第9章 時渡り(4)


 小屋に戻った礼韻の目が充血しているのに、涼香が気づいた。


 願坐韻氏の様態に大きな変化があったんだ。涼香はそう直感した。もしかしたら、亡くなったのかもしれない……。


 しかし涼香はそれについて、礼韻に尋ねなかった。そういうことを嫌う性格だと知っているからだ。


 礼韻は特段表情も変わらず、その振舞いに通常と違うところも感じられない。ただ、ひまさえあれば読み物に耽る男だというのに、今は窓辺に腰掛け、ガラスを通して闇をじっと見つめている。


 優丸もなにかを感じているはずなのに、じっと本に目を落としている。彼らは心の中で会話ができる特殊な友人だけど、と涼香は思う。こういった、他を干渉しないという性格の部分でも合っているのだろう。


 涼香は、その彼らの呼吸をうらやましく思う。礼韻には異性として強く惹かれているゆえ、どうしても一言余分に発してしまう。それによって、礼韻から何度蔑みの目を向けられたことだろう。


 今度の時間旅行でも、おそらく蔑みの目を何度も向けられることになるのだろう。涼香は鋭い眼光で睨まれた時のことを思いだし、少し気を重くした。しかしあの細く鋭い視線も、涼香は惹かれていた。


 そこまで考えて、ハッと気づいた。すでに自分は時間旅行をする前提に立って考えているのだ、と。


 ほんとうに、行ってしまっていいのか。涼香はもう一度考えた。時を渡っている間は、その時代の人間とまったく同じだという。なにも未来から訪れているから体をバリヤに包まれているとか、特殊な再生能力を持ち合わせているとか、一切ないという。その時代の、ひとりの生身の人間で、体に大きな損傷を負えばリアルな傷として残り、ときとして死ぬことにもなる。


 未来から来たという利点は一切なく、むしろ地理にも慣習にも疎い分、マイナス面の方が強い。つまり、迎えの帷面が来るまでの1日、危険に晒される状況となる。


 考えただけで震えが走る。特に女は、より不利を背負うことになるはずだ。礼韻の策としては男に成りすますということだが、しかし格好は誤魔化せても、体力は女のままなのだ。不利は不利として残る。


 しかし、それでも、涼香は行くと決めていた。自分は礼韻から離れるわけにはいかない。そのひとつの思いだけで、絶対に行くと決めていた。


 コンコンと軽い音が室内に響き、礼韻、涼香、優丸の視線が一斉に扉に向けられた。


「迎えに来ました。これから発ちます」


 男の声が戸の外で言った。その声に、今度は3人で見つめ合った。


 迅速に起き上がって戸に張り付いた優丸が、すぐにかと尋ねると、そうだという答えが返ってきた。


「ついに、だな」


 礼韻が立ち上がった。


「時を渡るのに、これ以上いい日はないというものだ」


 礼韻の目が充血しているのを、涼香は再確認した。

 

 

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