俺が理夏を幸せにするために出来る事はたったひとつ。
このまま彼女と距離をとり続けること。
もっと言えば、彼女と別れて──。
ブルブルブルッ。
突然、右手首のブレスレットが激しく震えた。
「ま、まさか……!?」
このバイブは、理夏が境界線の中に入ったという証。
俺はいま、静かなリビングのソファで1人ジッと座りっぱなし。
と言う事は……理夏がここに近づいて来てる!?
ブルブルブルッ。
バイブが収まらない。
とにかく急いでこの家から出よう……い、いや、そうすることで逆にもっと理夏に近づいたらどうする!?
もしかしたら、たまたま境界線の中を間違って通り過ぎただけかも──。
ブルブルブルッ!
ブルブルブルッ!
ブレスレットの震えがどんどん激しくなっていき──。
ガチャッ。
玄関の扉が開いた。
「……理夏!」
「順平!!!」
廊下の向こうに理夏の姿が見えた。
呆気にとられる俺に向かって、理夏が全速力で駆け寄ってくる。
ブルブルブルッ!
ブルブルブルッ!
ブルブルブル……ピー!!!
ピーピーピー!!!
今まで聞いたことの無い警告音がけたたましく鳴り響く。
気がつくと、俺たちは強く抱きしめ合っていた。
「理夏! 今すぐ離れないと……理夏が死んじゃう……」
「やめて! 離れないで! もう耐えられない! 順平から離れたら私の心が死んじゃうよ!!」
理夏は号泣しながら耳元で叫んだ。
「でも……このままじゃ……」
俺は泣きながらそう呟いてはいるものの、両手はギュッと理夏を抱きしめたままだった。
どんどん激しさを増す警告音。
このままじゃ、理夏を殺すことになってしまうのを分かっているのに、離れることが出来なかった。
頭では、無理矢理にでも彼女を振り払って廊下を走り、家の外に出てとにかく少しでも遠くに離れなければ……と思っているのに、心がそれに従わない。
俺たちは泣きながら、ずっとその場で抱き合っていた。
どれぐらい時間が経ったのか。
突然、警告音の鳴り方がガラッと変わった。
ピッ……ピッ……ピッ……。
それはまるで、弱っていく彼女の心音を現してるかのような……。
「……ねえ、順平」
「……なに?」
「私が死んだらさ、すぐに新しい彼女見つけるんだよ」
「な、なにバカなこと言ってんだよ! 理夏が死ぬわけ無いじゃん!」
我ながらなんていい加減なセリフ。
どうなるか分かってるのに抱きしめたまま離れない男が何を言う。
「うん、私って本当にバカだよね。順平の事が大好きで、順平とこうやって一緒に居られるだけで幸せで、最後に抱きしめることができたらもう死んでも悔いは無い! って思っちゃったんだから」
理夏は弱々しくフフッと笑った。
「だ、だったら俺も大バカだよ! 理夏がどうなるかって分かってるのに、ずっとこうやってるんだから……」
「ありがとう、順平。でも、この病気になっちゃったのは誰でも無く私のせい。私の体がこうなっちゃったんだから、全ての責任は私に──」
「んなわけねーだろ! 発症する対象が俺なんだから、少なくとも俺にだって──」
「やめて! 絶対に……絶対絶対絶対、順平が悪いなんてこと絶対に無いんだから! それ以上言ったら許さないよ! 分かった??」
警告音……いや、理夏の心音のインターバルがどんどん長くなっていく。
もう、後戻りできない段階まで来てるのは明白だった。
それなのに、彼女は真剣な眼差しで俺に釘を刺したあと、ニコッと満面の笑みを浮かべた。
この状況でそんな笑顔を見せる彼女に刃向かうことなんて出来るわけがない。
「……ああ、了解。そんな風に思わないよ」
「よしっ! 良い子だ良い子だ」
理夏は笑いながら手の平で俺の頭を撫でてくれた。
「ねえ、順平」
「ん?」
「愛してるよ」
「ああ、俺も愛してる」
「だけどね」
「うん」
「ひとつ約束して」
「約束……?」
「そう。私が死んじゃった後、『理夏以外の人なんて愛せるわけない! 一生独身を貫く!』なんてこと絶対にしないでよね!」
「……えっ!?」
「あっ、ほらやっぱり! そう思ってたんでしょ!!」
「いや……その……」
「ダメだから! そんなの絶対ダメだから! 私は順平と出会えて最高の人生だったし、こうやって最後までそばに居ることができたまま天国に行けて幸せなの! でも、順平がそんなことになったらその幸せどっかに消えちゃうよ! 私の存在が順平を縛り付けるなんて絶対にイヤ。だからこそこうやって……」
理夏の顔から笑顔が消えた。
あまりにも沢山の感情が湧きすぎて頭がおかしくなりそうだった。
ただ、その中でもひとつ、大きな気持ちがプカッと浮かび上がってきた。
それは……。
「分かった。約束する。そんな風にならないって」
「……うん! 絶対だよ!」
「おう。命を賭けるよ……って、あまりにも不謹慎過ぎるか」
「ハハッ! それウケる! 最高だよ順平!!」
理夏は泣きながら嬉しそうに大きく笑った。
……うん。
やっぱり理夏の笑顔は最高に素敵だ。
「なあ理夏」
「なぁに?」
「ひとつだけ許可を頂きたいんだけど」
「おお、なになに?」
「理夏のお願いとは言え、さすがにすぐ気持ちを切り替えて『よしっ、そんじゃ次の人探すか!』なんてなれるわけ無いから」
「うん」
「だから、俺が作ったこのロンガヴィタ。この種を植えて花が咲いて散るまでは……理夏のことだけ考えてても良いかな? その間だけは、理夏のことを……」
泣きすぎて枯れたと思った涙が、堰を切ったように両目から溢れ出した。
それを見た理夏もワンワン泣き出してしまった。
「う……うん……もちろん! ……もちろんだよ。私だって本当は……ううん。その花が咲いてる間だけ、私は順平を独り占め! なんかちょっと嬉しいな!」
「お……おう! 理夏、愛してるよ!」
「うん! 順平、私も愛してる!!」
俺たちは再び、お互いを強く抱きしめ合った。
それからすぐ、ブレスレットは静かにそっと鳴り止んだ。
──1ヶ月後。
植木鉢に植えたロンガヴィタが綺麗なオレンジ色の花を咲かせた。
それはどことなく、理夏の明るい笑顔に似ているような気がした。
約束通り、これが散るまでは理夏の思い出に浸り続ける。
……あっ、そうそう。
理夏には内緒だったけど、ロンガヴィタには他の花と違った大きな特徴がある。
それは、他の花よりちょっと……いや、かなり長く生きるってこと。
〈了〉
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