打ち砕く拳、切り裂く脚

 この【滄奥市そうおうし】に来て、特に日は長くない。せいぜい半月いくかいかないか程度の日数しか経っていない。


 しかし、その決して長くはない数日間は、非常に密度の濃いものだった。


 古流の【刮脚かっきゃく】を持つ大人びた少女、宮莱莱ゴン・ライライと出会い、仲良くなった。

 【九十八式連環把きゅうじゅうはちしれんかんは】の汚名返上を志す少女、孫珊喜スン・シャンシーと出会い、ぶつかり合い、そして和解した。

 【太極炮捶たいきょくほうすい】宗家の娘、紅蜜楓ホン・ミーフォンと戦い、勝利したら懐かれた。

 皇女という身分を隠して大会に参加していた少女、羅森嵐ルオ・センランと出会い、意気投合した。

 ライライと仲違いした。

 そして、友情を取り戻した。


 まるで中身がよく詰まったスイカのように、この数日間には出会いと驚き、そして事件が溢れていた。


 楽しい事もあれば、辛い事もあった。


 しかし、今――円形闘技場までの一本道を歩くボクの顔は、笑顔を無理なく浮かべることができていた。


 大きな一束の三つ編みを後頭部ではためかせながら、迷いなく一歩、一歩進む。

 進む先にある四角い出入り口からは、朝日がまばゆく溢れ、この一本道を照らしていた。奥からは、大勢の人のおしゃべりが多重したガヤが聞こえて来る。

 それを見聞きして、ボクは感慨深いものを感じた。


 これから、【滄奥市】で過ごした数日間に終止符が打たれようとしている。

 時間が経てば、おのずと打たれる終止符。しかし、最後に笑えるのは二人のうち一人だけ。

 その終止符の名は――決勝戦。


 時間が経つのは早いものである。本当にあっという間だった。

 最初に鈴を奪い合い、そしてこれから最後に【黄龍賽こうりゅうさい】本戦の切符を奪い合うのだ。

 あの四角い光の先で待っているであろう相手と会うべく、ボクは足を少しも止めることなく動かし続けた。


 やがてその四角い入口をくぐる。


 途端、ボクの周囲全方向が、陽光による強い明るさを得た。円形闘技場とその周囲の情景が、はっきりと姿を見せた。

 周囲は円筒のような高い階層で塞がれており、そのうちの一層である客席から、無数の観客が円形闘技場こちら俯瞰ふかんしていた。


 彼らの視線は、総じてボクと――もう一人に向いていた。

 胸が人一倍大きく、砂時計のような美しいボディライン。毛先にゆるいウェーブのかかった長髪をポニーテールにした髪型。そして、大人びた中にも微かに少女っぽさを残した顔立ち。

 彼女こそ、この決勝戦で戦う相手、宮莱莱ゴン・ライライである。


「来たわね」


 ライライはやって来たボクの姿を真っ直ぐ見て、奥ゆかしく口元を緩めた。

 しかし、この柔和な微笑の中に、恐ろしい力を隠し持っている事を、ボクはよく知っている。だから闘志を含ませた微笑みを浮かべ、ライライに返す。


 この数日間、彼女の技を何度か目にした。あの蹴り技をあえて言い表すなら、「岩石の圧力を持った強風」。破壊力だけでなく、変化と柔軟さにも富んでいる。重さと軽やかさという、相容れない二つの要素を兼備した奇跡の脚法。あの『無影脚』から厳しい教育を受けただけの事はある。


「……ライライ。今更だけど、本当にやるのかい?」


「もちろんよ。昨日も言ったでしょう?」


 ライライは、父親の仇であるレイフォン師匠が先立ったおかげで、大会にかけた「武名を轟かせて仇を引き寄せる」という目的を失ってしまった。あんまりな言い方をすると、もう戦っても意味がないのだ。

 しかし彼女は、戦いたいと言った。仇を追い続けてきたこれまでの人生から軌道修正するための、最初の一戦をして欲しいと。


 もし彼女が棄権してくれれば、ボクは決勝戦を不戦勝でパスし、楽に本戦の参加資格を手に入れる事ができただろう。元々ボクは、本戦に優勝して父様に武法を続ける事を認めさせるために戦っていた。ここで不戦勝なら、願ったり叶ったりであった。

 けど、「棄権しない」というライライの言葉を聞いた時、ボクはどういうわけか落胆はしなかった。それどころか、凄く嬉しくさえ思えた。

 ボクは「仇を打つ」というライライの目的を、内心で心配していた。けど今回、その目的と決別しようとしている。そのきっかけとなれる事が嬉しいのだ。

 センランの時といい、今といい、この大会には単純な勝ち負け以外の意味を持つ試合が多かった。


「シンスイ、あなたの【黄龍賽】への思いは、昨日すでに聞いているわ。そして、同時に応援してもいる」


「……うん」


「でも、ごめんなさい。私はわざと負けてあげられるほど、器用な女じゃないの。……戦う前に、それだけ謝っておきたかった」


「うん。分かってる。いいんだ」


 ボクは柔らかく笑いながら、かぶりを振った。

 ライライはお父さんの【刮脚】を本当に大事に思っている。なので、わざと負けることは、【刮脚】の名誉を傷つけてしまうことに繋がる。

 そんな彼女の気持ちをくんだボクは、顔の前に左拳を持ってきて――それを右手で包んだ。


「【打雷把だらいは】――李星穂リー・シンスイ


 ライライもまた、ボクと同じ【抱拳礼ほうけんれい】を行い、祝詞のりとのように口にした。


「【刮脚】――宮莱莱ゴン・ライライ


 次の瞬間、銅鑼が高らかに鳴り響いた。


 この【滄奥市】で、最後の戦いが始まった。









 【抱拳礼】を解き、最初に行動に移したのはボクだった。


 射ち出された一矢のごとく、ライライめがけて突っ込んだ。


 彼我の距離は、約一秒弱で、触れ合えるまでに狭まる。


 だが、いきなり大技は使わない。


 まずは軽く小手調べだ。


「せぁっ!!」


 前進を止めぬまま、体を時計回りに回転。その遠心力を上乗せした右回し蹴りを振った。

 脚という名の鞭が、風を斬り、ライライの左脇腹に迫る。


 が、突如ライライの下半身に白い閃きが発生。

 ボクの回し蹴りは見事に直撃した――ライライの靴底に。

 彼女は迅速に左足を持ち上げ、その足裏で回し蹴りを受け止めたのだ。


 その変則ガードに舌を巻く暇はなかった。ライライの左足が唐突に軌道を変え、ボクめがけて飛びかかってきた。

 右足を上げているため、足さばきによる回避は出来ない。なのでボクは右前腕部を垂直に立て、それをウエストの捻りによって体の内側へと引き寄せた。

 足裏を先にして一直線に向かって来たライライの蹴り足の側面に、ボクの右前腕部が接触。このまま摩擦力で軌道をそらしてやる。


 ――しかし、ライライの蹴り足は1厘米りんまいも動かなかった。


 ボクはとっさの判断で後ろへ跳ねた。


 瞬間、ライライの靴底が疾風の速度でボクの土手っ腹にぶち当たった。


「ぐっ!?」


 強烈な衝撃と鈍痛をその身に受けたボクは、余った勢いで弾き飛ばされる。後ろに跳んだことで衝撃を軽減できたが、それでもかなりの威力だった。まともに受けていたらと考えるとゾッとする。


