第8章 帷面権現(16)
「いいのか、急がなくて」
優丸が言う。涼香のために急いで頂上まで行き、戻ろうとしている礼韻の意図を掴んでいるのだ。
礼韻はなにも返答せず、黙って立ち上がると再び登りだした。
速度は、先ほどより抑えている。
「なにも聞かないのか?」
振り向くことなく、ぶっきらぼうに礼韻が言う。
「なにを?」
「涼香のことだ」
住んでいる小屋には上階に個室が2部屋あり、涼香と礼韻が使うことになった。その最初の晩、涼香はこっそりと抜け出して礼韻の部屋に入り込んだ。
涼香は礼韻の布団に入って足を絡めてきた。真夏のことで上半身はTシャツ1枚だったが、それも脱ぎ捨てていた。礼韻は自宅での習慣で、寝るときに上半身はなにも身に着けない。涼香と肌が密着した。
柔らかな感触と、薄いが心地よい香り。それらで、礼韻の感覚は瞬時に砥がれた。
――― 階下の優丸は、気付いているだろうな。
優丸に、礼韻はそのとき初めて疑いの気持ちを芽生えさせた。
「涼香のことって?」
「分かってるだろ」
礼韻が足を止めて振り返る。見上げる優丸も足を止めた。
「涼香が深夜、礼韻の部屋に入り込んでることか?」
「そうだ。優丸からそのことを、いつ聞いてくるかとずっと思ってたんだよ」
布団に忍んできた涼香を、はっきり目の覚めた礼韻は軽く引き寄せた。左腕は涼香の頭が乗り、自由な右手で胸の脇をそっと撫でた。涼香はびくりと、全身を震わせた。
しかし涼香に攻めいる行為は、それだけだった。礼韻は、訳の分からないことに巻き込まれて不安を抱えている涼香を、気遣った。その不安を取り除くかのように、1時間、眠らずに背中をさすり続けた。途
中から寝息が聞こえたが、それでも礼韻はやめなかった。
翌晩も潜り込んできたが、礼韻はただ背中をさするだけだった。涼香はそれこそが求めるものだったかのように、ことりと眠りに落ちた。礼韻は肌こそ合わせるものの、毎晩、背中をさするだけだった。
「礼韻、礼韻は本気で時渡りをして関ヶ原を見たいと思っているだろうし、そして単純なミスをすることなどないと、信用もしている。だから聞く必要なんてなかったんだ」
微笑とともに優丸は言う。それは緩い表情なのに、礼韻には何故か鋭いものに感じた。
帷面の経典にある、『女犯』。帷面の術を会得したいのであれば、女性との交わりはご法度だった。礼韻は涼香の柔肌が触れて眠気がぬぐわれたときに、それを思い出した。どのように行動してよいのかむずかしい選択が、目の前に迫っていた。しかし礼韻の頭は既に高速に回転し、瞬時に結論を出した。
最も簡単なのは、涼香を部屋から追い出すことだった。しかしそれでは、涼香が不安定な気持ちを抱えたままになる。帷面の里から出て行ってしまうかもしれない。願坐韻が送らせた以上、涼香も時渡りに必要不可欠な人員のはずだった。そこで礼韻は、添い寝をし、気持ちを落ち着かせることを選んだ。
しかしこれにはリスクがある。部屋の中のことゆえ、単なる添い寝だったと言って通らないことも考えられた。どこかで見ている帷面の見張りが、戒めをやぶったと判断してしまえばそれまでだ。700年も続いた独自の戒律を守れない者を取り入れるなど考えられない。時渡りはおそらく、そこで潰える。
それでも礼韻は、添い寝を続けた。逆に考えれば、700年ほどの歴史を持つ特殊集団なのだ。真実を見通す眼力を持たないわけはないだろうという、礼韻の読みだった。彼らは、どんなにうまく隠したとしても女と交わればそれを見破るだろうし、交わっていなければ、一見そう見えたとしても的確に見抜くだろう。むしろ、その程度を正しく判断する力を持つ集団でなければ、時渡りなどという危険極まりない行為を託せないというものだ。
間違って捉えるなら、どうぞ間違ってくれ。礼韻は、そんな感情だった。
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