ロス・オブ・メモリー
佐々木さざめき
第一章
第1話
■■■■■ 第一章 ■■■■■
「記憶喪失」
イントネーションは下降調だった。
夏がそろそろ終わる。それでも陽射しは強かった。
とても緑の多い学校だった。
昨日の説明では、ここは学園都市であるらしい。教室の窓から見える風景は信じられないほど美しかった。
朝の明るい光にあらゆるものが反射している。
学校は緩やかな丘の上に建ち、遠くまで見渡せた。見事なまでに真っ青な空がグラデーションを作り、丸みを帯びた境界線で折り返していた。
水平線だった。
強い陽射しにクロスした幾多の反射光が海面いっぱいを覆っていた。ずっと見ていたら目がおかしくなる。
世界はこんなにも美しいものだったか、今まで見てきた風景を思い出そうとしたが、徒労に終わった。
「まるでマンガみてぇな話だな」
声につられて視線を教室に戻した。
「ホントに何も憶えてねーの?」
チャラっと音がした。目の前に座る色黒の男の胸元から聞こえてきた。
金のチェーンが開いたシャツの下に見える。腕にも金のチェーン。片耳にも金のピアスが光っていた。
「俺のことくらい憶えてんだろ?」
チェーン男の言葉に、僕は首を横に振った。
目の前の細身だが、がっちりとした身体つきのクラスメイトも、僕を取り囲んでいる十人近いクラスメイトも、誰一人として思い出せない。それどころか教室も学校も自宅も自分の顔さえも憶えていなかった。
「マジで?」
色黒金チェーン男がさっきから僕に話しかけてきていた。他のクラスメイトも何か言っているようだったが、勉強机を挟んで真正面の装飾男の声ばかりが耳に残る。
「うん……マジで」
とりあえず、その質問に同じ言葉を返した。
「うはぁ!」
チェーン男が大袈裟に天を仰いだ。周りのクラスメイト達も同様にため息を漏らした。
「ねえ
別の声がした。僕から見てチェーン男の左に立っている。チェーン男はイスの背に両腕を置いてだらんと座っている。
僕は財布から学生証を取り出した。僕の顔写真と生年月日、学校名、生徒番号。それに氏名が載っていた。
「加納 零」
僕は口にした。数日前に初めて聞いた名前だった。未だに自分のものだという認識がない。「憶えていなかった」と続けると、またため息に包まれた。
「零くん、僕のことも憶えてないのかな? 思い出せない?」
もう一度、僕は顔を上げ、チェーン男の隣に立つ人物を見上げた。
印象的だったのはその大きな瞳だった。昨夜病院の屋上で眺めていた星空。
漆黒のはずなのに、じっと見ていたら徐々に小さな星が浮かび上がってくる。そんな夜の色を瞳に沈めていた。きっとこのまま見続けていれば僕は星空に紛れ込んでいただろう。
「ぅを~い。零~」
チェーン男が半目で僕を見ていた。僕は慌てて言った。
「ご、ごめんね、憶えてないんだ。親の名前も思い出せなかったくらいだから……」
僕を囲むクラスメイトを見渡す。
「誰も思い出せないみたい」
と続ける。三度目のため息。
「マジで俺のこと憶えてねぇの? んじゃ自己紹介するしかねぇじゃん。俺は……」
色黒チェーン男の言葉がそこで止まった。顔を見ると視線を横に逸らされた。
「なんかこう、改まっておまえに自己紹介って……凄え照れるんですけど」
口を尖らせて横向きのまま、視線だけを僕に向けた。
「俺は清水
チェーン男は頭を抱えて、もんどりを打っていた。後ろの机に後頭部をぶつけないか心配だ。
「清水さん」
取りあえず呼んでみた。
「雷弩!」
彼が指を指して言い放った。
「お前は俺のことを雷弩って呼んでた!」
僕を見る目が真剣だった。少し怒っているようにも見えた。
「雷弩く……」
君と続けようとして、雷弩の顔が険しくなったので、僕は最後の「ん」を無理矢理飲み込んだ。雷弩がニカリと笑った。
僕と、雷弩は友達だったのだろうか?
もう一度顔を見る。
端正で、少し彫りが深い。色黒の肌に、金と茶の混じった短い髪。大袈裟に変わる表情の、そのどれもが僕と正反対のような気がしてならない。もしかして、だからこそ友達だったのかもしれない。
「じゃあ次は僕だね。僕は坪内
雷弩の横に立つ、坪内亞璃栖が言った。
瞳の次に意識がしてしまったのは、その黒くて長い髪だった。瞳と同じ漆黒で、やはり瞳と同じく濡れているように艶やかに朝の光をきらめかせていた。
その長い黒髪を思い切って頭の後ろで束ね、腰まで伸びる長いしっぽになっていた。髪にコシがあるのか、途中でばらけることなく、Sの字を描いていた。
僕は彼女のことをなんと呼べばいいのかひどく悩んだ。一秒間に何十種類もの呼び方を考えたが、結局1つしか口に出せそうなものは無かった。
「坪内さん」そう僕が言おうとした瞬間、雷弩が先に口を開いた。
「そうそう。零は確かにそう呼んでた」
「嘘はいけないよ、雷弩くん」
亞璃栖が片目をつむって、人差し指を天に指した。
「零くんは僕のことを亞璃栖って親しみを込めて呼んでくれていたじゃないか」
「え?」
坪内亞璃栖の言葉に、僕の心臓は跳ね上がった。
僕はクラスメイトを全員名前で呼び捨てにするタイプの人間だったのだろうか?
それとも、彼女にだけ特別な呼び方をしていたのだろうか?
もしそうだとしたら、僕と彼女は、なにか特別な間柄だったというのだろうか?
それって、もしかして……。
「嘘はいけないな。亞璃栖くん」
雷弩が片目で中指を天に突き立てていた。
指が違うよ、雷弩……。
「零は亞璃栖のこと、亞璃栖さんって呼んでたぜ? でもまあ本人が亞璃栖って呼び捨てにされたがってるみたいだから、そう呼んでやれば? 亞璃栖~ぅ」
雷弩のおどけた口調に僕は慌てて首を横に振った。教室に笑いが起きる。僕はすっかり肩の力が抜けていた。もしかしたら緊張をほぐすためにわざとやってくれたのかもしれない。
周りのクラスメイトが次々と自己紹介をしてくれた。クラス全員ではなかったけれどとても嬉しかった。
僕はクラスメイトを、雷弩以外の人には「さん・くん」付けで呼んでいたらしい。
亞璃栖だけ特別な呼び方じゃなくてほっとしている自分と、どこか残念な自分がいることにはその時気付いていなかった。
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