 後傾しそうになったが、なんとか踏ん張って直立姿勢を保ち、両足を踏みしめた摩擦で勢いを殺す。

 が、完全に停止した時には、すでにライライが目の前に迫っていた。

 その片膝が上がったのを見た時、ボクは本能的に体をねじった。


「ふっ!!」


 ライライの鋭い吐気が響くとともに、さっきまでボクの正中線があった位置を、一筋の閃光が貫いた。


 彼女の放った爪先蹴りが持つ桁外れの速さを間近で見て、怖気が立つのを感じた。


 ふと、胸元に涼しさを感じたので見る。なんと爪先がかすったボクの服の胸元は、長い横線状の切れ目がパックリ入っていた。服の中の素肌が、絶壁のような胸とともに見え隠れしている。

 女の子らしく恥ずかしがっている暇はなかった。

 ライライは杭を打ち込むように蹴り足を着地させる。そしてそこを軸に素早く独楽コマのように回転。背を向けた状態からの振り向きざま、後ろ回し蹴りを仕掛けてきた。その蹴り足は膝が九十度ほど曲がっていて、フックのようになっている。


 ボクは軽く身をかがめ、そのキックに頭上を通過させた。ライライは比較的高い位置で蹴りを放ったため、彼女より身長が低いボクには回避が容易だった。

 空振ったことで、ライライの体は遠心力の運命通りに胴体をさらけ出した。

 ここが攻めどころだと瞬時に感じたボクは、拳を脇に作り、後足を蹴って彼女めがけて飛び込む。


 正拳突き【衝撃しょうすい】が直撃する――


「がっ!?」


 ――という確信は、突如腹に舞い込んだインパクトによって見事に裏切られた。

 目を向けると、ライライが先ほど空振らせた蹴り足をそのまま使い、ボクに前蹴りを打ち込んでいた。体幹の力で遠心力を無理矢理殺し、キックに転じたのだ。

 苦し紛れの攻撃だったためか、威力はさほどでもなかった。しかし決して優しくもない。蹴りの勢いのまま、ボクの足は真後ろへ大きくスライドする。


 止まった後、ボクはじんじんと残った腹部の痛みを感じながら、我知らず喉を鳴らした。


 ――強い。


 蹴りの威力や速度がずば抜けている事は知っていたつもりだ。しかし間近で見たことで、初めてそれに明確な驚異を感じられた。

 おまけにパワーやスピードだけではない。ライライは自分の両足を、まるで腕と同じような巧みさでコントロールしている。まるで下半身にもう一組、腕が生えているようだ。

 その凄まじい蹴り技の嵐からは、彼女のたゆまぬ努力が色濃く感じられた。


 ライライはボクに微笑みを向けると、


「初めて会った時、私の【刮脚】が見たいって言ってたわよね。どうかしら? 気に入ってもらえた?」


「……うん。そりゃもう。めちゃくちゃ凄いし、おっかないよ」


「ありがとう。でも、今見せたのはまだまだ毛先の部分よ。これからもっと凄いものを見せてあげるわ」


 ライライは口元を不敵に釣り上げて笑う。

 …これは、小手調べなんて言ってる場合じゃない。

 最初から叩き潰すつもりで行かないと、足元を掬われる。


「じゃあ、行くわよ!」


 その一言とともに、視界にあるライライの姿が一気にズームアップしてきた。

 ダッシュ中に体の右側面をこちらへ向け、蹴りの間合いにボクを捕らえると、助走を込めたサイドキックを一直線に突き出してきた。

 ボクは体の位置を右へ少しずらし、猛烈な勢いで押し迫った足裏を紙一重で回避。そしてすぐさま、突き出された彼女の蹴り足をなぞる形で急接近する。


 がら空きの胴体に狙いを定め、ボクは踏み砕かんばかりに後足を蹴って加速した。


「フンッ!!」


 爆ぜるような激しい踏み込み【震脚しんきゃく】によって急停止し、正拳を打ち出す。【打雷把】の一技法、【衝捶】だ。【打雷把】では基本に位置する技だが、それでも直撃すればただでは済まない。


