第8章 帷面権現 (4)



 朦朧とした願坐韻だが、意識は失っていなかった。医師が点滴の薬液を交換している横で、礼韻が言葉に出さず、行きますと願坐韻に伝えた。


「決めたのか、礼韻。それではすぐにでも帷面の里に向かってもらおう。時間がない。とても急がなければならない」


 礼韻の頭に返ってきた言葉は、意外にも明瞭だった。言葉を発しない方が、体への負担が軽い。願坐韻はぐったりしている様子からは考えられないくらい、次々と礼韻の頭の中に言葉を送ってきた。


 翌日、体調を持ち直した願坐韻が礼韻の頭に細かく指示と注意を送り、離れた場所に座る礼韻がノートに書き記した。


 医師と3人の付き人は、2人が会話をしているなどと、まったく分からない。ただ礼韻が、一人気ままに書き物をしているだけと映っている。


 その日一日でノートは埋まってしまった。願坐韻の言葉は止まることを知らず、礼韻はひたすらに書き込んだ。手首は酷使のために震え、それは翌日まで止まらなかった。


 このノートの件ばかりではない。礼韻は祖父と一緒にいて、底のないバイタリティを突き付けられるときが多かった。共に行動を合わせようとすると、へとへとにくたびれ果ててしまうのだ。


 帷面権現が果たして自分を認めるだろうか。普段は、能力に見合った自信を持っている礼韻。だが今回は心配になった。おそらく1000年近くの歴史を持つ帷面は、相当の資質を持った人物でないと門戸を開けないはずだ。いにしえの秘密組織は、願坐韻の資質を見抜き、この男ならと、内へ招き入れた。しかしその孫だからといって、簡単に通すわけでもないはずだ。当然願坐韻の推しはある。だが、自分は受け入れられる資質を持っているだろうか。正直なところ、願坐韻と同等の資質を持っているという自信はなかった。礼韻は出発の日まで、不安を抱えていた。


「これから用意をして、発て」


 朝、いきなり願坐韻の指令が頭に飛び込んできた。


「えっ、今からですか?」


 突然のことに、礼韻はすぐさま肯定できなかった。


「そうだ」


「少し時間をいただけますでしょうか。用意もあります」


「いや、今すぐだ。事前に知らせればろくろく眠れない状態で行くことにもなりかねない。お前にしては珍しく緊張して、落ち着きをなくしているからな。出発まで時間を与えれば、周囲に不審な気配も感じさせてしまう。だからなんの前触れもなく言ったのだ。帷面の里には着る物から身の回りの物まで、すべてが揃っている。特段大荷物で行くことはない。辿り着くまでに寒さと飢えを凌げるだけの荷物で大丈夫だ。さぁ、行け」


 願坐韻の強い指示に、礼韻は抗えない。それから1時間後、礼韻はバスをあとにして山を登り始めた。

 

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