博愛
混乱
スキアの姿が消えた後なのに、私の足は動いていた。
「待って下さい、スキア! スキア!!」
「マリカ! 奴を追っても真実には辿り着かないぞ!」
「でも! ニューとミューが!」
「追いかけても無駄だ!!」
力強く裾を引かれ、私は足を止めた。私の服を掴んでいるアルファは、人形とは思えぬほど瞳に強い感情を宿して私を見上げていた。
「レンカがくれたぬいぐるみが……!」
「大丈夫だ。こういっちゃあなんだが、身代りになってくれたと考えるしか」
「身代り!? どういうこと!?」
アルファは固く瞼を閉じ、苦悶の表情を作った。
「スキアは、お前を……マリカを真実から遠ざける者だ」
「えっ!? じ、じゃあ、私の部屋に南京錠を掛けたのは、スキアなの!?」
「ああ……永久に閉じ込めておくつもりだったらしい。
もしあのまま……あのまま部屋に居続けていたら……完全に記憶を失う。
そして名前以外の記憶を無くし、この世界に完全に溶け込み、幽閉される」
耳から入って来る言葉の意味を理解するのが精一杯で、相槌も返せなかった。
「部屋を出ても、スキアは楽観視していた。
マリカが記憶を取り戻せるわけがない、と信じていた。
マリカの失った記憶は、マリカが捨てた記憶。
捨てざる得ない苦痛に満ちた記憶。
それを全て思い出すという事は、拷問に等しい残酷な作業。
いずれ彼女は耐えきれず、狂ってしまうはず……だと高を括っていた。
けれどもマリカは、忘れていた家族の一人……妹のレンカと再会しても取り乱したりせず、至って正常な思考を持ったままだった。
スキアは、このまま順調にマリカが記憶を真実を取り戻すのは時間の問題だと危惧して、慌ててマリカの目の前に現れて記憶を取り戻すなと言って来たんだ」
ショックにより真っ白になった脳裏に巡る、アルファの言葉とスキアの笑顔。
――――まるで鏡から抜け出したかのように、私とそっくりだった少年。
『思い出さなくてもいいんだよ、マリカ』
そう、スキアは言った。とても優しい声音と、笑顔で。
「ねえ、アルファ……私は」
「思い出すんだ」
私が不安を口にする前に、アルファが断言した。
「で、でも……」
「マリカ!!」
アルファは、今にも噛みつきそうな表情で喋った。
「オレ、何度も言ったよな!?
『途中で思い出す事を諦めたら、それで終わりだ』って!
『全てを思い出せなければ、帰れない』って!!
元の世界に帰れなくてもいいのか!? このままじゃ、スキアの思うつぼだ! このまま、マリカが思い出す事を躊躇い続けたら……」
「全てを思い出したら、本当に帰れるの?」
今まで疑わしくなかった事だった。
何故なら、今までは彼しかいなかったから。
その彼の言葉しか、私にはなかったから。信じるしか、なかったから。
しかしスキアが現れて、その言葉を聞いてしまった。
異世界へ来てしまった事への動揺を必死に押さえつけていたというのに、心のタガが完全に外れてしまった。そして口から零れた本音。
「ま、マリカ――――!?」
アルファは、唖然とした様子で私を見上げて来た。
その視線に耐えきれず、私は言葉を紡いだ。
「だっ……だって! 全てを思い出すって……何を、どれだけ、思い出さなければならないのか、わからないし!
他の家族……姉の二人の事も、全く思い出せる気がしないし!!」
「思い出せるんだ! マリカが、思い出す事を拒絶して」
「私は、ちゃんと思い出そうとしてるわ!!
で、でも……駄目なの! どう頑張っても思い出せない!
あのレンカだって! 彼女と会うまで、欠片も記憶がなかったのよ!?」
「諦めたらいけない! マリカ、落ち着いてくれ。いいか? マリカ……」
アルファは小さな身体の全て使って、混乱している私を宥めようとしていた。
私は瞳の奥から溢れて来る涙を、こめかみを押さえて必死に留める。
「マリカ、大丈夫か?」
はっとするほど優しい言葉を掛けられて、涙が引っ込んだ。
「ごめんなさい、取り乱してしまって……」
何度か深呼吸して平常を取り戻す。まだ鼻の奥がツンとしているが、堪えた。
無意識に左手首のブレスレットをぎゅっと握りしめる。
僅かに痛みを感じ始めたので、見てみると五本の指の痕が残っていた。
――――このブレスレット、たしか去年作った物だったはず。
色違いの丸いビーズで作った、お揃いのブレスレット。私が赤で彼が青。
渡した時に彼から言われた言葉は、今でも鮮明に覚えている。
『僕の為に……ありがとう、
一生、大切にするよ。この素晴らしいプレゼント……そして、君も』
「ねえ、アルファ」
「どうした?」
「私、家族は忘れてしまったのに……どうして明亜の事は覚えているのかしら」
明亜の名前を出した途端、アルファの表情はガラリと変わった。
「ねえ、彼は従兄だけれども、私の恋人だからなのかしら?」
「………………」
アルファは虚空を睨みつけていた。私の問いには答えない。
「ねえ……」
「マリカ。オレは、奴の話はしたくない」
切り捨てるように断言されて、私は二の次を告げられなかった。
「オレは奴が大嫌いだ。憎んでいるとでも言っていい」
「何を……」
悪意ある言葉に、ぞくりっと背筋に悪寒が走る。
「どうして……?」
「裏切ったからさ」
「えっ?」
「…………アイツさえ、現れなければ……」
「何? どういう事?」
「――――カ」
アルファの声は、だんだん低く小さくなっていってよく聞き取れなくなっていった。しかし、唐突に彼は我に返ったように目の焦点を此方に向けて来た。
「い、今のは何でもない! 何でもないんだ」
「ごめんなさい、よく聞き取れなくて……」
「なら、いいんだ」
アルファは、何かを振り切るように大きく頭を横に振っていた。彼の端整な顔を彩る美しい人工の瞳の色が心なしか、くすんでいるように見えた。
「話さなければいけない……そうだ。またスキアの邪魔が入る前に」
独り言か、呟く声は静かな廊下を漂い、消えた。
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