海底ブランコ

おイモ

海底ブランコ

 



 知っている魚と知らない魚が行き交うこの場所に僕はいる。みんな泳ぐのに夢中で、食べるのに必死で僕なんて気にしない。差し込む太陽がどれほど眩しく綺麗なのか彼らは知らない。僕は底から青い空と揺らめく太陽の光を眺めている。

 

 左手は君に包まれている。生暖かい海の中でしっかりと熱を感じる。ここにいていいと温かい血液が心臓まで伝達する。僕はここにいていい。少なくとも彼らの邪魔なんてしていない。ただちょっとだけ場所を借りているだけだ。

 確かに呼吸をしている。君と呼吸をしている。

 僕は水中で呼吸ができることを知っている。

 カナヅチだった小さい僕は何度もプールに溺れた。だいたいは誰かのいたずらとかそんなのだったけど、僕は簡単に溺れた。プールだから海と違って大事にはならなかったからよかったが、こんな海であんなことされたら多分死んでいたんじゃないかなあ。

 溺れる時は苦しくない。呼吸ができる。理屈なんて知らないけど、呼吸をしているのと変わらない感覚で、ただ浮いていられる。鼻から水が入って痛いとかそんなことは考えない。頭にない。幼い僕はいつも水の中から夏の日差しを反射しているであろう水面を見ていた。そして「綺麗だなあ」と思った。そして大人に引き上げられる。僕しか知らないことなんだろうけど多分君も知っているんだろう?

 ここは水中だから何もおかしくない。僕らは何かを吸って何かを吐く。そしてここにいる。


 ただ二人で浮遊しているわけじゃない。二人で仲良くブランコを漕いでいる。ゆっくりと。

 赤いペンキで塗られたブランコ。おそらく君と僕のためにある遊具。ただ当たり前のように底にある象徴。金具は錆び付いていて、揺らすたびに少しイヤな音を立てる。それでいて実にスムーズにブランコは揺れる。君と揺れているならどれだけイヤな音が響こうが僕は構わない。揺れよう。

「もっと激しく。もっと大胆に。もっと、もっと愉しく揺らそうよ」

 うん。君は僕の左手を綺麗な右手で一度だけきゅっと握りしめると、すり抜けるようにして指を一本ずつゆっくりと離した。そして海底の柔らかい砂を蹴ってブランコを加速させた。

「気持ちいいよ。あなたもほら、早く」

 彼女の手の温かさが生暖かい水に溶けるのを感じながら、僕も勢いよく薄汚いスニーカーで底を蹴った。

 蹴るたびにどんどん君と僕は加速する。ここで僕は彼女が裸足なのに気づいた。綺麗な足だな、と僕はスニーカーを脱ぎたくなった。

 ブランコは放物線を描きながらイヤな音を鳴らしていた。半円を満たない頃に彼女が僕に聞こえるように声を張って喋り始めた。

「ねえ!気持ちいいでしょ!もうどれくらい漕いでなかったか忘れたけどすごく気持ちいいよ!」「あなたを捨てたみーちゃんも今頃気持ちよくなってると思うわ!」「近所に住んでた二つ上のなっちゃん覚えてる?あの子十七の時にはすでに汚れてたよ!」「あなたのポジション奪った背の小さいアイツは二年浪人して東京の国立に行ったんだって!」

 うん。うん。知ってる。わかってるよ。僕が知らないことなんてこの世のすべてだけど、全部知ってる。わかってるよ。

 ゆっくりと時間をかけて、ギィーギィーとイヤな音を立ててブランコは止まった。

「わたしはどこにもいかないよ」

「うん」




 二人は魚の群れを断つように泳いだ。僕はスニーカーを脱いだ。彼女は白いワンピースを脱いで下着だけになっていた。

 身体に無数の魚たちが衝突したが痛くなかった。魚たちの中には迷惑そうに僕らを迂回するものもいた。たまに僕は繋がれていない右手で小魚を掴んで潰そうとしたけど、結局するりと僕の手から逃れていった。

 そしてしばらくしてから僕の母校みたいな城が見えてきた。それは今まで通った校舎の成分を組み合わせたものだった。僕は苦いノスタルジーに浸っていたが、次の彼女の一言でそれは引火した。

「全部壊してしまおうか」




 僕はよくこの校舎口で好きだった女の子が僕をからかうのが好きだった男の子と一緒に帰るのをただ見ていた。十二歳は幼くない。具体的な感情についてまだ全然わからなかった。だけど僕は自分が惨めだということを理解していた。男女の仲だとかそんなのはその頃の子供にとっては気恥ずかしい世界だったけれど、それよりもずっと劣等感の世界が僕を覆っていた。この時から、いやもっと前から種は蒔かれていたのかもしれない。なんでもいい。あれはいけないことだったのだ。燃やせ。壊せ。破壊せよ!すべて悪いんだ。彼女はただ僕が下駄箱を壊すのを微笑んで見ていた。満足そうに、同情するかのごとく僕を温かい眼差しで眺めていた。僕は必死に使命感に駆られて木製の下駄箱を粉々にしていた。釘や破片が手を刺さった。切り傷もできた。血が水に溶ける。熱も溶けるが決して冷めることはない。手紙を入れる箱なんて無かったらよかったんだ。誰かがいたずらで好きでもない女の子の下駄箱に偽装した手紙を入れる。そんなことはあってはいけない。おい、柳沢聞こえるか?お前のことだぞ。


