第8章 帷面権現 (3)


 医師と付き人がはげしく動く中、礼韻は膝を抱えて端でじっと座っていた。


 礼韻は、虚無に支配されていた。虚しさに包まれ、立ち上がることもできなかった。


 あれほどまでに慕う祖父が、今はひとつの物でしかなかった。それに取り付き、せわしなく手足を動かす医師も、今の礼韻から見るとたんなる機械の修理工だった。


 もはやあの物体は動かぬものとなるだろう。それは、だれであろうと避けられないことなのだ。どんなに大事に扱おうとも、時とともに劣化し、スクラップとなる。


 祖父の頭の中には多くのことが詰まっている。人が関心を持ち、知りたがっていることを。祖父でしか知り得ない重要ごとであれば、まだ活かされる。記録に残しておけばいいのだから。しかし、祖父でしか分析できないものであるなら、それはもう、儚く無となるだけだった。


 これまでの蓄積がいとも簡単に消えることの、なんという虚しさか。礼韻は車椅子をじっと見つめる。そしてもたれる細い身体と小さな頭を。あの頭の中の膨大な蓄積が無になるというのか。生命はなんと意味のないことなのだろう。


 礼韻は時を渡ることを決意した。このちっぽけな命ひとつ、心配してなんになるというのだ。極めて特殊な体験、それも自分自身がおおいに興味を持つものであれば、踏み込むのが当然ではないか。そして危険に見舞われたら、散ればいいだけの話だ。それでおしまい。この地上が、それでなんら変わるわけではない。


 礼韻の体に生気が甦ってきた。堰きとめられていた血が全身に流れ出していくかのようだった。そう決まれば、まずこの場を願坐韻が乗り切ってもらわなければならない。そして帷面権現と渡りをつけてもらわなければならないのだ。


 礼韻は飛び起きた。そして医師と付き人に、なにか手伝えることを聞いた。その口調もまた、いつもの礼韻のごとく早口ではっきりしたものだった。


 

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