第3章 三成を愛した男(3)

 

 涼香の小さな笑い声に礼韻が振り向いた。


「笑う余裕が出てきたらしいな」


 礼韻が薄く笑いながら言う。


「いい笑顔だ。すず、せっかくなんだ、たくさん楽しめよ」


 その声にはわずかな震えがあった。


 すでに闇はなく、靄で視界こそ開けないが、周囲が淡く白みがかっている。ついに決戦の日の朝を迎えたのだ。


 関ヶ原の合戦は9月14日と記載されることが多いが、それは当時の歴でのことで、現在の歴では10月21日に当たる。10月中旬であれば、朝方の冷え込みが強くて当然だ。ましてや、現代でさえ東海道新幹線の雪の難所となっている山深い盆地のこと、礼韻の歯の根が合わないのも当然と言えた。


 涼香もまた、寒さに震えていた。


 ところが、優丸には震えがなかった。じっと松尾山に目を向けている。礼韻と同じようにやせていて、とても寒さに強いようには見えない。涼香は薄気味悪さを感じた。


「それにしても、静かなもんだな」


 礼韻が白い息とともにつぶやく。


「嵐の前の静けさってところじゃないの。これから始まる大戦に、固唾を飲んで構えてるんじゃ……」


「そうかな?」


 涼香の話を、礼韻が遮った。


「おれたちの今いるところは、西軍の陣地と言っていい。見据える先には西軍の武将が並んで東軍の行く手を遮り、そしておれたちの右側、南宮山には東軍の横っ腹を突くように西軍の武将が陣取っている」


「鶴翼の配置って言うんでしょ」


「そうだ。のこのこと進んできた東軍を、大きな鳥の羽のように広げて包んでしまおうという布陣だ」


「これから東軍に総攻撃をするということで、固唾を飲んでるんじゃないの?」


「それは違うだろう。全体的に西軍には、切迫した雰囲気がなかったと思う。裏切りを画策していた武将が多かったからといえば、一般的に納得できる説明になるだろうが、おれは別にもうひとつ、西軍の士気の上がらないことに理由があると考えている。

 おれたちのようにのちの世から来れば、関ヶ原の合戦が天下分け目の戦いだったと知っているが、おそらくここにいる西軍の武将は、日本史の大きな1ページになるなど考えなかった者も多かっただろうな。もしかしたら、これから本当に合戦が始まるのかと疑っていた武将もいたと思う」


「まさか」


「まぁこれだけ集まっているんだから、ただで済むとは考えにくいけどな。しかし単純に言えばだぜ、『天下を取ろう』と号令をかけた家康に対し、三成の方は『ルール破りを成敗しよう』と号令をかけたわけだ。まずはその集め方から見て、どっちが士気が上がるか分かるだろう」


「それはたしかに……」


「それに、家康の250万石に対して三成は19万石。清貧を貫く19万石の武将から、たとえ戦に勝ったとしても、満足いく報奨を期待できるか?  三成は現行の豊臣政権を家康に蹂躙されないようにと各武将に呼び掛けたんだ。だから政権のいち構成員として、あなた方は戦って当然とさらっと済ませられてしまうことだって容易に考えつく。十分に地位と給料を与えていると。それにな、報奨を出すにしたって、三成は持っていない。東軍を倒せば家康の領地が手に入るのでそれは分け与えられるが、まさか東軍全員の領地を没収するわけにもいかない。そんなことになったら、また合戦になってしまうからな。また豊臣の貯えから与えてしまうこともできない。なにしろ三成はこの合戦時、隠居させられてしまっている。役職でない者が勝手に政権の財産を使ったら、家康以上のルール破りだ。

 

 いずれにしても、この時代の将は富を持ち、さらに富めるよう追求する人物じゃないと人なんか付いてこない」


「まぁ、そうだろうけど……」


「三成の、固くてきれいごとの号令と、隠居という立場。家康の、新しい政権を作ろうという、発展する内容ではない。ましてや西軍は、全員出席の打ち合わせなどしてなかった。だから、全体的な配置など掴んでいなかったし、だれがどういう動きをするかも分からない。合戦の全体像が把握できていないのだから、さぁ天下分け目の大決戦だなんて考えれらるはずもないだろうし、この一戦の重要性への認識も欠けている。ここではにらみ合いやせいぜいが小競り合いで、本格的な戦いは大阪でだろうと考えている西軍の武将がいてもおかしくはない」


 涼香は、言葉を終えた礼韻に対し、小さく頷いた。


 日本史上、天下分け目の戦いは数度あったが、その将となった者で唯一石田三成だけが、勝った際に天下を我が物とすることに関心を持たなかった。あとの者は、それが勝者であれ敗者であれ、己が天下人となる、という目標のために戦った。


 はるか前方で銃声のような音が聞こえ、3人は顔を見合わせた。

 

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