第8章 帷面権現(7)
4日目は重い雲が天を覆って部屋に籠っていたが、5日目は青空が広がり、礼韻は山へと向かってみた。
樹々の香りが心地よい。深呼吸をすると、澄んだ空気だけでなく、活力までもを吸い込んでいるようだった。
礼韻は、ろくろく整備などされていない、ごろた石の埋まる登山道を軽快に登っていった。バスに乗り込んでからの体のなまりを、ここで払拭させておきたかった。今後、どういった難題が待ち構えているのか分からない。体力的にハードなことに直面させられることだって考えられる。そんな場合に備え、少しきつめの負荷を全身にかけてみようと、クロスカントリーの如く駆け上っていった。それでも、景観がすばらしく、疲れなど一向に感じなかった。
礼韻は足を動かしながら、願坐韻のノートを思い出していた。
「もしも帷面権現の目に適い、過去へと行けることになった場合、ひとつ、帷面に義務を果たすことになる。お前が将来稼ぎだすであろう金額のほとんどを、帷面に納めなければならない」
ノートの中ほどに書かれた一文が、何度も思い出される。帷面権現は高い資質を持つ能力者を見抜き、時間を超えるという願望をかなえさせる。そして、その代償として、時間を超えた者が将来において稼ぎ出す金を受け取るのだ。帷面は納められた金によって、これまでの長い年月、組織を維持、運営してきた。
礼韻もまた、時を渡るのであれば、願坐韻がそうしたように、死ぬまで、その代価を払い続けなければならない。
礼韻は、願坐韻からこのことを聞かされたとき、厳しい条件だという気持ちはこれっぽっちもわかなかった。むしろ、その程度のことで時渡りができるくらいなら、安いものだと思ったくらいだった。礼韻に、金に対しての執着などない。丸裸にされるのなら考えものだが、願坐韻程度の財力を残してもらえるのなら、なにも不満はなかった。
実際、礼韻の親族の間で、願坐韻に資産がないことが何度となく話題になっていた。権威であるのに、輪転機のごとく現役で活動し続け、一向に名誉職に落ち着こうとしない。著作は次々上梓され、その数は500を超える。それでいて生活は質素だった。
あれは帷面に差し出していたからだと、ようやく合点がいった。なるほど、願坐韻らしい有効な金の使い方だと、礼韻は誰もいない山道で、ひとり頷いた。そして、もしも親族が知ったら卒倒するだろうとも思い、薄く笑った。
時渡りができる資質を見抜くというが、もしかしたら能力など関係ないのかもしれない。礼韻は少し意地悪く、思った。帷面の秘術さえあれば、案外、誰だって可能なのではないのだろうか。能力を計るのは、時渡りへの資質ではなく、その後の支払い能力なのではないだろうか。
その点、心技体が揃う願坐韻は見立てどおりだったに違いない。頭脳とバイタリティを持つ、どうあっても昇りつめていく人間なのだ。そして実際に高額を稼ぎ、金に執着するタイプではなく、約束どおり払い続け、帷面を潤した。
そこで礼韻は急に視線を感じ、立ち止まって振り向いた。
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