 ライライはやって来たボクの拳の真下に片腕を差し入れ、そして上げた。それによってボクの拳は大きくすくい上げられ、無力化する。


 さらに蹴り足を迅速に引き戻し、踏み込まれたボクの前足の股関節に足刀を押し込んだ。


「うわっ……!?」


 股関節を骨盤ごと後ろに押されたボクは否応なくバランスを崩し、尻餅をついた。


 しかし、のんびりしている余裕はない。ライライのむこうずねが真正面から急激に押し迫っているのだから。


 ボクは前腕部を交差させ、その又で蹴りを受けた。


 馬鹿げたインパクトが両腕に響くと同時に――派手にぶっ飛んだ。


 ゴロゴロと大きく後転しながら、ボクは背筋を凍らせていた。

 これほど重たい蹴りを受けたのは久しぶりだ。

 こんな蹴りを繰り出せる武法士はそう居ない。仇討ちを目指していただけの事はある。


 ボクは転がった状態から流れるように起き上がる。前方を見ると、すでにライライが残り約3米(まい)ほどにまで距離を縮めてきていた。

 蹴りを受けた両腕が震えている。彼女の蹴りの威力をまだ覚えていて、そして恐怖しているのだ。

 しかし、両手を強く握り締めて、震えを無理矢理止める。震えたいなら後で好きなだけ震えればいい。でも、今だけは我慢してくれ。


 やがてライライは蹴りの射程内にボクを入れた。そして、何度も鋭い蹴りを連打させてきた。

 左右、上下、斜め、あらゆる角度から凶悪な閃きが走る。それらはまるで街灯に群がる羽虫のような不規則さで、ボクの眼前で飛び交う。

 ボクは全神経を集中させて、蹴りの嵐を紙一重で避けていく。【打雷把】の修行で鍛えた精密な足さばきの成せる技だ。

 しかし時々避け損ね、上半身のあらゆる場所にかすって服に切れ目ができる。

 それでも、クリーンヒットだけは着実に避けていた。


 幾度も視界に蹴りが行き交う。それらは全て、腰のある位置を下らない、高めの蹴りだった。


 だからだろう。――ボクのむこうずねに向かって唐突に放たれた低い爪先蹴りに、うまく反応できなかった。


「――っ!!」


 弁慶の泣き所に鋭い衝撃を受け、悶絶しそうになる。実際にはしなかったが、痛みによって全身が硬直してしまう。


 その僅かな隙を、ライライは回し蹴りによって突いてきた。


「あがっ――!?」


 莫大なショックが、二の腕を通じて体の芯まで染み渡る。

 重量の塊に横殴りされたボクは、大きく真横に飛ばされた。

 めちゃくちゃな転がり方をしつつも、なんとかしゃがみこんだ姿勢でストップする。


 ボクは激痛の名残を感じながら、手足の調子を確かめる。今のはかなり痛かった。しかし、動けなくなるほどじゃない。まだやれそうだ。

 少しぎこちないながらも、ボクは立ち上がって構えを取ることができた。

 それと同時に、自分の失念を叱咤する。

 ボクはすっかり忘れかけていたのだ。ライライの武法の性質を。


 ――ライライの【刮脚】は、最も古いタイプのものだ。


 現在【刮脚】には、大きく力強い蹴りが主体の【武勢式ぶせいしき】と、低く鋭い蹴りが主体の【文勢式ぶんせいしき】の二種類が存在する。


 ――【武勢式】は、ダイナミックで威力の高い蹴りを連発し、相手の体力を削ぎ落として倒すという戦法をとる。

 ――【文勢式】は、低い蹴り技で武法の命たる足を徹底的に攻めることで、足を破壊もしくは弱らせ、相手を戦闘続行不能に追い込む戦法をとる。


 そして、その二つの亜流の元となった古流の【刮脚】は、二つの亜流の性質を同時に持っている。つまり、高い蹴りと低い蹴り、どちらにも長けているのだ。

 高い蹴りは体力を削ぎ、低い蹴りは脚力を削ぐ。

 今度からは高い蹴りだけでなく、低い蹴りにも気を配らなければならない。


 遠く離れていたライライは、再びボクへ向かって疾駆した。

 彼女の蹴りの間合いに入る直前、ボクは両前腕部に【硬気功こうきこう】をかけた。青白いスパークとともに、両腕は鉄腕と化す。


 ライライは細く鋭い吐気とともに、右足による回し蹴りを振り出した。

 対して、ボクは蹴りのやって来る左方向に両腕を構えた。それに加えて、足指で大地を強く掴んで立ち、脊椎を弓弦ゆずるのように張り詰めさせる。

 そして半秒と立たぬ間に、構えられた両前腕部にライライの右足が激しく直撃。空気が爆ぜるように震え、蹴りの衝撃が腕を通して体幹に伝わってくる。

 普通ならその場から吹っ飛ぶほどの威力だったが、ボクの立ち位置は全く動いていなかった。【打雷把】お得意の【両儀勁りょうぎけい】を用いて、ピラミッドのごとく磐石な重心を得ていたからだ。


 受け止めた蹴り足をなぞるようにして、ライライの懐へと潜り込む。


「もらったっ!!」


 ボクは脇に構えていた右拳を【震脚】の踏み込みと同時に突き出した。【衝捶】だ。


「――甘いわね!!」


 だが、ライライは軸足となっていた左足を跳躍させ、その膝を真上に突き出す。それによってボクの打ち放った右拳は真下から打ち上げられてしまった。攻撃失敗だ。

 滞空中もライライは止まらない。拳を防いだその足を使って、真っ直ぐ爪先を走らせた。


「くっ!」


 ボクはとっさにもう片方の左手を構え、爪先を受ける。【硬気功】がまだ残っていたため痛みも怪我もなかったが、重鈍な衝撃を手で感じ取った瞬間、地に付いていた足がそのまま大きく後ろへ滑った。


 しかし、ボクらの距離はほとんど離れていない。――なぜなら、勢いよく滑るボクを、ライライが追いかけてきていたからだ。

 追い討ちをかける気だろう。


 ボクは再び【硬気功】で防ごうと一瞬考えたが、すぐにその思考を捨てた。ライライの蹴りは威力が高い。【硬気功】で受ければ無事で済むだろうが、また今みたいに吹っ飛ばされるに違いない。そこを追い討ちされる可能性がある。もしそうなったら同じ事の繰り返し。【気】も無限じゃないのだ。戦いが長期化する事を考慮すると、なるべく無駄遣いは避けた方がいい。


 なのでボクはわざと体重を真横にかけて体を横倒しにし、飛んできたライライの回し蹴りをくぐって避けた。


 そして横たわった状態のまま全身に捻りを加え、ライライの軸足へ蹴りを放った。しかしその足が跳んで地から離れたことで、ボクの蹴りは空振りに終わる。

 両膝を立てながら虚空に浮いたライライは、今なお寝転がったボクめがけて右足の靴底を鋭く撃ち出す。

 体を横に転がして蹴りを回避。音並みの速度で飛来してきた靴底は、ヒットした箇所の石敷を容易く破砕した。


 機敏に跳ね起き、構えを取った。同時に、ライライも着地する。


 ボクが今いる位置は、ライライの背後だった。


 攻撃を仕掛けるチャンスと思ったが、すぐに思いとどまり、大きくバックステップした。


 ――ボクが飛び退いたのと、ライライの片足がかまいたちのような鋭さで背後へ蹴り上げられたのは、ほぼ同じタイミングだった。


 その蹴りは、馬が後ろ足を持ち上げる様子によく似ていた。


 ――やっぱり、その技が出たか。


 あれは【鴛鴦脚えんおうきゃく】。背後にいる敵を攻撃する時に用いる蹴り技だ。【武勢式】にも【文勢式】にも存在する、【刮脚】の代表的な技の一つ。


 ライライの攻めは続く。美しくも強靭な両足でカニ歩きのようなステップを鋭敏に刻み、横向きのまま距離を詰めてきた。


 彼女が片膝を上げたかと思うと、その足の靴底が視界で急速に拡大した。


「うわ!」


 ボクは驚き、両腕で顔をガードした。ほぼ本能的な反応だった。

 しかし、蹴りによる衝撃は来ない。


 ――と思った瞬間、足の側面から何かがぶち当たり、重心を崩された。


「えっ……!?」


 ボクは足元を見る。そこにはライライの片足。どうやら足を払われたようだ。

 いつものボクなら、こんな簡単に倒されたりはしない。最初の蹴りのせいで、ボクの意識は完全に顔面に集中していた。それによって足元から意識が外れた。そこを狙ったのだろう。

 横向きに自由落下する今のボクは、まさに「死に体」だ。地に足が付いておらず、その場から逃げることもままならない無防備な状態。


 ライライの片足が動く。


 ボクはとっさの判断で、胴体の前で両腕を構えた。


「ぐっ――!!」


 次の瞬間、衝撃が爆発。

 構えられた両腕に、強烈な前蹴りが衝突してきたのだ。腕がもげそうなほどの圧力と鈍痛が、体の内側まで反響したような気がした。


 ボクは地に足を付いていなかったため、蹴りの威力のまま弾かれたように吹っ飛んだ。


 着地後も、勢いよく転がるボク。しかしなんとか立ち上がった。


 当然というべきか、ライライはボクに向かってダッシュで近づいている。一度も休ませてやる気はない。顔がそう言っている気がした。


「はああぁぁっ!!」


 ライライは裂ぱくの気合いを響かせながら、再び怒涛の蹴りの数々で攻めてきた。

 ボクはそれらを懸命に回避、あるいは受け流した。

 今度の連続蹴りは、まるで曲芸のようだった。

 単純な高い蹴り、低い蹴りという枠にのみ収まらない。

 胴体を狙った蹴りかと思えば足元狙い。足元狙いかと思えば胴体狙い。胴体狙いのフリをした足元狙いの蹴り、と思わせた胴体狙いの蹴り。その逆もしかり……

 カフェイン摂取済みの蜘蛛が張った糸のごとく変則的な攻撃軌道の数々が、縦横無尽にボクの視界内を踊り狂う。


 次の瞬間、


「あがっ――!?」


 丸太で思いっきり殴られたような衝撃が、両側の二の腕へドドンッ!! と左右交互に叩き込まれた。ライライが両足交互の回し蹴りを、とんでもない速さでぶち当てたのだ。

 砕けんばかりに歯を食いしばる。

 が、それは蹴りによる痛みのせいではなかった。


 ――すごく気持ち悪い。


 腹の中がよじれるような、凄まじい不快感。胃が捻転し、消化液が嵐の海のように荒れ狂うイメージ。いまにも吐き戻したい気分だ。


 これは一体なんなんだ。


 考えている時間など与えられるはずもなく、


「そこっ――!!」


 光線のごとく伸びてきたライライの片足が、ボクの胴体を真っ直ぐ撃ち抜いた。


 ボクは勢いよく後方へ弾かれる。地面に落ちた後も、倒れたまま石敷を高速でスライドし、そしてようやく止まった。


 体のあちこちが、何かに取り憑かれたようにジンジン痛む。原因不明の不快感もまだ抜けない。しかし意識は失っていない。それが奇跡に思えた。


 ボクは重い体を強引に奮い立たせ、しかし口元には満ち足りた笑みを作り、ライライに訊いた。


「……さっきの二つの技、ボクは見たことないんだけど……もしかして、古流の【刮脚】の技?」


 ライライはご名答と言わんばかりに微笑み、


「そうよ。今の二つの技は、古流の【刮脚】にのみ伝わるものだわ。最初の三連蹴りは【三才擊脚さんさいげききゃく】。胴体の順に蹴りを放つ連続技で、最初の顔面蹴りで下半身への注意をそらし、意識が抜けて緩くなった足元を二擊目で払って相手を「死に体」にし、そして三擊目で吹っ飛ばす。高い蹴りも低い蹴りも使いこなせる古流ならではの技よ」


