第154話「大人たちの旅」

 飛騨の冬は白い。

 灰色の空がますますコントラストをなくす。

 でも、この日の山間部は珍しく晴れて、白以外にも色があった。

 キラキラとした風景が広がっていた。

 そんな飛騨の凍結した道路を歩く三人。

「小山君、情けない」

 橘桃子タチバナモモコは小山にそんなことをいった。

 いつもの切れ味のいい筋肉をむき出しにした服装ではなく、モコモコした着ぐるみのような格好をしている小山。

 桃子はそんな彼に冷たい視線を送っていた。

 小山はそんな彼女の視線を気にすることもない。

 分厚い手袋を着つけているにも関わらず、両腕を交差し脇の下に手を挟んだ格好で盛大に『寒くて凍えそうだ』とアピールをしていた。

 それくらい寒いらしい。

 ぷっくりしたダウンジャケットの首元に口元を突っ込んで、暖かい息を逃さないようにしている。

 少しでも体温を減らしたくないようだ。

「寒いものは寒い」

 首元から白くなった息が漏れる。

 桃子は薄手の皮の手袋とコートを着てはいるが、前の方は開放している。

 あまり寒くないようだ。

「普段、学生に我慢しろ我慢しろって言ってるのに?」

 ブルブルッと体を震わせると同時に、小山は首を振った。

「馬鹿は相手にしない方がいい」

 軍服の上に黒い外套を羽織った佐古。

 腰には短い軍刀を下げている。

 桃子はそんな佐古を改めて見てため息をついた。

「プライベートなのに」

 彼女がそう言って吐いた息も白い。

 佐古の運転するオフロード用の軽自動車に乗った三人。

 急に佐古が誘った旅。

 金沢から富山を抜け、神岡を通り、そして飛騨に来ていた。

 ちょうど、二十年前に、彼らが通った道。

 彼だけが行った道。

「今日は、挨拶だから」

 佐古はそう言うと、真新しい病院と、その奥にある山々を見上げた。

 こんな格好じゃないと、耐え切れない。

 そんな思いがあるのかもしれない。

 三人は既に、ひとつの挨拶を終えていた。

 神岡での挨拶。

 二十年前、自分達の中隊長が死んだあの場所。

 神岡の東にある鉱山の一角。

 石碑も何もない場所にぽつんと置かれた目印。

 入口に鍵のかかった金網の扉が設置され、中に入ることはできない坑道。

 手のひらサイズの丸い石がその脇に置かれ、古ぼけた花立が転がっていた。

 日之出大尉。

 あの時、あの場所に居たという。最後を看取った中隊先任上級曹長の中川曹長から聞いていた。

 中隊長の最後の言葉。

 出血多量で、じわじわと死んでいく中、最後まで斬り込みをしようとしていたという。

 結局最後は諦めて、当時松本市の方から逃げ伸びてきた若い少尉だった、今の大隊長に自決を手伝ってもらったらしい。

 あの戦いが始まって数日後の出来事。

 松本正面から攻勢に出た敵を奥飛騨で阻止しようとして、金沢から富山、そして奥飛騨に向かう途中だった。

 現役組の後方支援をするため、彼ら学生は神岡に集結していた。

 させられていた。

 だが、状況は一変。

 後方地域が前方地域に変わった時。

 数ヵ月は持久できると思っていた新潟と富山の境が一瞬にして突破され、富山方面から挟み撃ちにされるような形になってしまった。

 逃げ道は飛騨方向。

 彼らの盾になって、飛騨に逃がした中隊長。

 ――日之出大尉は少年たちを戦場に駆り出しました。

 ――しかし、逃げだした少年兵たちを放ったまま、別行動を取り、そして自害しました。

 『少年兵たちの悲劇』なんて題名のドキュメンタリー番組。

 葬式の司会のようなしゃべり方をする女性アナウンサーの声。

 ――少年たちの長く、辛い戦いが始まったのです。

 そんなことを言っていた。

「あの時」

 桃子はそう言って黙る。

 彼女もまた、少年学校の学生だった。

 奇襲を受けたあの日。

 東の共和国が一気に国境線を抜けてきた時。

 彼女は連れて行ってくれと涙ながらに訴えたが、女子は全員福井に下げられていた。

「わたしも、ここに居たかった」

 少し目を伏せ、日光に照らされ、雪面が乱反射をおこす山を見上げた。

「俺は勘弁だな……寒くて死ぬ」

 小山が笑う。

「……根性なし」

「桃子さんみたいに脂肪があれば、生き残れるかもしれんが、俺みたいに余計なものが……ぐほ」

 桃子の肘が小山のみぞおちを直撃する。

「筋肉キモイ」

 ゾッとするような冷たい声だ。

「夏専用だ」

 小山はそう答えた。

「筋肉は冬を想定していない、脂肪は最高の暖房だが、俺の趣味ではない」

 めちゃくちゃなことを言っている。

 桃子は侮辱と受け取り、軽く小山の尻にまわし蹴りを入れた。

 痛いと跳ねる小山。

 そんな彼も飛騨ココに、来ることはなかった。

 三人は同級生。

 あの時、桃子は二人と金沢で別れた。そして、小山は神岡で佐古と別れていた。

「よかったな、あの時お前がああならなければ、筋肉はこの山で埋まってるよ」

 ははっと佐古が笑った。

 小山も笑いながら脇腹をさする。

 もう、そんなに目立たなくなった傷口が疼いていた。

