報酬1億円の仕事を終えて

 汗まみれの服を乱雑に脱ぎ捨て、バスルームの中に入ると、湿気た空気の匂いが鼻腔に流れ込んだ。

 正面の鏡は、鍛え上がられた逞しい裸体を映し出している。


 俺は、シャワーの温度をいつもより少し高めに設定し、ハンドルを回した。

 勢いよく飛び出してくる冷たい水。

 それがお湯に変わるまで多少ラグがあるのは分かっているが、熱を帯びたこの体にはそれもまた心地よく、敢えてその中に飛び込む。

 張り詰めた筋肉がギュッと引き締まる音を感じながら冷水を浴び続けると、やがて熱いお湯に変わり、あっという間に室内が湯気で満ちる。

 

 俺はそっと目を閉じて、フックに掛かったままのシャワーに頭を差し出し、顔から首、そして胸を伝って下半身へと流れていく熱い液体の1滴1滴をしっかりと受け止めようとした。

 頭上に到着した温水を足下に来る頃には冷水にさせてしまうぐらい、全ての細胞に意識を集中して、熱を貪ろうとした。

 それでも、リビングの床に置いたアタッシュケースの中身の事が、頭から離れることはコンマ1秒たりとも無かった。

 びっしりと詰まった札束。

 その額、1億円。




 バスルームから出ると、タオルで体にまとわりつく水分を一気に拭き取る。

 そして、裸のまま洗面台の壁一面に張られた鏡の前に仁王立ち。

 そこに見えるのは、一切の贅肉がそぎ落とされ、まるで彫刻のような美しい筋肉の群れ。

 己の裸体にうっとりするなんて、まるでたちの悪いナルシストだな、と苦笑いするが、それもまた仕方ないと擁護する自分もいた。

 なぜなら、他ならぬこの筋肉こそが、あの1億を掴み取ったのだから。

 

『お前、よくやったな』と、自分で自分に賛辞を送るなんてことさえも、今日は許される気がした。

 とは言え、ついついにやけて口元が緩む男の顔は長時間見るに堪えず、棚から取った真新しいボクサーパンツを履きながら、リビングへと戻ることにした。


 

 途中、キッチンの冷蔵庫からキンキンに冷えた缶ビールを取り出し、リビングの隅に置かれたフロアソファに腰を落としながらプルトップを開けると、シュワっと弾ける音がした。

 鼻腔をつく芳醇なホップの香りが潤滑油となり、冷たいビールを一気に半分以上飲み込んだ。

 残りも全部飲み干したい衝動をグッと抑えながら、床に置かれた黒いアタッシュケースに目を向ける。


 事の始まりは1本の電話。

 ある男に呼ばれたオレは車を飛ばし、古い一軒家へと向かった。

 そして、その男から受けた依頼をこなし、報酬としてこの1億円を得たのだ。

 結果的に、掛かった時間はそれほどでも無かったが、この鍛え上げられた肉体を持ってしても、中々骨の折れる仕事だった。

 しかし、その疲れも熱いシャワーを浴びたことで、大分癒やされていた。

 その熱はまだ体に留まり続けている。

 それを裏付けるかのように、額から溢れ出した汗がポトリとソファに落ちた。


 俺は、首に掛けたタオルで顔や胸の汗を拭き取りながら、ビールの残りを一気に飲み干した。

 しかし、1億円の仕事をやり終えた体は、缶ビール1本なんかじゃとてもじゃないけど満足しない。

 確かまだあったよな……と希望的観測で記憶を辿りながら、ソファから立ち上がってキッチンへと向かう。

 だが、願いはむなしく、空っぽの冷蔵庫に打ち砕かれた。

 仕方ない。


 俺は寝室のクローゼットからTシャツとハーフパンツを手にとって、それを身につけながら玄関にたどり着いた。

 そして、サンダルを履いて鍵を開けようとした所で忘れ物に気付く。

 危ない危ない。

 お金を持たずに店に行く所だった。

 俺はリビングに戻り、黒いアタッシュケースを手に持ち、そして玄関から外に出た。




 家から歩いてすぐのコンビニに入り、脇目も振らずお酒売り場に向かい、冷蔵庫から缶ビールを1本取り出す。

 レジに向かう途中、おつまみコーナーのお徳用さきいかパックにそそられたものの、手持ちが無いので我慢。

 3人ほど列が出来ていたので、その後ろに並ぶ。

 それから1分もしない内に俺の番になり、「どうぞ」と声をかけてきた店員のレジへと進む。

 この店でたまに遭遇する可愛い女の子店員の顔に見とれていたら


「年齢確認のボタン、お願いします」


  と言われて、なぜかビクッとした。

 この娘、自分好みの年齢かどうか確認しようとしてるのか?

 ……いや、お酒を買ったからじゃないか、と当たり前のことに気付いて苦笑いしながらボタンを押す。


「はい。ではこちら、1億円になります」


 可愛い店員が、顔色1つ変えずに言った。

 俺は、アタッシュケースをカウンターに置き、鍵を開け、まるでマフィアの取引の如く、中身が見えるように180度回転させた。


「はい。現金払いですね。では、少々お待ち下さい」


 と言って、可愛い店員はこなれた手つきで、レジの後ろに設置された『高速紙幣カウンター』を使って俺の金を数え始めた。


「はい。確かにぴったり1億円。ありがとうございました」


 笑顔も可愛い店員に見送られながら、俺はコンビニを出た。


 ここ数年、もの凄い勢いで加速した超インフレのせいで、とうとう缶ビール1本買うのに1億円払わなければならなくなった。

 今日、突然おじいちゃんに電話で呼ばれ、何事かと心配して車を飛ばしたもののいざ着いたら「肩が凝って辛抱貯まらん」なんて言うもんだから呆れたが、肩たたき30分のお駄賃が1億円っていうんだから、とんでもない世の中になったものだ……。



〈了〉

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