黒い空間1
……三回、何かに当たったのは覚えてる。
けどそれ以上は覚えてない。
ただ落下した結果からあたしの意識は続いてる。
体、痛い。
服、冷たい。
顔に感触、柔らかく、そして動いてる。
意識、覚醒、目を開けると、なんかいた。
本能、発作、咄嗟に暴れて引きはがすと、大きな虫だった。
巨大、というほどじゃなくて、だけども普通よりかは断然大きくて、具体的にはあたしの頭より少し小さい程度、こうして両手で持てるぐらいの重さで、丸っこいからだから一対の鎌足みたいな前足と、細い二対の足を持ってた。
外見は明らかに虫、どこかで見たことある感じ、だけどどこで見て、なんて名前だったか思い出せない。
そんな虫は、綺麗な透き通った体をしていた。黄金色に若干の紫がマーブルかかった、不思議な色合い、一番近いのは『琥珀』かしら?
引きはがされてなお暴れる琥珀の虫を放り投げ、それでようやく現状を把握してないことを把握した。
ここどこ?
仰向けだった体を起こして咳き込みながら周りを見る。
足元、すぐ近くに光源、あの虫が入ってるビン、蓋の帽子はどこかにいっちゃってるけど、割れずに転がっていた。
這って行くと手に粉、黒っぽいの、堆積してる。なんだかわからないけどこれが咳の原因ね。
指についた粉をマントで拭い落としてから灯りのビンを拾い上げる。
中には狩りの虫が二匹、怪我も共食いもなさそうで、変わらず安定して光ってた。それを掲げて辺りを見回す。
果ては、壁は遠すぎて光が届かず、見えない。
床は真っ黒、だけど光を反射してる感じは黒曜石、だけど爪で叩いか感じは軽く、中がスカスカな感じがした。更に力を込めたらあっけなく砕けた。きっとこれが粉の元ね。
更に同じような材質の岩や石がいくつか、持って触って砕いた感触は、サクサクのクッキー、心地よい歯ごたえで口の中でホロリとトロける。色合いからきっとお高いチョコレート、ほろ苦く、だけど甘い口当たりに合うのは、紅茶よりもミルクかしら?
無駄な想像、手の石と共に捨て去って続きを見回す。
黒い床と岩の上には他にもまばらに瓦礫が、白い石に折れた木目、若干だけどでろでも見られて、ここに直接落ちてきたのは間違いないでしょう。
それらが落ちてきたであろう上、天井はどこまでも高く、あたしがどれだけ落ちたのか、ビンの灯りだけでは見渡せなかった。
ただ、若干見える梁のような横棒、縦棒、多分世界樹の木の一部、根か何か、そこに当たって跳ねて、勢いが分散されて、あたしは生きてるんでしょうね。
そう思って、ふぅと息を吸い込んで、嗅ぎ取った。
嗅ぎ馴れてない、だけど間違えようのない、鉄の、血の匂いがした。
それで初めて全身冷たく濡れてるのに気が付く。
落下、でろでろ、思い、慌てて灯りを当てると、服が湿気ってた。
払って固まるのは黒い粉、無視するため服をめくってお腹を、だけどそこには血じゃなくて、臭いもべたつきもない。そしてお尻の下に水筒、空っぽで破けてた。踏んづけて破けて漏れ出たのね。
一安心。だけど、だったら血の臭いはどこから?
安心から打って変っての漠然とした恐怖、立ち上がり、周囲を見回す。
黒い岩とその岩が作る影、死角が多すぎてないが何だかわからない。落ちる前はそんなに離れてなかったから、近くにいるはず。いえ、どれだけ落ちたかわからないからそれも定かじゃないわ。
考える。けど答えなんか出ない。
と、足を引っ掻かれる。
見ればあの琥珀の虫、前足二本で足元まとわりついて気持ち悪い。
邪魔よと蹴飛ばしてやっと剥がれたと思ったらカサコソ思ったより早い動きで闇の中へ消えていった。
それからすぐに、カチカチカチカチ、鳴り響く。
あまりの五月蠅さに週できない。苛立ちから、琥珀の虫を探して照らすと、そいつが突いてたのは、見覚えのある懐中時計だった。
「触んないで!」
慌てて走って追い払い、拾い上げる。
……壊れてない。ちゃんと見てないけど、エレナのだ。
あのでかい胸の谷間に垂らして、いつも身に着けてた。
だったら近くにいるはず、必死に見回して……いた。
すぐ近く、岩の影、足だけ見えてる。
「エレナ!」
叫び、走る。
そんなはずない。そんなはずない。そんなはずない。
焦り、思い、駆けて、見れば、やっぱりエレナだった。
相変わらずでかい胸、寝てれば美人の典型例、大きく又開いて、サーベルなんかあっち行っちゃって、酷い格好、それに頭からは、血なんか流してる。広がる鮮血で、マント染まっちゃって、洗っても落ちないわね。
……現実逃避、考えが止まる。
それを動かしたのは痛み、足を引っ掻かれた。
見ればまたあの虫、煩わしい。けど構ってる暇はない。こいつよりも今はエレナ、考えろ、そして動け、動け!
