第11章 裏切り(18)

 

 布施源兵衛率いる鉄砲隊は藤川を渡り、松尾山の麓まで来た。

 

「ここでよい。各自仕度をせい」

 

 隊列を手で制し、山頂を見上げながら言う。これは望遠鏡越しに見た優丸の読唇術で涼香たちに伝わる。

  

「ここからでは届かん」

 

 鉄砲隊の一人が言う。

 

「弾が届く必要はないのだ。これの狙いは威嚇だ。鉄砲の音を響かせ、小早川殿を恐れさせれば我々の役目は果たせる。むしろあまりに距離を縮め、山腹のそこかしこにいる小早川の見張りに出くわせば妙なことになってしまう。だから、ここでよい」

 

「なるほど。つまりは、だれにも当ててはならぬということだな」

 

「そうだ。金吾殿(小早川秀秋)、石見殿(平岡頼勝)はもとより、小早川軍の足軽一人撃ってもよろしくない。やつらはこのあと東軍に寝返り、味方になるのだからな」

 

「だれにも当てるなという命令など、初めてのことだな」

 

 そこで何人かが笑い顔になった。

 

 布施源兵衛は家康から指示を受けた使い番から命令され、その場の何人かを選んで同行させた。急のことで、選ばれた足軽たちはその命令の意味合いまでは聞かされてなかった。状況として、おそらくなかには、暗殺部隊として駆り出されたと思った者もいたことだろう。

 

 当時の鉄砲の精度はよくない。麓からでは射程距離はかろうじて届くものの、狙った的に当てることはほぼ不可能だ。しかしこの使命は単なる空撃ちなので、布施源兵衛は気が楽だった。それが態度にも出て、腰に巻いた非常食をほおばりながら仕度をしていた。

 

「ワシが合図をしたら、一斉にあの御旗に向かって撃て。一発でも多く、派手に響き渡らせるのだ。おそらく小早川軍は混乱の際に陥り、我々に向かってくる者などいないにちがいない。我々はとにかくここに居座り、数多く撃つ!」

 

 布施源兵衛が言い、皆が頷く。

 

「問鉄砲は、本当に、あったのだな」

 

 優丸の反対側、礼韻からつぶやきが漏れる。礼韻の欲する歴史の名場面が、もう間もなく行われようとしている。

 

 歴史の名場面は、多分多くの言い伝えが虚像だろうというのが、礼韻の基本的な考えだった。残された文献は審判団や中立者が書いたものではない。そして文献を精査、検証する者もいない。一般的に考えて、その後に権力を握った者がカッコよく描かれているエピソードは、ほとんど疑っていいのではないかと礼韻は考えていた。

 

 だから、世紀の大逆転劇を起こす引き金となるこの「問鉄砲」も、礼韻は疑っていた。しかしこうやって目の前で行われている。いや、行われようとしている。礼韻は興奮で心臓が荒波を立て、呻くような息遣いになっていた。

 

 涼香は心配そうに、礼韻の肩に手を添えた。おそらく礼韻は、手を添えられているという意識がないに違いない。涼香は長い付き合いのなかで、礼韻の恐るべき集中力を知っていた。礼韻が集中するとき、感覚は一点に集約される。他は、無感覚となる。たとえ切られようが焼かれようが、考え込んでいるときは反応しない。だから、こんな手の感覚など残っているはずはない。涼香の単なる自己満足だった。覚えていなくたって、この世紀の瞬間を礼韻と一緒に味わえたことがうれしい。このあと現世に戻り、礼韻と一緒に過ごしていくのかは分からない。涼香はそう願っているし、そうあることが当たり前だという意識もある。しかし人生などどうなるのかはまったく分からない。仮に礼韻と離れて生きていくにしても、この場面で一緒だったということは事実で、礼韻の生涯の中で変更しようのないものだった。涼香にはそれがうれしかった。

 

 山の上では、相変わらず小早川秀秋が吼えている。もう、周囲がなにも見えなくなっている。絶えずせかせかと歩き回り、また戦況確認のために乗り出している。あれでは鉄砲隊が本気で撃ち殺したいと思ったら、距離さえ詰めれば簡単にやられてしまうことだろう。

 

 源兵衛は、戦場の騒がしさが切れるときを待っているのか、なかなか合図を出さない。あるいは、注目するあまり、そう感じるのかもしれない。先を求めるときの時の流れというのは、とにかく遅い。

 

 雲が切れ、薄日が差す。その、雲を飛ばした風の影響か、戦場の騒音がふっと小さくなった。大柄の布施源兵衛が首を伸ばして戦場を見つめ、そして振り向き、並ぶ鉄砲隊に向かい、

 

「撃て!」

 

 腕を松尾山頂に振りながら、声を発した。

 

「アッ!!」

 

 しぼるような礼韻の声と同時に、涼香の望遠鏡に白煙がふわりとわいた。鉄砲からの硝煙だ。ほんの少し遅れて銃声。音は視覚より届くのが遅い。

 

 そのすさまじい音で、小早川秀秋が跳ねるようにうしろに倒れ込んだ。

 

 


 





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