Chapter 6 袴と弓と冷たい床と(小春日和)
「ちょっと優子、離してよっ!」
「大丈夫です。大丈夫ですから」
三週間の入院生活を終えて、学校に戻るとあわただしく学年末試験があった。
入院中サボった分、成績は悪かった。
三浦センセの呼び出しもケガの後はピタリとなくなった。
卒業式で亜里沙の泣き顔を見て、三月が始まった。
穏やかに終わりゆく一年生の日々を感じていた放課後、帰りがけの私はなぜか優子に引きずられていた。
「どこ行くつのりなのー! 手離してよ」
コートの上から右手をつかむ優子の手を引きはがそうとするけれど、がっしとつかまれた手は思っている以上に手ごわかった。
「ち、ちょっとそこ、出ちゃダメなとこ―!?」
「平気です。 大丈夫ですから」
優子は一階の端にあるドアのカギを勝手に開けて外に出ていこうとする。
「だってそこに『出入禁止』って…って!! 優子聞いてる?」
「大丈夫ですから。 心配しないでください」
上靴のまま外に引きずり出されていく。
――この先ってプールと弓道場のはずだったよね。
今の私にはどっちにも用はない。
「ね、優子っ! 優子ったら!」
優子は聞こえないふりをして、そのまま弓道場に入っていこうとする。
「さあ、入ります」
「え、えっ!?」
「はい、礼をお願いします」
「あ…、はい」
言われるがままに頭を下げる。
優子は軽く頭を傾けて弓道場のサッシを引いた。
「若生優子入ります」
「はーい」
中から、けだるい返事が返ってきた。
どうしたらよいか分からず、ぼけっとしていると
「土足禁止は禁止になってます。脱いでくださいね」
「あ…うん」
こそこそと靴を脱ぐ。
「あ、修明さん、靴はきちんと外に向けてください」
優子がさっとしゃがんで靴をくるりと回した。
私は何気なく靴下のまま木の床に足を下した。
「ひゃっ!」
一瞬で靴下越しにでも分かる床の冷たさ。
奥のストーブの周りからクスクス笑いが聞こえる。なんだか楽しそうだ。
――帰ろう。なんでこんな惨めな思いをしなければならないんだ。
踵を返すとサッシをふさぐように優子が立っている。
「若生、入部希望者かい?」
袴にジャージをひっかけた人が奥から出てきて、近づきながら言った。
「そうですね。そうなってほしいです」
「そうか。じゃ、あんたたち?」
「あ、はい!」
ストーブの前にいた二人の部員が立ち上がり折り畳みイスを出してきた。
「仙台櫻華学園弓道部へようこそ。歓迎するよ。今日のところはそこで見学しててくれ」
私は優子の方をちらりと見て、分からないように、ため息をついた。
「どうぞ」
部員の一人がひざ掛けを貸してくれた。縮こまって肩まで引きずりあげた。
――優子。ってあれ?
入り口を見ると優子の姿がない。きょろきょろしていると
「若生ならそのうちくるさ」
「あの…部長さんですか?」
「柳 小羽(やなぎ こはね)、商業科の2年だ。小羽でいいよ。以後よろしく」
小羽さんは手をパンパンと叩くと
「じゃあ、そろそろ始めるよ。まずは柔軟。固くなってるからしっかりね」
二人一組で柔軟を始める。といっても、ここには小羽さんを入れて三人しかいない。
――小羽さんは?
と思ったとき、優子が入ってきた。
他の部員の物よりも優子の弓道着は少しだけ着古した感じがした。
「若生、やるか」
優子は正座をしてから、持っていた巾着袋をわきに置いた。
「はい」
背筋をしっかりと伸ばして立ち上がり、小羽さんと柔軟を始めた。
――寒い。
今日は昨日までと比べて少し寒さがゆるんで、朝から陽も照っていた。
けれど、夕方になればやはり寒い。
――弓道場って前面なにもないんだ。
見えるものといえば、冷たい床、土の壁に浮かぶ白い的、的まで続く地面と、その上になんであるのか分からないネットの四つだけだった。
――寒い。
ストーブなんて無いようなものだ。少し風が出てきただけで、冷気が容赦なく襲い掛かる。
コートの襟を抑えた。
「やっぱり寒いか」
小羽さんが笑いながらこっちを見ている。
声も出せずに、コクコクとうなずいた。
「若生、今日はもういいだろう」
「まだ、引いてませんけど…?」
「無理だ。あんなに震えてるんじゃ」
「でも、部長…」
「察しはつくが。だがな、若生。無理強いはよくない」
「はい…」
柔軟をやめて、小羽さんがそばに来た。
「えっと…」
「修明です」
「ああ、悪い。でだ、修明さん。こんな寒いところに無理やり連れてきて申し訳なかった。若生はたまに暴走するから。まぁ、興味があるならいつでも来てくれ。歓迎する」
「若生!」
「……はい」
しぶしぶといった感じで優子がやってくる。
「申し訳ありません…修明さんの気持ち考えてませんでした」
「ん、いいよ。気にしないで。でも、どうして?」
優子の頬が桜色に染まる。
「…わたしね、修明さんと弓を引きたいなって」
「えっ!? それって弓道したいってこと?」
顔を真っ赤にしながら優子がうなずく。
「ムリムリムリムリムリムリ。だって、左手に力入らないんだよ? まともに握れないのに。腕も中途半端にしか上がらないし。それに私、運動神ゼロだよ。力もないし」