使えない頭を意志の力で無理やり動かし、どうするべきか、何をすべきか、考える。思い出す。
頭を打った時は下手に動かさない方が良い。動かしてないわ。
出血したときは綺麗な布で押さえて止める。布はあったかしら?
呼吸が止まってる時は人工呼吸、心肺蘇生、ダメなら、死ぬ?
思考。思考。思考。
ともかく一歩前へ、それからもう一歩、後は崩れるように、エレナの元へ。
灯りのビンを置いて手を、先ずは肩に触れる。
冷たい。死んでるみたい。そんなわけない。
次、呼吸、心拍、胸の鼓動、触るなら、胸?
どうせ女同士、それに緊急事態、躊躇はいらない。
一呼吸、覚悟、よし、手を伸ばす、その時また、今度はマントが後ろに引っ張られる。
振り返ればまた琥珀の虫、何を狂ったのかマントの端にへばりついて登ろうとしてる。さっきからこいつ何なのよ!
ガンカラン。
振り払う寸前、また別な、大きな音、響く。
「おい隠れてないで出てこいや糞が!」
闇の中、響くのは、ガッツの声だった。
元気そう、そして怒ってる。聞きたくない声、今は出会いたくない。隠れていたい。
ぎゅっと目をつぶる。
「おらぁ! 生きてんのはわかってんだぜ! 光動いたの見えてたんだぜこの野郎! 仕事増やしてんじゃねぇ!」
失策、灯り、ビンの虫、見られてた。当然、この暗闇じゃあ目立つ。
今隠してももう遅い。この位置、しらみつぶしに調べられたら、ここにも来る。
そしたら、動かせないエレナも見つかる。
そしたら誰も助からない。
思考。思考。思考。思案。思案。思案。計算。計算。計算。
導き出された答えは、一つだけだった。
一呼吸整えてから、ビンを抱えて、一気に駆けだした。
途端に引っ張られる間隔、振り返れば剥がれてなかった琥珀の虫、マントの端に張り付いたまま、重くはないけれど軽くもなく、そのくせ掴む力はやたら強くて、引きはがす努力より無視する努力の方が早そうね。
諦め走る。先は暗い闇、安定しない足場、床があるかもわかんない中、黒い粉を巻き上げながら、全力で走る。
「おらぁいたぁぜ!」
怒声、響いてどっちからかわかんない。だけど距離は遠いはず。
このまま遠くに引き離して、ビン置いて、隠れる。それしかない。
思考、思案、計算、導き出したあたしたちが生き延びる最善手、そのために走る。
小さな石、踏み砕き、大きな岩、飛び越えて、黒い粉、駆け千切り、走った先に照らされた目の前、ちょうどいい岩、あそこの影、隠れたら逃げられる。
思った刹那に衝撃、わずかな風切り音、背後から、振り返る前に当たり、あたしは前へ、派手に突き飛ばされた。
暗闇に黒い床、反射で右手突き出して体反転、派手に転ばされる。
激痛、肩から背中に転がって痛み、だけどビンは抱えてて、割れずに済んだわ。
それで起き上がりながら振り返って、何が背中にあったのか見て、息を飲む。
……マミーの頭だった。
正確には両腕と胴体から切り離された肩と首が残ってる頭部、切断面はでろでろよりもハチミツ臭い。そしてその顔、半開きな口に無表情な目には色はなく、ただ闇だけが開いていた。
本当に、死んでいるようだった。
「なんなんだよどいつもこいつも使えねぇ。残ってんの俺だけじゃあねぇか。これが俺の最後の仕事だってのによぉ」
悪態吐ききながら闇の中、するりと現れたのはガッツ、見た目に怪我はなく、右手は枯れ枝のまま、だけど左手にはマミーの鉈、ダイヤモンドの塊が握られていた。
それで肩を叩きながら、ガッツはあたしの前に立つ。
「イネブラ、アリス、ボトリティス、あのボケ共、どうしてもっつーから連れてきたのに全滅しやがって、だから結婚できねぇんだぜ」
悪態、吐き捨て、それから鉈を高々と振り上げる。