「……ちなみに今ボク凄く吐きそうなんだけど、これも君の技のせい?」


「ええ。【響脚きょうきゃく】の、ね。相手の左右側面へ素早く回し蹴りを打ち込むことで、相手の体内に強烈な揺さぶりをかけ、振動波を発生させる技。【硬気功】でも防げない防御不能の蹴りよ。振動波はしばらく続くから、まだその不快感は消えないわ」


 聞けば聞くほど、驚異を感じざるを得ない内容だった。


 しかし、ボクはそれと同時に嬉しい気分にもなる。


 古流の【刮脚】が持つ技術は、ボクの期待以上に面白く、凄いものだった。


 しかしそれらを可能にし、そしてより優れた技たらしめているのは、ひとえに、ライライの修練の積み重ね。


 ――本当に、手強い相手だ。


 でも、それでもボクは負けない。負ける理由にならない。


 ボクはこの戦いで勝って、本戦への参加資格を手に入れ、そして優勝しないといけないんだ。


 友達だろうと、強敵だろうと、立ちふさがるならぶっ飛ばしてやる。


 ボクは片足で力強く足踏みした。【震脚】だ。

 するとどうだろう。体内に渦巻いていた不快感がぴったりと止み、調子が戻った。

 「よしっ」と意気込むと、ボクは両肩を元気良くぐるぐる回す。

 【震脚】をすると、地面からの反作用によって強い垂直の力が発生する。その力を使って振動波を強引に殺したのだ。思いつきでやってみたが、うまくいったみたいでよかった。


「……まさか、そんな無茶苦茶な方法で【響脚】の振動を消すなんて。シンスイ、あなたやっぱり面白い子だわ」


 元気を取り戻したボクを、ライライは緊張の混じった笑みを浮かべて見つめていた。


 彼女も彼女で、譲れない意地がある。

 これはルールに守られた、競技的な試合。

 だが、互いに譲れないものを持って戦うという点で、真剣勝負と何の違いがあるだろう?


 ボクら二人は闘争心を身にまとい、睨み合う。


 最初に動いたのは、ボクだった。


「じゃあ――いくよっ!!」


 【震脚】で大地を踏み鳴らすや、猛然とライライめがけて突っ込んでいった。【震脚】によって強化された瞬発力は、彼女との間合いをすぐに狭ませる。


 蹴りの射程範囲に入ってもなお、ボクはライライの正面へと突き進む。いつでも突きを放てるよう、拳を脇に構えておく。


「ハッ!!」


 当然の反応というべきか、彼女はバカ正直に直進してくるボクを足裏蹴りで迎え撃ってきた。闘技場の石敷も簡単に砕くほどの威力の塊が、真っ直ぐボクに向かって来る。


 ――が、それは予想の範囲内だった。ボクは蹴りが放たれる直前、細かい足さばきによって体の位置をほんの少しだけ横へ動かしていた。爆速で進む彼女の靴裏は、ボクの真横を素通りする。


 そのまま流れるように懐へ入った。

 いつもならここで正拳を打ち込むところだが、その手は一度破られた。攻めるとしたら意表を突く意味も兼ねて、違う攻撃を放った方がいいだろう。


 なので――ボクはあえて回し蹴りを選んだ。


「くっ……!?」


 ライライは腕を構えて、ボクのキックをガードする。さすがの彼女も予想外だったのか、反応がわずかに遅れていた。ギリギリで防いだのだ。


 倒れはしなかったものの、蹴りの威力に流されるまま後ろへたたらを踏むライライ。


 重心のおぼつかない今は、思うように攻撃に対処できない。今なら拳が当たるはず――そう思ったボクは迷わず地を蹴った。

 拳の届く距離にライライを捕らえた瞬間【震脚】で激しく踏み込み、さらにその足へ急激な捻りを加えて全身を旋回させる。その身体操作とともに打ち出された必倒の正拳【碾足衝捶てんそくしょうすい】が、シャープな勢いでライライへと迫る。


 しかし、拳の延長線上にあったライライの姿が消えた。目標を失った拳が空気の壁を穿つ。

 彼女は胎児のように体を丸めて、地に背中を付いていた。慣性に逆らわず、自分から後ろに転がったのだろう。

 抱え込まれていたライライの両膝が、急激に伸びた。


「おっと!」


 迫ってきた二足の靴裏を、ボクは体を反らして避ける。数歩後ろへ下がって再び距離を作った。


 ライライは跳ね起き、ボクめがけて走り出す。女豹のごとく鋭い疾駆だ。


 足のリーチ内まで入った瞬間、横薙ぎの蹴りを放たれるが、それをかがんで避ける。


 ライライはその回し蹴りの遠心力に従って背を向け、片足を大きく跳ね上げた。【鴛鴦脚】だ。

 ボクは体を後ろにのけ反らせてその蹴りを回避。しかし大きく跳ね上げられた片足は空中でピタリと動きを止めたかと思うと、爪先を先にして急降下した。

 ボクは前にあった足を、素早く全身ごと下がらせた。爪先はボクの前足の甲があった位置に激しく落下。……もし足を下がらせなかったら、死ぬほど痛い目にあっていただろう。


 【鴛鴦脚】の目的は、二つの亜流によってそれぞれ異なる。

 【武勢式】は胴体か顎への攻撃、そして【文勢式】は爪先か足甲への攻撃を目的としている。

 だがライライの放った【鴛鴦脚】は、その両方の性質を兼ね備えたものだった。それこそ、彼女の【刮脚】が古流たる証拠だ。


 振り向きざまにスイングされた後ろ回し蹴りをバックステップで躱してから、ボクは元来た方向へ戻る形でライライへ向かっていく。


 矢継ぎ早にやって来る剛脚の振りをかいくぐり、ライライの胸の前に到達。遥か彼方まで打ち抜く気持ちで【移山頂肘いざんちょうちゅう】の右肘を繰り出す。

 彼女はボクから見て少し右へズレて、肘打ちを空振らせた。そして、そこから止まることなく右膝を上げ始めた。ボクの脇腹を蹴る気だ。

 ボクは迅速にその蹴り足の太腿を両手で押さえ、移動を止める。彼女の脚は、あの凶悪な威力の蹴りを放ったとは思えないほどに柔らかく、なめらかだった。

 右側面に立つライライへ寄りかかるように、体当たり【硬貼こうてん】を仕掛けようとする。だが踏み込もうとした右足の膝が、ライライの足裏によって途中でつっかえ棒よろしく止められた。【硬貼】はライライまであと少しという位置でストップ。命中ならず。

 ボクはめげずに足底から全身へ捻りを加え、【震脚】による重心移動と同時に左拳をライライめがけて突き出した。だが彼女はボクの放った【拗歩旋捶ようほせんけん】を紙一重で避け、あさっての方向へ流す。

