第3話 お稲荷さんといなり寿司

ふあぁ……と、口から気の抜けた吐息が溢れる。頬に当たるモフッとした感触がくすぐったく、ゆっくり瞼を開く。寝起きに伝わる体温で何となく気付いてはいたものの、俺は壱に抱き枕にされたまま眠っていたらしい。

「……よいしょ」

そっと壱の腕から抜け出して、ベッドから降り、キッチンに向かう。

「いなり寿司の準備でもするか」

昨日、壱が作ってやるとか言っていたものが、いなり寿司。どんなものに仕上がるかは分からないが、下ごしらえぐらいはしておこうと思った訳で、タイマーをセットした炊飯器の中では米が炊けている筈だ。


酢飯に使う寿司酢や、調味料を出しておく。冷蔵庫からは、油あげを。

出した油あげを半分に切り、真ん中を優しく広げて鍋に並べる。

だし汁、醤油、砂糖をカップに注いで混ぜてから、油あげを並べた鍋へ。鍋を火にかけて、沸いたら落とし蓋。中火で10分炊きこむと、部屋中に出汁と醤油の食欲が湧いてくる香りが立ち込める。

火を止めて、鍋ごと油あげを冷ます。炊き上がっていたご飯をタライに移した……時だった。


ドサッ!


ベッドの方から派手に何かが落下する音が聞こえた。

「ふぉお!?」

俺は急いで手を洗い、ベッドに駆け寄る。

「壱っ!大丈夫か!?……どこか痛い?」

寝返りでも打ったのだろう。壱が、ベッドから落ちていた。

「ちいとばかし尻尾を打ったようじゃが、大丈夫なのじゃ」

苦笑いを浮かべて尻尾を軽くさすり、ゆっくり立ち上がる壱は、すっかり目が覚めたようだ。

「そう……か、良かった」

ホッと胸を撫で下ろした瞬間、唇に柔らかな感触。壱の顔が、近い。

「おはよう、じゃな?」

「……っ!……おはよう。そういえば、準備出来てるよ。いなり寿司、作るんだろ?」

スンスンと鼻を鳴らして、壱はキッチンから漂う匂いを確かめている。

「うむ!作るのじゃ!飯の匂いがするのぅ、炊いておいてくれたのかぇ?」

「あ、うん。油あげと、酢飯の用意をしといたよ」

微笑んで頷く。壱は目を細めて笑みを浮かべ、キッチンへ向かった。俺も壱の後を追い、キッチンへ戻る。


キッチンで壱は、炊いた油あげとご飯を確認して、手を洗う。

「ほぅ、ゴマと梅があれば良い感じに出来そうじゃ」

「ゴマと梅、あるぞ」

俺ももう一度手を洗ってから、戸棚の中の炒りごまの袋を出す。壱は、冷蔵庫を開けて梅干しを見つけて出した所だ。

「ゴマ、ここに置いとくぞ」

酢飯は酸っぱくしすぎないようにだろう。壱がご飯に混ぜる寿司酢の量は少なめで。まな板と包丁を出して、梅の身を軽く叩いて種を出し、少し刻んでからゴマと一緒に酢飯に混ぜている。

「うむ。何となくワシが普段作るものにしておるが、真也は食えそうかのぅ?」

「うん、むしろ壱が作る物が食べてみたい」

「下ごしらえは真也がやってくれておったからのぅ。もう少しで完成じゃ、茶でも用意して暫し待つが良い」

大きく頷くと、壱はヘラッと笑って応えてくれた。

梅とゴマの入った酢飯を軽く握って大きさを整える。鍋の落し蓋を外し、冷めかけの油あげを軽く絞ってから、大きさを整えた酢飯を入れて、オニギリを作る要領で形を整え、出来たものから皿に乗せていく。

「あぁ、それにしても手慣れてるな」

壱がいなり寿司を握っていく姿に感心しつつ、俺は急須と緑茶の茶葉を用意して、茶葉を入れた急須にポットのお湯を注ぎ、湯呑み2つと一緒にお盆に乗せてテーブルへ運ぶ。

「ワシの所は兄弟全員……ではないのじゃが、作れるぞぇ?得意な味付けがそれぞれ違うのじゃ」

キッチンから聞こえる壱の声。手を洗う音。ほぼ生活音に近いそれらも、壱が側に居るという安心感を覚えるものだ。湯呑みに茶を注いですぐに、いなり寿司が乗せられた皿を持った壱が来る。


「出来たのじゃ。これを一度、真也に食わせてみたかったのじゃよ」

「なるほどな。良い匂い、美味しそう……食べても良いか?」

「食うてみぃ。ワシの好きな味付けじゃ」

テーブルに皿を置き、ゆったりとした仕草で椅子に座り、熱い茶をすする壱。コトリと湯呑みを一旦置いてから、いなり寿司を軽く掴んで俺の口元に運んでくる。

「ん、頂きます」

口元に運ばれたいなり寿司を、一口食べる。出汁やゴマの香りと、梅の爽やかさが口の中にフワリと広がる。

「んー!美味しい!ゴマと梅の風味が効いてて、油あげに合うな」

その美味しさを噛みしめる。爽やかな風味は、食の細い俺でも食べやすいものだった。

「思った以上にたくさん出来たのじゃ。どれ、ワシも頂くとしようぞ」

壱も満足げな表情で、いなり寿司を頬張り始める。お稲荷さんって、本当にいなり寿司が好きなんだなぁと、実際に見る機会は少ないのだろう。

「これ、どんどんイケるな!」

また一つ、いなり寿司を手にとって頬張る。

「口に合って何よりじゃ」

壱もまた一つ、いなり寿司を手にとって頬張っていた。食卓が、こんなにも暖かなものだったなんて、壱が来るまで長い間、俺は忘れていた。


この関係が、暖かな食卓が、いつまでも続いたら良いと俺は願う。



【お稲荷さんといなり寿司/おしまい】




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