第2話銀ハブ

 麓の村を通り過ぎようとしていた。

 子供の頃には広く感じた村も道も、まるで箱庭の世界のように狭く感じた。

 目の前の山は青く、空には雲が浮いている。草の生い茂る狭い坂道を登った。

 丘の頂きに母が死ぬまで僕と母が二人で暮らしたあばら家を守っていた木だけが残っていた。長い歳月が過去の痕跡を、すべて消し去り、それだけが目印になっていた。

 家の前なった狭い畑は荒地になっていた。

 かろうじて昔からあるガジュマルの木を目標に、母を葬った後に置いた石を探し出すことが出来た。

 小さかった入道雲がモクモクと膨らみ、周囲も薄暗くなったかと思うと、激しい雷鳴とともに、いきなりスコールのような大雨が襲ってきた。

 大きなガジュマルの木の根本に腰を下ろし、三十年前に自分が置いた石が雨に濡れそぼるのを見つめてながら雨が止むのを待った。

 雨が止むと麓の村の木々もコバルトブルーの海も埃を洗い落とし、初夏の太陽に輝くかのように一層輝きを増した。

 

 焼きそばを売る香具師(ヤシ)仲間の店の前を通り過ぎた時であった。彼はいつものようにラジオを聞きながら商いをしていた。そのラジオで偶然、ギリシア神話の存在を知ったのである。字も満足に書けないが、雷に打たれたような強い衝撃を受け立ち尽くして、ラジオに耳を傾けた。有名な神話らしいが、勿論初めて聞く話だった。

 ある男が神の許しを得て、恋人を黄泉の国から救い出そうとしたが、黄泉の国から現世へ通ずる階段を登る途中、彼は恋人の姿を一目見たいという欲求に負け、神との約束を破り、後ろを振り向いた。その瞬間、彼は石になったという話である。

 この話とともに胸深く眠っていた母の記憶か蘇ったのである。

 夕暮れとともに仕事を終えて人里離れた丘の上の家までの坂道を戻る途中、彼女は呪文のように呟き続けていた。

「絶対に後ろを振り返ったら駄目。いつも前を見て進むこと。振り返ったら凍り付いて石になってしまう」

 その寂しい情景が、この話とともに僕の胸に蘇ったのである。

 やっと僕に友達が出来かけた。丘の麓の村に住む子で、その子供が僕の家に遊びに来た時、僕の父がサトル君が生まれて良かったって言っていたよ彼は言った。彼は素直に僕の誕生を祝福しただけだった。

 だが、その一言が、ひどく母を狼狽させて、彼女は家の陰に駆け込み、泣き崩れた。

 僕にも母が泣く意味が解らなかった。

 あの狼狽は何だったのだろう。

 この後、その友達とも迂遠になり、僕はふたたび一人ぼっちになってしまった。

 

 僕の記憶には最初から父の姿がない。これまで、その後、胸に封じ込めていた母の記憶が次々と蘇ったのである。母は、一体、何者だったのだろう。僕にとっては、命を授けた存在にちがいない。だが、それ以外のことは全く知らないのである。

 彼女の正体を憶測する記憶が、もう一つある。

 それは僕が五歳になった頃のことである。

 亡くなる直前に母は近くの町の病院に入院したが、ある出来事が原因で病院を出た。

 子宮ガンだと医者は言った。

 ヤンキ相手の商売にする女に多い病気だとも言った。そして子供の僕にも解る下卑な声で笑った。

「あんたたちみたいな無責任な木っ端役人がいたせいで、戦争を始まったんだ。お陰で私の生まれ育った村は全滅したんだ。あなたなんかの世話になりたくない」

 母は激怒して、役人に捨て台詞を残し、病院を出た。畑で作った作物や麓の村で仕入れた魚を町まで運び商いをするために使っていたリヤカーに母を乗せて、坂道を登り家まで運んだ。

「あなたが男に生まれて良かった。私も男だったら良かった。男だったら誰も知らない遠くも行ける」

 リヤカーの荷台で寂しそうに言った言葉である。

 畳の部屋で寝ていたが、痛みから開放されると、僅かな間だったが、板敷きの縁側に座り、彼女は青い海や麓の村を眺めて過ごした。

 次第に衰弱し、その回数も少なくなっていった。

 黄泉の国に旅立つ直前には腹部が異常に膨らみ、毎晩、僕は母の腹部を手で撫でていた。

 最後の晩だった。僕はいつものように母の腹部を撫でていた。

 母は子供の僕に「ありがとう」と言った。

「死んだ父親が迎えに来た。あなたを一人残して、この世に去るのは可哀想だ。父のもとに行きたい」

「元気になって」と泣いて訴えた。

 