 ライライは踏み込まれた足へ爪先をぶつけようとしてきたが、ボクは素早く重心を後ろの足へ移して体を引く。

 ライライの爪先蹴りが空振ったのを見越して前蹴り。

 彼女はそれさえも最小限の動きで躱す。


 ――それからも、そんな演武じみた避け合い攻め合いを次々と繰り広げた。


 互いに全てを躱し、全てを躱される。

 一向に決着のつかない堂々巡りの攻防。

 わざとやっているのではないかと思う者もいるかもしれない。しかしボクらは真剣そのものだった。

 特にライライがそうだ。彼女はボク以上に慎重な面持ちで攻防に臨んでいた。ボクの【勁擊けいげき】には【硬気功】が通じない。それを警戒しているのだろう。


 驚くべきことに、ライライの足さばきの器用さも、ボクに負けず劣らずだった。

 いや、むしろここまで達者で当然かもしれない。【刮脚】は蹴り主体の武法であるため、人並み以上の足の器用さが求められる。そもそも、足の器用さを養う【打雷把】の修行法【養霊球ようれいきゅう】は、彼女の【刮脚】がルーツとなっているのだ。足さばきが上手くとも、何ら不思議ではない。


 手数の出し合いと潰し合いは、なおも繰り返される。


 しかし、どんなものにも等しく終わりはあるものだ。


「せいっ!!」


 ライライはほんのわずか生まれた隙を利用し、ボクの膝裏に自分の膝をぶつけてきた。

 蹴られた力こそ微々たるもの。だがその微々たる力によってボクの下半身のバランスはあっけなく崩れ、体が傾く。ボクも下半身の功力は相当に鍛えているため、足を蹴られても簡単にバランスを崩さない自信がある。だが彼女は膝裏を蹴ることで、膝関節を無理矢理曲げさせたのだ。膝カックンの要領である。


 仰向けに倒れるボク。前――正確には真上――を見ると、彼女の履いている靴の底が視界で一気に大きくなっていた。


「なんのっ!」


 ボクも負けじと足裏を突き出し、振り下ろされたライライの靴底とぶつけ合わせた。


 ものすごい下向きの力が、足裏を通して膝にのしかかってくる。

 だがボクもそれに応戦すべく、靴裏を真上に進めようと足に力を入れる。

 ぎりぎりと、互いの脚力が拮抗きっこうし合う。ある時はボクが押し、ある時はライライが押す。一進一退の力比べ。

 しかし、引力が味方してくれているためだろうか、気がつくとライライがボクを押し返す回数の方が多くなっていた。


「くっ……!」


 ボクは眉をひそめ、奥歯を食いしばる。額にはうっすらと汗が浮かんでいた。


 ライライの足が、さらに手前へと押し寄せてくる。


 このままだと、押し切られる。


 なら、彼女の足から素早く自分の足を離し、


 ――いや。そんなのはボクのプライドが許さない。


 ライライ、確かに君の足の【きん】はかなり鍛えられてる。

 でも、それはボクだって同じだ。

 【両儀勁】の源泉は、両足を大地に固定させる強靭な脚力。【打雷把】という流派の門戸を叩いて以来、ボクはその力を徹底して鍛え上げてきたんだ。


 このまま容易く押し切られていい道理が――あるはずがない!!


 ボクは自分の足へ、ありったけの力をつぎ込んだ。


 少しずつだが、着実にライライの足を押し返していく。


「な……!?」


 ライライは一瞬唖然とするが、すぐに表情を引き締めて踏む力を強めた。


 ボクの足は途中で数度進行を止めるが、下がることはなく、どんどん上がっていく。


 そして、


「――――あああぁぁぁっ!!」


 渾身の力で、最後の一押しをした。


「きゃっ!?」


 途端、ライライの体が宙へ浮き上がった。1まい弱の高さだ。


 ボクは跳ね起き、ライライは尻餅をつく。


 今なお座り込んだ体勢の彼女めがけて、狼のような俊敏さで突き進む。


 ライライもそんなボクの行動に対し、慌てた様子で立ち上がった。そして、突風にも似た勢いのミドルキックを振り放つ。


 ……しかし、攻撃のタイミングが少し遅かった。ライライが蹴り出した時、ボクはすでに足のリーチの半ばまで達していたのだから。


 ボクは片手で蹴り足の太腿を押さえ、回し蹴りをストップさせる。遠心力で放つ蹴りなので、足の末端に働く力は強くても、内側の力は弱いのだ。なので片手で事足りる。


 そしてもう片方の手を拳にし、ライライの上腹部へと添えた。


 彼女はこの上ない焦りを顔ににじませながら動こうとする。

 だがこうなった以上、もう逃げようがない。銃を突き付けているのと同じ状態なのだから。


「ぶっ飛べっ!!」


 四肢と胴体を同ベクトルへ急旋回。添えられたボクの拳は――ゼロ距離で音速にも届かんほど加速。


「っはっ…………!!!」


 【打雷把】最速の正拳【纏渦てんか】は、パァン、という空気をぶち抜く音とともに、ライライへと深くねじ込まれた。

 と思えば次の瞬間、拳と彼女の体が磁石の反発よろしく離れた。10まいを軽く超えるほど吹っ飛び、やがて仰向けになって停止した。


 ボクは突き終えた体勢を解き、剣道の残心のように構えへと移る。この試合、油断は寸分も許されない。だがそれ以上に、ライライがこのまま終わるわけがないという確信めいた予想もあったからだ。

 全身の螺旋運動で力を発する【纏渦】は、打撃部位への運動量伝達が凄まじく速いが、威力が他の技に比べて弱い。立ち上がる可能性は十二分にある。


 そして、そんなボクの予想は的中した。ライライがゆっくりと立ち上がったのだ。


「……さすがね、シンスイ。戦ってみて、あなたの恐ろしさを初めて理解したわ」


 顔には苦痛の色がある。だが両足はしっかりと地を踏みしめている。


「どうやら私も……出し惜しみは禁物みたいね」


 ――出し惜しみ?


 これ以上、まだ何か隠し玉があるというのか。ボクの中の微かな警戒心が一気に肥大化する。


 ライライは闘志の燃えくすぶる瞳でボクを真っ直ぐ捉えた。


「――見せてあげる。【刮脚】ではない、私が自分で創り出したとっておきの技を」


 その言葉に対し、ボクは脊髄反射のような素早さで構えた。


 ライライは大きく息を吐き出すと、目を閉じ、ゆったりとリラックスした状態で立つ。


 もう何度か深呼吸を繰り返す。


 そして、口を小さく動かし始めた。


「……る………………………………る…………け…………」


 何かを呟いている。


 口の動きの乏しさと同じくらい、微かな声量。おまけに観客の声にかき消されて全然聞こえない。


 だが、ライライの唇の動きから、かろうじてその呟きの内容を理解することができた。


 その内容は、次の通りだ。


「蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………」


 ――ライライは、まるで何かに取りつかれたように、「蹴る」という言葉のみを何度も繰り返していた。


「蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………」


 まだ続く。


「蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………」


 まだまだ続く。


「蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………」


 そこで一度区切りをつけると、大きく息を吸い、


「蹴る」


 これまでで一番力強い「蹴る」の一言を吐き出した。


 瞬間、ライライのまとう雰囲気がガラリと変わった。


 彼女を取り巻く空気から淀みや不純物がすべて取り除かれたかのような、そんなクリアーで混ざりっけの無い澄んだ気配。


 ボクはじゃりっ、と靴裏を擦り鳴らす。


 一体何をしていたのかはさっぱり分からない。


 だが今のライライは、さっきまでとは明らかに「何か」が変わっていた。抽象的な言い方かもしれないけど、それだけは断言できる。


 ライライはすさり、すさりと歩を進めてくる。


 その瞳に宿る闘志の炎は消え去っていた。だがその代わり、純水のように澄み切った輝きで満ちている。


 ――どういうわけか、ボクはそんなライライがたまらなく恐ろしく見えた。


 互いの距離がゆっくりと縮まっていく。


 だがボクの本能のような感覚が、彼女の間合いへ入ることに対して激しく警鐘を打ち鳴らしていた。「今すぐ逃げろ」と。


 だが、逃げていては勝つことはできない。ボクは心の警鐘を無視してその場に踏みとどまり、ジッとライライの到達を待った。


 やがて、ボクはライライの一足一刀――ならぬ一足一蹴の間合いの先端に入った。


「がっ――――!!?」


 突如、右の二の腕に衝撃が走る。


 真横へ吹っ飛ばされた。


 何の前触れもなくやってきた衝突と痛みに頭が混乱しつつも、ボクは即座に体勢を立て直し、さっきまで立っていた位置へ視線を向けた。


 が、ライライは蹴り終えた体勢をとっていなかった。それどころか、体を動かした素振りを欠片も見せていなかったのだ。


 ――いや、待て。さっきのはそもそも本当に蹴りだったのか?

