79話「クトゥルフ」

「ジュブ=ニグラスです」

 梓の指先が、ページの上部に大きく表示されている名前に触れる。

「本当に……でも何で……ブードゥーの儀式にクトゥルーの神が……」

「意外かもしれませんが、ジュブ=ニグラスが、この豊穣のまじない信仰されている神様なんですよ」

「それは分かったけど……なんでブードゥーの儀式にジュブ=ニグラスなのよ。クトゥルーでしょ?」

「ブードゥー教が、何故、異教の神を信仰していたかということですよね。もしくはその逆か」

「ええ……それに、クトゥルー神話って、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの創作だとばかり思ってたけど……」

「クトゥルー……神話・・ですけど?」

「そりゃ……分かってるけど、あまりにも歴史が新しいでしょ」

「歴史が新しい古いと、創作か創作じゃないというのは別でしょ」

「ん……そうだけど……」

「歴史の深さは、この際、判断基準にならないですし、聖書だって、信じる人にとっては経典ですけど、信じない人にとっては創作でしょ?」

「ううん……理には適ってるわね……」

「でしょ?」

「ううん……」

 杏香が唸って眉を顰めた。


「そうなのよね……確かに辻褄は合ってるのよ。梓の説なら。でも……ブードゥーとクトゥルフって別の宗教なのよ?」

「それも、他の類似の例で説明できると思います。ルシファーとヘルメスが同一視されてる例もあるですし、神様と仏様……つまり神道と仏教も、一つの体系にまとめられた時代もあったです」

「それは……そう考えると、確かに不思議なことでもないのか……」

 杏香が腕組みをしてうつむいた。梓はその様子を見て、杏香さんは今まで私が話したことを噛み砕いて、頭の中で整理してるのだと、梓がこくこくと頷いた。

 杏香のこの姿はあまり見かけないが、自分で酷く納得できないことに出くわした場合に、杏香はこうやって、しばらくじっとして、深く思案に暮れる時がある。

 杏香は職業柄、あまりにも突飛なことを受け入れなければならないことが多い。しかし、それを受け入れるには人間の脳の対応力は無さ過ぎる。つまり、杏香は人間としての限界を超える理解力を発揮しないといけない場面に度々遭遇するのだが……梓は、そんな状況に置かれた杏香が、すぐに現状を把握して、それを理解するために生み出した、脳を対応させるための技なのだと解釈している。

「……そうよね、そう考えると、全て辻褄が合うのよね」

「ですよね」

 今回は納得したようだ。梓は何かの裏付けが取れたかのような安堵と自信に包まれた。杏香は普通の人なら混乱するような、突飛な事態に巻き込まれた時、それが真実かどうかを咄嗟に見極めようとする。梓は杏香のこういった行動を初めて見た時から、その対応力と理解の速度に惚れ込んでいる。


「ちょっと、もう一回よく読んでみるわ。梓の言う通りだとするなら、本当にこれが一番の候補になりそうよ」

 杏香が紙を、食い入るようにして見始めた。端の方にも注意深く目を走らす。

「えと、そもそもジュブ=ニグラスって何だろ。名前は聞いたことあるけど、クトゥルフとかノーマークだったから……」

 杏香がポリポリと頭を掻きながら、梓が持ってきた本の方に視線を落とす。


「ええと……アザトースから産み落とされた神……豊穣神のような性質を持つ……」

 杏香がジュブ=ニグラスのページに、注意深く目を走らす。


「あ、ちょっと待って……!」

 杏香が誰に言うでもなく、驚いた様子で呟いた。

「あの、別に、ずっと待ってるですけど……」

「あ、ごめんね待たせて。梓、これ、ジュブ=ニグラスは、山羊の神様らしいわよ」

「黒い山羊と言われていて、容姿も山羊のようだとの記述が、ジュブ=ニグラス関係の書物には記されてるです」

「じゃあそれなんだ!」

「え? 何がです?」

「GOの正体よ」

「えと……ああ、写真に写ってた奴ですね。ダイイングメッセージだろうと言ってた」

 梓が血文字でGOと書かれていた写真のことを思い出す。杏香があの写真を持って来てから、もう随分時間が経った気がする。ほんの数ヶ月なのに何年も月日が経過しているように感じられるのは、その間に起きた出来事が多く、濃密だったからだろうか。

 恐ろしい連続殺人、妖怪の里、魔法を使える少年……いや、少年の姿をしている少女との出会い。ティムの負傷と、そのティムも歯が立たなかった怪物との対決。その怪物によって、警察である杉村さんも殺された。そして……私もまた、その怪物と戦い、私は辛くもそれに打ち勝ったものの、重傷を負った。……そして、その後、本格的に修行を開始した。

 そして、今、ようやく連続殺人事件の全貌を掴もうとしている。


「……あっと」

 物思いにふけるのは、後にしよう。今は杏香さんに、GOの正体を聞かないといけない。梓はそう思って首を横に振った。

「……あの写真については私も調べたですけど、GOが示した先に行っても何も無かったです」

「ええ。あのGOは、『行け』のGOじゃないわ。大文字小文字、もっと言えば半角全角それぞれの可能性も疑ったけど……関係が無かったわね」

「そうですか。じゃあ、何が……」

「今思えば、GOは効果的なダイイングメッセージだったかもしれないわ。でも、ダイイングメッセージを残した本人は失敗してた。……といっても、それが分かったのは死後のことだし、それが顕現したのも死後のことかもしれないから、本人は知らないだろうけど」

「死後に失敗……」

「そう。その失敗は、皮肉にも自分の体から出て、しかも、それによってダイイングメッセージを残すことが出来たものによって引き起こされた」

「自分の血……ですか」

「そう。被害者は大量に出血していたけど、だからこそ、それを使って咄嗟にダイイングメッセージを残すことが出来た。でも、それによって、伝えたいことの半分を掻き消されていたの。「r」と「t」の文字をね。

「『r』と『t』ですか……Gort……ゴート……山羊……あ!」

「そう。犯人が残したかったのは、「GO」という言葉じゃない。「Gort」という言葉だったのよ」

 梓はそれを聞いて、ピンときた。しかし、同時に何故、被害者がその事を知り得たのかという疑問が沸いてきたのだった。

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