 彼は神岡まで来たが、初戦の敵の砲迫射撃の影響で怪我をして、いち早く後送されていた。

 まだ、神岡、富山そして金沢への後方連絡線が生きていた時に。

「お前、あんなところに居たのか」

 白い山を見上げる小山。

 佐古は頷いた。

「横穴掘って、なんとか、な」

 そう言って歩き出す。

「もう、こんなに新しくなったけど、あそこにあった病院で、宮島中尉が死んだ。 病院に敵を引き付けている間に、俺たちは山に逃げることができたんだ」

 目を細めて佐古はそう言った。

「宮島中尉って、すっごくお茶目で面白かったから、女子の人気高かったんだよね」

 桃子がボソり、そう言った。

「ほら、あの頃ってそういうもんじゃない、教官とかカッコいいとこしか見えなかったし」

 彼女はどことなく、少女のような声と語り口調になっていた。

「ああ、そう言えばエロ話もできる、いい兄貴というか、そういう感じだったな」

 小山は相変わらず首をすくめて体温を逃がさないようにしながらしゃべっている。

「俺はね、山からじっと見てたんだ」

 佐古が新しいとは言っても、すでに十数年経っている病院。

 壁にできている数か所の日々を下からなぞるようにして見ていた。

「突入した共和国軍の兵士が次々と、玄関から運ばれていた……もちろん担架に乗せられていて」

 病室の窓。

 二重窓がぴしゃり閉められている窓は、反射した光で青空を映している。

「窓から放り投げられたものが何回かあった……きっとあのうちのひとつが宮島中尉だったんだろうって、思った」

「佐古くん……」

 桃子がスッと伸ばした手が佐古の右肩に置かれている。

「……無理、しないで」

 彼女は心配そうな顔を佐古に向けてそう言った。

 小刻みに震える佐古。

 寒さのせいではない。

「いや、いいんだ」

 佐古の代わりに、小山がそう言った。

 彼は桃子の手に触れ、佐古の肩からそれを外した。

「それから、二十年前の今日まで、あの山に籠っていた」

「……何人、いたの?」

 同級生の三人。

 あれから、あの時のことを話す機会はあった。

 もちろん、話したこともある。

 だが、佐古は飛騨での出来事だけは一切触れることはなかった。

 ここのことだけは、触れてはいけないことだと思っていたから、誰も話題を避けていた。

 そして、今日。

 ここにやってきた。

 だから、桃子は聞いた。

 佐古が小山に誘われたから飛騨に行こうと誘った時はびっくりした。

 彼女もあのドキュメンタリー番組を見ていたので、なんとなく理由はわかっていたが。

「最初は二十三人生き残っていた」

 神岡から、宮島中尉に率いられ逃げていった学生達。

 道路という道路は敵に抑えられていた。

 もちろん、山の獣道さえも敵がいる可能性がある。そのため、ひたすら獣道さえも通らず、藪を抜けて飛騨市に向かっていった。

 途中、敵の射撃を受け倒れた多くの学生達。

 倒れた仲のいい同期を捨てきれず、残るといった学生。

 結局生き残ったのは、生きて飛騨市に入ったのは宮島中尉と佐古、そして他の八人。

「飛騨市に行ってから、他のみんなは終わるまでに死んでいった……福山、佐伯、安井、牛木、小田、古庄、増田、森本」

 佐古が吐く息が白い。

 ――少年兵を使い、食料の調達、穴を掘らせ、そして多くの共和国軍兵士を殺傷させました。

 飛騨市の病院を前にしてそう説明するテレビの中のレポーター。

「宮島中尉は……兄貴みたいに俺たちを、山の中でも生活できるように、穴を掘って、自分は下に降りて敵から食料を奪ったりして……」

「なあ、佐古……みんなどうだったんだ」

 佐古が小山の声を聞いて振り向いた。

 目に涙は流れていない。

「牛木はいいやつだった」

 頷く小山。

「安井もいいやつだった、福山、小田、古庄もいいやつだった、佐伯も、増田も、森本もいいやつだった」

「……」

 鋭い風が吹く。

 小山は首を益々竦め、そして桃子はコートのボタンを慌てて閉めた。

「いいやつだった、みんないいやつだった……いいやつで……」

「佐古……くん……」

 ぼたぼたと涙を流す佐古。

 小山はジッとそんな佐古を見たまま奥歯を噛みしめる。

「なあ、どうしてなんだろう……なんで忘れてしまうんだろう……ほんと、思い出すときはしっかり覚えているのに、唐突に思い出して、今そこで起こっているように感じるぐらいに思い出すのに、今はもやもやっとして、いいやつだった……しか思い出せないんだ、なあ、秋口に食料取りにいって撃ち殺されたのは増田と……いや、古庄だったかな……なあ、おかしいと思わないか? どうして俺はこんなに……」

「佐古くん」

 桃子はそう言って佐古の右腕を、小山は無言のまま左腕を優しく抱きしめる様にして二人で寄り添う。

 桃子も、小山もそうすることしかできなかった。

 噛みしめる様な嗚咽。

 ギリギリと苦し気なその声も。

 真っ白な地面に積もった雪に、響くことなくあっけなく吸い込まれていった。

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