 ――衝撃が来たのは確かだ。けど、攻撃の前兆が全く見えなかった。

 ――いやいや、ちょっと待て。ボクが攻撃の発生を見逃していただけなんじゃないのか。


 ライライはそんなボクの困惑など知らないような涼しい顔をしながら、再び近づいてきた。ダッシュではなく、ゆっくりとした歩行で。


 その穏やかな様子が、かえってボクの目には不気味に映った。


 けど、根拠のない恐怖心を噛み殺し、ボクは自分からライライへと駆け足で向かって行った。


 真正面から突っ込む――と見せかけて右斜め前へ方向転換。


 ライライの側面を取ったボクは全身に回転を加えながら近づく。


 彼女からは、未だにアクションを起こす気配が感じられない。


 戸惑う心を無理矢理黙らせてから、遠心力を乗せた右回し蹴りを打ち込もうと考えた。


 その時だった。右太腿と腹部に、高速で飛んできた砲丸が直撃するような圧力を感じたのは。


「――――っ」


 一撃目で足を払われ、二撃目で弾き飛ばされた。


 ボクはこれ以上ないほど目玉をひん剥く。


 今受けた二つの激痛に苦悶するが、その苦痛を帳消しにするほどに、ある事実に驚愕していた。


 なんと、ライライの足は――全くその場所から動いていなかったのだ。

 

 何度か地を転がったが、すぐにしゃがみ姿勢に持ち直す。


 今なおゆったりした物腰で立つライライへ、驚愕の眼差しを送った。


 心臓が鳴り響いて止まらない。


 ――ボクは確かに見た。


 二発の衝撃が訪れた時、ライライは確かに微動だにすらしていなかった。


 動くどころか、ほんの微かな初動さえ無かった。


 もしかして、相手に触れずに攻撃する技か?


 ――いや、そんなことはありえない。あるはずがない。


 それじゃあ、まさしく超能力じゃないか。


 それに、もし触れずに攻撃できるというのなら、ボクと距離が近づかなくてもボコボコにできているはずだ。ボクが謎の攻撃を受けたのは、すべてライライの蹴りの射程圏内。つまり、あれは「蹴り」だ。


 しかし、実際に蹴ったモーションを見せてはいなかった。なので、蹴りであるかも少し怪しい。


 なら、あの攻撃の正体は一体なんだ。


 武法マニアのボクでさえ知り得ない、謎の攻撃。その姿なき驚異に、ボクの心はすっかり翻弄されつつあった。


 ライライはまるで見透かしたような口ぶりで、次のように訊いてきた。


「ねぇシンスイ、あなた子供の頃、飛び回るハエを手で捕まえようとしたことはあるかしら? あれって中々上手くいかなかったでしょう?」


 まったく脈絡の無いその言葉に、首をかしげたくなる。


 が、ボクは少し戸惑いながらも、なんとか返答した。


「え……うん、まあ」


「そうよね。でもね、ものすごく簡単に手掴みできる方法が一つだけあるの。それは――「手を速く動かそう」っていう意識を持たないことよ」


 彼女の口から、また脈絡の無い発言が――


 ――いや、脈絡はあるかもしれない。


 ライライは今「速さ」と口にした。


 先ほどの、不可視の攻撃を思い出す。そして、一つの仮説を立てた。


 あれは「見えない攻撃」じゃなくて、「目で追えないほどの速度を誇る攻撃」なのではないか? 


 それならば、ライライの言った「速さ」という言葉に結びつく。


「知ってるかしら? 人間の体っていうのは、とってもつむじ曲がりなの。「速く動こう」と思えば思うほど、筋肉が緊張して、かえって遅くなってしまう。逆に「速く動こう」っていう執着を消し去り、ただ「この動きをしよう」っていう意識だけで体を動かすと、その動きは速く、そして鋭くなる。「速さ」への執着を捨てれば捨てるほど、動く速度は増す。そして「速く動こうとする意識」という不純物をすべて取り除き、純粋な「蹴る」という意識のみを残すと――その蹴りは神速へと至る」


 ライライが小さく微笑む。


 その笑みは、怖いほど澄んで見えた。


「それこそがこの【無影脚むえいきゃく】。強雷峰チャン・レイフォンに父の事を思い出させ、そして意趣返しするために、私が作った技よ」


 稲妻に打たれたようなショックを受けた。


 蹴りの速度をデタラメなものにしているのは、間違いなく【意念法いねんほう】だ。体を鍛えることで速くするのではなく、自己暗示による精神操作を使って速さを手にするのだ。


 「速さ」を捨てて「速さ」を手に入れる――あらゆる武法を知るボクでさえ、そんな技術は聞いたことがなかったし、想像さえつかなかった。


 しかし、真に驚く所は他にある。




 ――こんな凄い技を、ライライは自分で作ったのだ・・・・・・・・




 武法の長い歴史の中、革新的技術を生み出した者は多い。


 だがそれができたのは、ほんのひと握りの”天才”のみだ。


 そして、その天才が今、目の前にいる。


 ……もしかするとボクは、武法の歴史の大いなる1ページを見ているのかもしれない。


 仮にもし、ボクを「天才」などと言う人がいたならば、それを否定した上でこう返したい。「ボクは指導者と指導環境にとてつもなく恵まれていただけの、ただの凡人だ」と。


 純粋な才能ならば、きっとライライの方が上だ。


 ――本当に、厄介な相手と戦うことになっちゃったようだ。まさしく「敵に回すとこれほど恐ろしいなんて……」というセリフの意味を体験学習している気分である。


 しかし、ボクは諦めるつもりはない。


 もう引き返す事は出来ない。突き進むしかない。


 あの日、父様に大見得を切った時点で、すでにサイは投げられているのだ。


 渡りきってみせようじゃないか。


 【無影脚】という暴れ川を。


 ボクはライライとの僅かな距離を潰しきるべく、走り出した。


 途中で胴回りに【硬気功】を付与。なおかつ両腕で顔面を守るという守勢を取る。


 これで受けるダメージを最小限にする事ができるはず。この状態のまま突っ込み、飛んでくる彼女の神速の蹴りに耐えながら強引に懐へ入ってやる。そうなればこっちのものだ。


 ボクはそのまま、彼女の領域へと足を踏み入れた。


 その瞬間、不可視の蹴りによる強大な圧力が、左右の脇腹へ往復ビンタよろしく叩き込まれた。


 しかし、そこは【硬気功】を施しているため痛みは無い。


 ボクはバランスを取り直すと、再び走り出そうと、


「うっ……!?」


 ――したが、途中で足が止まってしまう。


 胃の中を引っ掻き回されるかのような、凄まじい不快感に襲われたのだ。


 ――しまった。【響脚】か!