その先には、あたしがいた。
「じゃ、死ね」
「待ってください!」
即答、命乞い、みっともないな、とは口走った後に思った。
「なんだ? この期に及んで死にたくないとか、泣き叫ぶか? いいぜ聞いてやるよ?」
残酷に笑うガッツ、その顔に、その表情に、見覚えがある。
学校で、クラスで、あたしを笑いものにしてたあいつらと一緒だった。
なら、慈悲はないでしょうね。
でも、打算はあるでしょうね。
「あたしは、役に立ちます」
交渉、ここは可愛らしさよりも素直さを前面に、演じながら言葉を探す。
「あたしは、役に立ちます。見たところ荷物もないようですし、ゾンビもいないみたいで、だけどあたしにはまだ物資が残ってます。ですから帰り道もある程度わかってます。それに魔法だって……」
言い終わる前に、ガッツが震え出す。
「帰り道?」
不意に見せたその顔は、侮辱の混じった嘲笑、そして続くのは大爆笑だった。
いかれた、馬鹿にした笑い、涙を流して唾飛ばして、一通り、あたしを笑う。
「おま、お、俺はこれが最後の仕事って言ったろ? それにもう一人のデカ胸は俺を死んだはずといってた。ありゃあ半分は当たってんだよ」
呼吸を整えながら言うとガッツ、笑いが落ち着き、代わりにダイヤモンドの鉈を床に落として突き立てて、そして開いた左手を、そのぴっちりしたスーツの胸元に差し入れた。
馴れた手つき、何で止まってたかは知らないけれど、しゅるりと左右に広げて肩まではだけさせると、その旨がさらけ出された。
その半裸にあたしは息を飲む。
小ぶりな胸、浮き出た肋骨、若干の切り傷、だけどそれ以上に目を引くのは、白い肌に根を張るように刻まれた黒い文様だった。
絶対に健康的じゃないそれが、右腕から全身に伸びているようだった。
「上でデカ胸がマミーに伝えそこなったことがこれだ。いわゆる『毒手』ってやつさ」
そう言って、枯れ枝のような右手をかざして見せる。
「この手を毒砂に浸して鍛え、手そのものを猛毒に変える。もちろんそれだけじゃあ俺もおっちんじまうから、解毒薬も同時に服用すんだが、この毒は特別製でよ。通常の神経毒に溶解毒まぜてんだが、見ての通り、やりすぎちまってよ」
左手で胸の谷間の文様をなぞると、ねとりと粘液を引いた。
「右手の毒が染み出て腕だけじゃなく体の方も犯してんだよ。慌てて解毒したが間に合わなくて、見ての通りもう手遅れ、保って後一週間、つまりはもうすぐ死ぬんだよ」
ゲラリと、笑いながらガッツは自分の死を語る。
「だから最後にでかい仕事をやりにきたんだ。伝説殺して伝説になろうってよ。そんな俺に、帰り道なんざ、いるか? あ?」
語る姿には破れかぶれとも、自暴自棄とも違う狂気があった。
交渉は、無理ね。
「つまり、お前が差し出せるものは何もない」
ガッツ、冷たく言い放ちながら、刺さった鉈を引き抜く。
「それに、俺は殺し屋だぜ? だったら目撃者を生かしておくわけねぇだろ? それに依頼の内容は抹消だからな。記憶にも残せねぇんだよ」
言い放ち、前に立って、改めてダイヤモンドの鉈を高々と振り上げた。
あたしの頭上に絶望が輝いている。
「まぁあ安心していいぜ。すぐにあのデカ胸も、見つけて、殺して、お前の横に並べてやる。嬉しいだろ?」
その、一言に、あたしの中の何かが弾けた。だけどその時にはもう、鉈が振り下ろされていた。
当たれば即死、最低でも戦闘不能、そうなったら、エレナも殺される。
意識、爆発、同時にあたしの左手が腰のあたりを漁って掴み、高く掲げて、鉈の前に出す。
……ナイフのつもりだったそれは、エレナの懐中時計だった
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