 この教室にはベージュのカーテンが引かれている。放課後にカーテンにくるまるカップルがいた。その幻影が今でもカーテン越しに残っている。蠢いている。カーテンは僕と彼らを隔てるレトリックだ。なんでお前らみたいな連中だけが先に行くんだ。快楽と憎悪の幅を一足先に広げていった。何も無い僕みたいなのはただただ絶望の底が深くなるだけだ。お前らだけ。お前らだけ。あての無い怒りが激しく暴れる。僕は幻影に向かって泳ぎ出す。君は背後から言った。

「燃えてるんだからさ、燃やしたっていいんだよ」

 僕はポケットに入っていたジッポライターを思い出した。僕はもう子供じゃないんだな。燃やせるんだ。燃やしてやる。窓際に並ぶ席の一つを持ち上げて思い切り幻影に向けて投げつけてから僕はカーテンに火をつけた。カーテンは僕の絶望を燃料に燃え上がった。ここは呼吸のできる水中だ。理屈なんて知らないけど、炎だって燃え上がる。

 

 廊下の蛍光灯を君と二人で割りながら泳いだ。美術室の人物石膏を粉々にした。音楽室のピアノで遊んでから偉大な音楽家の肖像画をカッターナイフで切り刻もうとしたが、彼らは関係ないような気がして、そのまま校長室へ入って代わりに小学校のなのか中学校のなのか高校のなのかよく覚えていない校長の肖像画にマジックで落書きをして、職員室に入って、すべての濡れた書類に火をつけた。

 

 それから僕はとにかく校舎のありとあらゆるすべてを小学一年生用のイスで殴っていた。壊したかった。この城を壊せば僕の中のいろんな部分が楽になると思った。楽になるなら僕はやるんだ。君のためにも、僕のためにも。僕が呻きながら三つ目の黒板を殴っていると君は言った。

「もういいよ」

 君が壊せって言ったんじゃないか。僕は壊すぞ。全て壊すぞ。みんな殺すぞ。

「もう頑張らなくてもいいのよ」

 これは復讐であって、誰に命じられたことじゃない。僕は僕の使命として僕はこの過去を壊しているからであって。

「ねえ、あなたは頑張らなくていいのよ」

 違う違う違う違う違う違う俺は水中でも呼吸ができるし君と居られるし呼吸ができる。これは君がやれって言ったんじゃないか。君が言ったんじゃないか。君が言ったから俺は水中でも呼吸をするし、この城を壊すんだ。君が与えた使命だ。そしてこれは復讐であって僕はこの武器を持って壊すべきであって。

「ねえ、ちゃんと聞いてね」

 彼女は下着だけの姿で水流に揺られながら僕を見つめて言った。

「あなたを捨てたみーちゃんはちゃんと今を生きている。あなたはそうじゃない」「なっちゃんは汚れているかもしれない。でもあなたは汚れるどころか誰にも触れられない」「あなたは背が高いけれど下手くそだった。でも彼は二年も余分に勉強して、今頑張ってる。」

 知ってる知ってる知ってるよ知ってるんだ知ってる知ってるよもうそんなこと知ってるんだ。わかってる。理解してる。理解しすぎて頭のどこかがおかしくなっているんだ。ネジが緩んでどこかに飛んで行ってしまって、もう僕が誰で誰が僕なのかわからなくなってしまっているんだ。君はきっと僕であって、僕は君であるはずなのに、どうして君は僕を責めたりするんだ。どうして僕は君を責めたりしないんだ。いや責めよう。責めてやる。君は僕の弱い部分だ。僕が城を壊すのは君のせいだ。君が壊せって言ったからだ。君が壊せって言ったからだ。君はもしかして僕を壊そうとしているのか?やめてくれよ。僕には君しかいないんだ。僕は君の温もりしか知らないんだ。君がそばにいないと僕はもうだめだ。もう君を責めたりなんかしない。僕には君しかいないんだ!

 あなたとブランコで揺れているだけでいい。それ以上求めない。




 さよなら、哀れな狂人よ。

 過去にしか生きることのできぬ狂人よ、さよなら。

 

 


 さよなら、大好きな人。

 あなたとまた揺れたいな。



 それからというもの僕は魚を眺めて、太陽を眺めて、月の光を眺めていた。

 僕は呼吸をしている。君と呼吸をしている。


 もうやめたいよ。苦しい。君なんていない。冗談じゃなく苦しいよ。




 呼吸なんてできるわけないじゃないか。

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