 【無影脚】のインパクトが強すぎて、この技の存在をすっかり忘れていた。


 その隙を突き、右脇腹へ見えない回し蹴りが舞い込んだ。


 紙くずのように軽々と吹き飛ぶボク。【硬気功】のおかげで痛みが無いのが幸いだった。


 受身を取って立ち上がってから、すぐに【震脚】する。それによる地面からの反作用で【響脚】の振動波を相殺。不快感が消えた。


 ボクは舌打ちする。【響脚】があるため、【硬気功】による防御で強引に押し切るのは無理だ。【硬気功】の効かない攻撃の厄介さを、まさか自分が味わう事になるなんて。


 ……それなら。


 ボクはもう一度【震脚】して瞬発力を高めてから、再び大地を蹴った。


 真っ直ぐへは進まない。右側から大きく迂回するような円弧軌道で近づく。


 やがて、ライライの背後へたどり着く。


 ボクは胴回りを【硬気功】で固め、顔を両腕でガードしながら近づいた。さっきと全く同じ構えだ。


 【響脚】は回し蹴りを左右交互に行う技。背後の相手に、二連続の回し蹴りは不可能なはず。


 ボクは勇んで、左足で彼女の間合いへ踏み入った。


 次の瞬間、土手っ腹と左足甲の順に、強い物理的ショックが訪れる。


 腹は【硬気功】がかかっているため、当然痛くはない。


「――――!!」


 が、足甲は違った。


 金鎚で殴られたような強い痛みが走り、ボクは目を白黒させた。


 おそらく今使ったのは【鴛鴦脚】。あの技は後ろへ跳ね上げるように蹴った後、勢いよく爪先を急降下させて相手の足甲を痛めつける。それを目にも留まらぬ速さでやってみせたのだ。


 痛みに悶えて固まっている所へ、見えない蹴擊がぶち当たった。ボクの軽い体が弾き飛ばされる。


 胎児のように丸まった状態で滑り、停止。


 ボクは左足を踏ん張って立ち上がろうとしたが、さっき打たれた足甲がズキリ、と鋭い痛覚を訴える。その痛みから目を逸らし、強引に起立した。


 左足で強く地を踏むたびやって来る鋭痛に、ボクは忌々しげに奥歯を噛み締めた。


 背後からの攻めは、完全に裏目に出る結果となった。これなら【響脚】を避けない方が効率的だったかもしれない。【響脚】の不快感はすぐに消せるが、今受けた足甲の痛みはしばらく続きそうだから。


「あなたばかりに攻めさせてごめんなさいね。でも大丈夫……今度は私から攻めるから」


 ライライは変わらぬ涼やかな声色で言うや、突然ボクめがけてスピードアップした。全身の強靭なバネから繰り出される、ネコ科の猛獣のようなしなやかさと鋭さを持つ走り。


 今までのゆったりした様子からの唐突な加速に、ボクは反応がワンテンポ遅れた。


 そのせいで、彼女の間合いの接近をかなり許してしまう。


 焦る心の赴くまま、右足――左足を痛めているから――のバネを駆使してウサギのように横へ跳ぶ。


 直後、神速の蹴りがボクの立っていた位置の石敷を削った。姿どころか影すら残さないそのべらぼうな速度は、まさに【無影脚】の名に恥じないものだった。


 砕かれた石敷の大きめな破片が飛んでくる。ボクはそれを片手でキャッチするや、こちらへ距離を縮めにかかっていたライライへ投げつけた。


 彼女は走る速度を緩めると、見えない蹴りでその破片を砂に変える。


 それによって生まれた僅かな隙を使って、ボクはできるだけ長く後退し、間隔を大きくした。


 こちらへ近づくライライの両目に一致させるように、ボクは両の視線を送る。そのまま、互いの目が一本の紐で繋がっているイメージを強く持った。――【太公釣魚たいこうちょうぎょ】。視線の動きによって相手の移動方向をコントロールする技。それを使ってライライの体勢を崩させ、拳を打ち込む隙を作ってやろうと考えた。


 が、ライライはボクの視線から目をそらした。


 「くそっ」と心の中で毒づく。こっちの狙いはバレバレのようだ。センランとの一戦で【太公釣魚】を見せてしまっていた事が、ここに来てアダとなった。


 蹴りの射程圏の端と再び重なりそうになった瞬間、ボクはダイビングでもするように真横へ大きく飛び退いた。何度か転がってから再び二本足で立ち上がる。


 それからしばらくの間、あらゆる手段を用いて彼女から逃げ続けた。


 今のボクらを形容するなら、「手負いの獲物を追いかける猛獣」といったところか。当然、ボクが追われる側だ。


 彼女の間合いに入る事は自殺行為。入った瞬間、稲妻のような足技によって黒焦げにされる。間合いの中心たる自分の元へ近づく事を絶対に許さない。いわば「蹴りの結界」だ。


 ボクは逃げの一手に徹しつつ、その結界を破る方法を必死に考えていた。しかし、未だに何一つ打開策が思いつかない。


 やがて、逃げの一手にも限界が訪れた。


 考え事をしながら何かに取り組むと、大抵上手くいかないものだ。ずっと庇っていた左足で誤って瞬発してしまい、それによる痛みで思わず居竦んだ。そのせいで体が凝り固まり、回避行動に失敗する。


「ぐぅっ――!!」


 その代償と言わんばかりに、二の腕へ透明のミドルキックが直撃。派手に飛ばされた。


 石敷の上を無様に転げるボク。


 うつ伏せになってようやく止まり、約20まい先に佇むライライを見た。


 服がすっかりボロボロなボクと違い、彼女の体にはほとんど汚れが見られなかった。


 その違いを見て、怪物に追い立てられた時のような強い焦燥感が胸を冒す。


 何もかもが通じない。


 攻撃を避けるだけで精一杯だ。


 近づくなんてもってのほか。


 攻撃どころか指一本さえ触れられない。


 かつてないほどの逆境に、ボクは立たされていた。


 このままだと負ける。


 負けて、武法士として生きる人生プランがお釈迦になってしまう。


 そんなのは嫌だ。せっかく掴んだ第二の人生なんだから。


 ボクは勝ちたい。勝って【黄龍賽】の本戦へ進み、そこで優勝したい。いや、しなくちゃいけない。


 だけど現実問題、【無影脚】を攻略する方法が全く思いつかない。


 そして、ライライもそれを考える時間を与えようとはしてくれない。その証拠に、現在進行形でボクの元へと接近している。


 あと十秒足らずで、ボクは蹴りの領域に飲み込まれるだろう。


 度重なる打撃によって、いい加減全身はガタガタだ。これ以上蹴りを喰らうのはマズイ。


 けど、どうすればいい? 


