第11章 裏切り(17)

「ああぁ、う……」

 

 礼韻が言葉にならない声を発する。興奮の極みで、本人も意識なく発しているのだろう。涼香はじっと見つめる。

 

 あと数分で、日本戦史上最大といっていい大逆転劇が起こる。もちろん兵力の開きからいえば、厳島や桶狭間、河越夜戦には及ばない。それらの戦いは何十倍もの数的不利をひっくり返したのだ。しかしいずれも局地戦で、その一地域の波及力に限られる。関ヶ原は兵の数こそ差に開きがないが、それこそ日本全土に影響を及ぼした大戦だった。この逆転劇による影響は、東北から九州にまで渡る。

 

 今、礼韻の愛する男、石田三成は、優勢という意識を持っていることだろう。もちろん、まだ、どう転ぶか分からないという意識もあるはずだ。しかし少なくとも、一時間もしないうちに頓死が訪れるなど意識のかけらも持ってはいないに違いない。

 

 実際涼香も、目の前で繰り広げられる合戦を見ている限り、西軍の総崩れなど想像できなかった。

 

 礼韻の言うとおりだとすると、鉄砲隊は今、戦地を横切り、叢を掻き分けて松尾山に向かってきている。その数はおよそ20人ほどだろうか。急ごしらえの隊で、福島正則に仕える堀田勘右エ門もその一員だったという。その鉄砲隊が小早川秀秋を脅す「問鉄砲」を撃つ。「いつまで日和見を決め込んでいる! 早く約束どおりに寝返って大谷吉継に襲いかからんか!!」という意だ。それに驚いた秀秋がようやく態度をはっきりさせ、1万6000という大軍を西軍に向ける。

 

 小早川軍は松尾山を駆け下り、大谷軍へ。しかし大谷吉継は秀秋の裏切りを予測していて、600の兵を対小早川軍として置いていた。その迎撃軍が、圧倒的な数の開きにもかかわらず小早川軍を押し返す。その読みといい、少数精鋭の兵を揃えたことといい、さすがに秀吉が高く買った武将だ。しかし兵力差が、あまりにありすぎた。次第に圧されていき、壊滅し、大谷吉継は自害に追い込まれる。小早川軍はさらに北上し、宇喜多秀家、小西行長に襲いかかり、東軍との戦闘で疲弊したところでの攻撃ということで、あっけなく壊滅する。そしてそれまで宇喜田や小西と戦っていた軍が一気に石田三成の陣になだれ込み、ここに西軍の敗北が決定する。三成はしかし腹を切らず、農民の姿になって戦地から逃げ去る。

 

 これが、史書や小説などに書かれる、「問鉄砲」からの合戦の流れだ。関ヶ原という一つの物語の、クライマックスと言えた。間もなく、本当に間もなく、その場面が目の前で繰り広げられることになる。

 

 問鉄砲はなかったという説を唱える史家もいるし、松尾山の地形と当時の鉄砲の性能から、問鉄砲はまったく届かずに威嚇の役目にならなかったという意見も多い。涼香としては、問鉄砲があってほしいが、今はじっと見つめているよりない。

 

「向かってきている」

 

 優丸が言う。

 

 その声が落ち着いていて、涼香は不思議で仕方がない。礼韻と容姿が似ていて、なんとなく兄弟のようにも感じる優丸。歴史に関する知識も豊富で、興味もあるように感じられる。しかし一方の礼韻が忘我の声を発しているというのに、優丸は普段となんら変わりなかった。もしかしたら、本当は歴史になんか、これっぽっちも興味がないんじゃないか。あの落ち着いた様を見ると、涼香はそう思わざるを得ない。

 

「鉄砲隊が、向かってきている」

 

 もう一度、優丸が言う。

 

 涼香は優丸の方に向き、優丸が望遠鏡を向けている方角を自分でも追ってみるが、鉄砲を持った集団は見つけられない。

 

「どこ?」

 

 涼香が聞くが、優丸は無反応。

 

 小早川秀秋は、飽くことなく平岡頼勝にまくし立てている。

 

 その小早川秀秋の態度に影響され、涼香も、

 

「ねぇ、どこ?」

 

 と、少し音量を上げて詰問口調で優丸に言う。

 

「そろそろ、肉眼で見えるところに出てくる」

 

 優丸が、トーンを上げずに冷静な声で、涼香に言った。

 

「どうして肉眼で見えないところを進んできているのに、分かったの?」

 

 不思議に思い、涼香が真顔で聞く。

 

「えっ?」

 

「どうして?」

 

 そこで優丸が首を傾げた。

 

「分からない。でも進んでくるのが分かったんだ」

 

「帷面の血、かもな」

 

 礼韻がにやつきながら言い、すぐに望遠鏡に目を付けた。

 

 帷面の人間は拈華微笑だけでなく、透し能力もあるのか。涼香は目を見開いて優丸を見た。その優丸が、鉄砲隊が見えたぞ、と言った。

 

 涼香は急いで望遠鏡を動かす。そして松尾山に向かってくる、異様な雰囲気の集団を見つけた。彼らは一定の速度で松尾山に向かってきていた。

 



 

 

 





 

 

 


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