応援コメント

第48話 リアリティについて」への応援コメント

  • リアリティを抑える、ねえ…。それはリアリティを出そうとして描写とかが長くなったら、読者が読みづらく感じるかもしれないからでしょうか……。確かに「ヴァイオリンを見たことない人にいくらヴァイオリンの弾き方を説明してもつたわらない」とかいいますもんね。

    私は、長いと読んでもらえないんじゃないかと思って、心理も情景も描写が一切ない会話だけの話(しかも誰がしゃべってるという記述も「」もない)を書いたことがありますが、表現できる幅がめちゃくちゃ少なくてやめようかと思っています。

    作者からの返信

    母猫さんもいろいろ試行錯誤して、小説を書いていらっしゃるんですね。

    当時、わたしが知人に言われたリアリティを抑えるというのは、記憶にある限りでは、描写だったと思います。
    フォーカスを合わせることをせずに、カメラの画角に写ったものは全て書き込んでいたので、冗長になるもしくはしつこくなる、もしくはなにを主張してフォーカスしたいのか伝わらない、といった弊害が出てしまうからなんでしょう。

    ヴァイオリンを弾かなくても、なんだかヴァイオリンを弾くことは楽しいことなんだということなら伝えられる、という表現力は必要ですが、ヴァイオリンの何弦を押さえてどんな強さで弾いて、いまはラの音を出しているといった表現やリアリティは必要ないというものなのではないかと理解してます。

    セリフの「」なしで描写もなにもなしで描くのは完全に一人称もしくは三人称1人だけの独白でなら読者もついてこれると思います。実際にわたしも同じことをしましたし、書いたことがあります。

    読んでもらうための工夫は、削りに削った文章を書くというものではないと思ってます。

    それならシナリオを書いた方がいいと思ってしまいます。
    実際にト書を膨らませて小説を書いている方を知ってますし、だからと言って描写が損なわれ、リアリティがなくなるということもないです。

    荒唐無稽な話だからリアリティは無理という場合でも、人間の心理描写、ちょっとした動きだけでこのキャラは生きている、この場所は存在していると思わせることができます。

    書きすぎる、ということでリアリティを抑えると言われたのだろうなとやっぱり思います。

    編集済
  • リアリティーってわたしは経験に則していることだとおもうのです。

    もし、リアリティーからはずれるのであれば、経験の中から踏み出すことではないのかとも、おもいます。

    それは、書くことのなかに生じる綻びなのかもしれないとおもいます。

    作者からの返信

    そうですねー。わたしもわからないときは体感しに行きますから。
    それで得ることは本やネット上や人に聞く話よりも現実味を帯びているし、体で感じることができて記憶から色あせません。

    まったくの想像上のことも存在するので、それをいかに人の心に叩き込むかは、表現力という個人の想像力かもしれないです。

    どっちにしろ、カタログの中の説明書がリアリティではないと思ってます。

    歴史上の人物をどういうふうに動かしてイキイキとした生命を吹き込み活かしていくかは、実際に土地に行くことや史実を詳細に調べた上で想像することでもあると思います。これに関しては、史実からどういうふうな人物だったか想像するというまた違うリアリティなんでしょうね。

    リアリティという単語のなかにいろいろな意味が含まれていて、いまだに「リアリティ」とだけ言われてもわからないなぁと思うのです。