 まず、蹴りの速度が速すぎて、回避が出来ない。


 防御しようとすれば【響脚】がやって来る。


 八方塞がりじゃないのか。




 ――いや。そんなことはない。




 突然、ある考えが雷のように脊髄を貫き、脳髄を焼いた。


 刻一刻と縮まるライライとの距離など気にも留めず、ボクはそのひらめきを確かめていた。


 一つだけ方法がある。


 目で追えないほどの速度を誇り、なおかつ変幻自在な動きを持つ【無影脚】を攻略できる方法が。


 その答えは、びっくりするくらいシンプルなものだった。


 いや、きっと今までのボクが、難しく考え過ぎていただけなんだ。


「ふふふ……っ」


 思わず、口から笑みがこぼれる。


「……何か、思いついたのかしら」


 大和撫子を思わせる奥ゆかしい微笑みを見せ、そう尋ねてくる。


 ボクは不敵に口端を歪め、


「まあ、そんなところかな」


「そう……でも、果たしてそれが今の私に通じるかしら…………」


 ライライのあの妙に落ち着き払った態度は、おそらく、神速の蹴りを放つのに邪魔な雑念を取り払った結果だろう。今の彼女からは悟りを得た僧侶にも似た、異様に澄み切った雰囲気が感じられる。


 心の中で予言する――その余裕な表情は、もうすぐ驚愕で塗りつぶされる事になる、と。


 ボクは全力で走り出した。


 左足で地を蹴るたび、痛覚が鋭く駆け巡る。


 しかし、今だけはそれを無視し、普段通りに足を動かした。大地をしっかりと踏みしめ、自分の体を素早く前へ導く。


 走行中、ボクは【硬気功】を胴回りにかけ、顔を両腕で覆い隠して防御の体勢をとった。


 本日三度目になるこの防御。


 断じてやけっぱちではない。これが勝利の鍵だ。


 ここで、作戦通りに事を運べるかどうかが、この勝負の分かれ目。


 その作戦で求められるのは、三つの要素。


 ――「準備」の速さ。

 ――その「準備」を行うタイミングをうまく掴み取る能力。

 ――そして、運。


 どれか一つでも欠ければ、ボクの目論みは失敗する。


 イチかバチかの大勝負だ。


 絶対に決めてみせる!


 決めてやる!


 彼女の間合いに入るまで、残り約四歩。


 集中力を極限まで引き出し、時の流れを遅くする。


 三歩、


 二歩、


 一歩、


 蹴りの結界へ足を踏み入れた。


 ――ここだ!!


 転瞬、ボクは出せる限りの速さで動いた。


 腰の高さを急降下させる。

 閉じていた足を左右へ一気に開き、四股を踏んだような立ち方となる。

 胸を張り、その勢いで両肘を左右側面――正確には、左右の脇腹の隣――へと突き出す。


 それらの身体操作を同じタイミングで開始し、そして終える。




 ――次の瞬間、右肘に重々しい感触がぶつかった。




 「ミシリ」という微かな音とともに、強烈なインパクトが体の芯まで響く。だが【両儀勁】のおかげで、ボクの足はその場からは少しも動いていない。


 右肘のすぐ隣に、ライライの左足があった。神速という名のベールが脱げ、その姿が露わになっていた。


 そして、


「うぐっ…………!?」


 ライライはさっきまでの涼しげな表情を一変、驚きと苦痛が混ざったような顔となっていた。


 それを見て、ボクは作戦の成功を確信する。


 ――【無影脚】の攻略法。これは難しいようで、実は非常に簡単なものだった。


 ボクは顔を両腕でガードした上で、胴回りに【硬気功】を施した。


 この構えは、【無影脚】に対してボクが取れる最善のガード姿勢だった。


 ライライはそんなボクに、どうやって決定打を与えた?


 【響脚】を使った。彼女はボクの両脇腹へ往復ビンタのように素早く回し蹴りを当て、体内を揺さぶってきた。


 ――そう。だからこそ、ボクがこのガード姿勢をとったら、ライライは高確率で【響脚】を使って来ると踏んだのである。


 【無影脚】は確かに目に映らないほどの神速だ。だが、どこへ飛んでくるかがある程度予測出来てさえいれば、対応は比較的簡単に行える。


 ――だが、それはあくまでも前提条件。本題はこれからだ。


 もう一度言うが、【無影脚】の攻略は結構簡単だ。




 だって――攻撃の要たる「足」を攻めればいいだけなのだから。




 ライライは高い確率で【響脚】を使ってくるはず。つまり、狙う箇所はボクの側面に絞られる。


 あらかじめ蹴ってくるであろう位置は分かっている。ならばそこを狙って【打雷把】自慢の強烈な一撃をお見舞いすればいい。


 両側面へ肘打ちを行う技、【撕肘せいちゅう】。この一撃と真っ向からぶつかったライライの蹴り足は――見事に損傷しているはずだ。彼女もヤワな鍛え方はしてないので折れてはいないが、それでもかなり痛かったことだろう。苦痛にまみれた今の表情が、それを如実にものがたっている。


 だが、【響脚】を使う確率こそ高かったものの、必ずしも予定通りにいく保証はどこにもなかった。なので、運試し的な作戦だったことも否定出来ない。


 しかし今、その賭けは見事に成功を収めている。




 そして、痛みに苦しんでいる今こそが――最大の隙となる!




 痛む左足で地を蹴り、疾走。


 ライライへ肉薄。ずっと入りたくて仕方のなかったその懐へ、ようやく到達した。


 ライライは「しまった」と言わんばかりの表情でボクを見る。


 けど、もう何もかもが遅い。


 右足による【震脚】で踏み込み、同時にそこへ急激な捻りを加える。

 捻りの力を受けた全身が、綺麗に噛み合った歯車のように旋回。

 その回転運動を直線運動に変えるイメージで右拳を突き出した。


 ――渾身の正拳【碾足衝捶】はライライの体に真っ直ぐ突き刺さり、さらにその奥へ分け入らんとばかりに食い込んだ。


 微かな呻きが耳元で響く。それとともに、ライライの姿がものすごい勢いで後ろへ流された。


 ボクはそれを後から追いかける。


 ライライは背中で着地。それからもしばらくの間、後ろへスライドし続ける。


 ボクはまだそれを追う。


 やがて慣性が摩擦に負け、ライライの動きが仰向けで止まった。


 ボクもそれに合わせ、走るをやめる。


 そしてしゃがみ込みつつ、ライライの顔面の一寸先まで拳を進めた。


 ――寸止め。


 円形闘技場全体に静寂が訪れた。


 ボクも、ライライも、果てには観客たちも、水を打ったように沈黙している。


 数秒間、その深い静けさは続いた。


 その沈黙を最初に破ったのは、ライライだった。


 ボクの拳の下にあるライライの顔は、悔しげに、しかしそれでいて満足そうな笑みを浮かべ、言った。


「…………降参よ。さっきの肘打ちで、左足の脛にヒビが入ったみたい。もう蹴り技使いとしては負けたも同然だわ。この勝負あなたの勝ちよ、シンスイ」


 その言葉が聞こえてから約五秒後、






「――宮莱莱ゴン・ライライの棄権を確認!! 勝者、李星穂リー・シンスイ!!」






 審判員の口から、勝者の名が高らかに叫ばれた。


 刹那、どっ、と歓声が膨れ上がった。


 これまで聞いてきた歓声の中で輪をかけて激しく、膨大な声量。


 その理由は、簡単だ。


 今この瞬間、この大会の優勝者が決まったからだ。


 このボク――李星穂リー・シンスイに。


 それを実感した瞬間、ボクは喜ぶよりも先に脱力した。落っこちるようにその場で座り込む。


 ライライと目が合った。


「散々蹴ってごめんね、シンスイ」


「ううん。ボクもライライの足に怪我させちゃったし、おあいこだよ」


「そっか。それとシンスイ、私が蹴りで作った上着の裂け目から胸が見えそうよ。隠した方がいいわ」


「うわ!?」


 ボクは慌てて両手で胸を覆い隠した。壁のように貧相な胸だが、女の子としてあけっぴろげはどうかと思う。後で着替えないとね。


 ライライはそんなボクを見てクスクスと笑いをこぼすと、


「――優勝おめでとう、シンスイ」


 そう、祝う言葉をくれた。


 それに対し、ボクは何も言わず、満面の笑みを返したのだった。

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