 その日の夕方、夕暮れた家の裏側で僕は異様な気配を感じた。ハブ採りの罠箱の中で音がしているのである。その箱の中に鼠などの生きた小動物を入れ、ハブがその罠の中に紛れ込むの待つのである。稚拙な罠であるが、何度かその罠にハブが紛れ込んだ。ハブが紛れ込んだ次の日には、それを売り、結構な収入を得ることが出来た。そして母は僕に欲しがる甘いお菓子などを買ってくれた。

 網の扉から箱の中を覗いた。

 やはりハブが紛れ込んでいた。

 大人たちはハブを鱗の色で金ハブと銀ハブの二種類に区別していた。紬のような模様の下地が黄色い方が金ハブ、下地が白い方が銀ハブと呼ばれていた。

 日の届かない裏庭は暗くなり、箱の中の鋭い縦長の銀ハブの目が金色に不気味に輝いていた。裂けんばかりに口を大きく開け、毒牙を剥き出しにし、鞭のように空気を裂き何度も僕に襲いかかろうとするが、その度に金網にぶつかり、縄のように箱の底に鈍い音とともに落下した。僕は母が見たら喜ぶと考えた。母がやっていたように箱を裏側から抱え、母のいる部屋に運んだ。

「サトルか」

 僕以外に人がいるはずはなかった。

 夕暮れて薄暗くなった畳の部屋から僕を確かめる弱々しい母の声が聞した。

「おかあさん。大きな銀ハブが捕れた」と母に告げると、彼女は驚いたが、すぐに機嫌を直してくれた。

 見たいからそばに運んでくれと言った。

 僕は言われるとおり母の方に運んだ。

 母は全身の力を振りしぼるようにして身体を起こした。銀ハブは何度も檻の中で母にも攻撃を仕掛けた。

「大きく立派な銀ハブだね。ゆっくり見たい。しばらく銀ハブを見たい。一人にしておいておくれ」

 僕は母の言葉に、何の疑問も感じず、部屋を出ようとした。

 ガタンという音で振り返ると母が銀ハブの入った箱の金網の扉を開けていた。

 母の悲しい悲鳴を聞えた。

 銀ハブは母の首筋に牙を突き刺した。

 すぐに銀ハブは牙を解きスルスルと縁側に姿を消した。

 僕は母に近付いた。

 母は苦しそうに息を切らしながら言った。

「昨夜の夢は正夢だった。夕べ、父が銀ハブに乗って訪ねて来た」

 これが母の最後の言葉だった。

 只でさえ衰弱仕切った身体で銀ハブの毒は絶大な効果を発揮した。絶命するまで長い時間は必要なかった。

 僕は泣きながら、一人で庭のガジュマルの木の陰に穴を掘り母を葬った。近くの一番大きな石を墓石のつもりで置き、彼女が残してくれた貯金と僅かなお金を手に彼女が希望しても得ることの出来なかった誰も知らない世界を飛び発った。

 僕の人生は不幸なものではなかった。

 母が夢見ても実現し得なかった自由な人生を僕は生きてきた。

 四季の花を追い、全国の祭りを追い、自由気ままに全国を旅してきた。飢えや雨露を凌ぐ場所に困ったこともあったが不幸ではなかった。

 母を遺骨を掘り起こしながら泣いた。汗と涙が頬を伝わり落ちた。

 銀ハブを彼女の前にさらしたことを後悔したことはない。この話は、今まで誰にもしたことはない。聞き手の反応が怖かった。介抱がつらくて、母の安楽死を暗に促したなどと誤解されるのも、間接的に母の決心を誘ったなどと疑われることは嫌だった。

 母の死は時間の問題だった。

 彼女の死以降、僕は頼るあてもない天涯孤独の人生を送らざる得なかった。それだけでも大きな大きな痛手だった。

 彼女が話した戦後の捕虜収容所での生活や、片足の日本人の勧告で、暗く深い洞窟から、家族を残して、一人だけ抜け出して一命を取り留めたことを話していたのを微かに覚えている。その後の彼女の生活について僕は唯一の友達の言葉で身を震わせ泣き伏せたことや病院で若い医者を激しく罵倒した出来事で想像できた。だが今さら彼女の正体を詮索する気はない。今後とも知ろうとは思わない。

 彼女自身も詮索されることを望むはずもない。

 これが僕と母の物語のすべてである。

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