顔の前で右手をぶんぶんと振り、慌てて答える。
「なるほど」
予想外の声が隣からした。小羽さんだった。
「それでか」
「…はい」
小羽さんは顎に手をあてて考え込んでいる。
「修明さん。握手しよう」
反射的に出された左手を、左手で握り返す。
「ふむ。これが限界?」
「え…、まぁ、もう少しくらいなら」
痛くならない程度で握りこむ。
「ふむ」
「部長、どうですか?」
「充分じゃないかな」
小羽さんは手を丁寧に離すと優子の方を向いた。その答えに優子の顔がパァッと明るくなる。
訳が分からない私は小羽さんと優子の顔を行ったり来たりしている。
「修明さん。腕はどこまで上がる?」
「腕…ですか?」
もう訳が分からない。
――どうにでもなれ
腕をそろそろと上げた。
「…イタッ」
「ああ、無理はしなくていい」
ふぅんと言いながら小羽さんは、じろじろと私を見てくる。
「あの…」
「若生、あっちなら大丈夫じゃないかな」
「私もそう思ってます」
「だが、教えられる人がいない」
「私の通ってる弓道会にいると思います…」
「来てくれるのか?」
「多分…もしくは出稽古…」
二人は私そっちのけだった。
「あのー」
左腕を中途半端に上げたまま声をかけた。
「ああ、悪い。下してくれてかまわない。それでだ。修明さん。弓道やってみる気はないかい?」
「またですか?」
「さっきの話は聞こえてた。だが、その上で誘っている」
「聞こえてたんですよね」
「無論」
「左手に力が入らないのも、腕が上がらないのも、今見せましたよね」
「無論」
「だったら、なんで?」
小羽さんはちょっと考えるように腕を組み、優子の方を見た。
「若生、どれくらいかかる?」
「明日行きますから、その時にお願いするとして、明後日には」
小羽さんはうなずくと
「修明さん。明後日の放課後に又来てくれるかな。その時にもう一度先ほどの話をしよう」
「私からも、お願いします」
優子は泣きそうな顔をしている。
――なんか悪者みたい。
「わーった。わかったよ。明後日ね。でも、答えは変わらないと想うよ」
「ん。わかった」
優子がほっとしたように言った。
―◆―
「弓道か…」
八乙女の駅でつぶやいてみる。
袴姿の優子が頭に浮かぶ。凛としてカッコよかった。
――でもさ、無理だよ。
右手で左肩を抱く。
――力が入らないし、完全には上がらない。そんな状態で運動ができるとは思えない。
右手に力を入れて、左肩をぎゅっとつかむ。
――優子、ありがと。気を使ってくれて。それだけでもう…
鼻をすすりあげて顔をあげる。
入ってきた電車が巻き上げる風はいつもに比べて冷たく感じた。
―◆―
「インフルエンザですね」
――やっぱり。ずっと熱が下がんないからおかしいと思ってたけど。
優子に連れられて弓道場に行ったその日、帰り道から調子が悪くなった。
やたらと体がだるいし、吐く息は熱っぽいし、頭がくらくらし始めた。
家に着くと着替えもそこそこに布団にもぐりこんだ。
20時過ぎごろに帰ってきた母さんが、私からの返事がないのを心配して部屋に入ってきて、額に当てたと思った瞬間には引っ張り出されていた。
そのまま母さんの病院の夜間外来に連れていかれたのが一時間くらい前。鼻に細長い棒みたいなのを突っ込まれて、インフルエンザの検査をされた。
待合室で自分の言う事を聞いてくれない重い体を母さんの肩によりかかけて、永遠に感じるような短い時間を過ごして、やっとの思いで診断を下されたのがついさっき。
何も考える気力もないまま、母さんの車の後部座席に体を投げ出して、家に戻ってきた。
―◆―
「御古都がインフルなんて何年ぶりかなぁ」などと、母さんは妙に嬉しそうだった。
「中学校の時だっけ? 学級閉鎖になったのに大丈夫だったの」
「……小学校」
「周りがみんなダメなのに御古都だけピンピンしてたの」
私はぶすっとして聞いていた
――どうせ私は頑丈ですよっ。
布団をひっかぶる。
…
……
…
ぷはっ。
すぐに熱くなって布団から顔を出す。
頭と頬がぽけっとしてよく考えられない。
時計を見ると1時間経っていた。
…あ…優子に連絡しなくちゃ。
ごそごと枕元に手を伸ばしてみるけれど、いつもの場所にスマホがない。
…あれ?
「母さーん」
かすれた声で母さんを呼んでみる。
「母さぁん…」
「なぁに、御古都」
「スマホ…」
「ダメ」
「え…」
「ダメ」
「え…ダメ?」
「インフルエンザが治るまで、母さんが預かります。御古都がちゃんと寝てるように」
「で…でも、友達に連絡…」
「さっき中野さんと若生さんから電話があったわよ」
「何て…?」
「お大事にしてくださいって」
「優子は他に何か言ってた…?」
「他には何も。さ、もういいからパジャマ着替えなさい。ビショビショでしょ」
「うん…」
熱はなかなか下がらなかった。
うんうんとうなされながら、布団の中で過ごす日が続いた。
そんなこんなで、いつの間にか春休みが訪れ、私は高校二年生になった。
―chapter 6 袴と弓と冷たい床と(小春日和)了
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