第10章 睦月「冬」

第144話「あけましておめでとうございます」

「野中はドンパチが始まると思うか?」

 急な質問だった。

 野中はいったん顔を上げたが、すぐに視線を落としダルマストーブの上に手をかざしていた。

 彼は濡れてしまった厚手の手袋をストーブを囲んでいる柵に置く。

「無視するなよ」

「……いや、急な質問でしたから、ちょっと考えていました」

 分厚い外套に雪を乗せたままの野中はそう言って顔を上げる。

「現場の、それも少佐ごときに、そんなでかい話はわかりません」

「敬語はやめろって」

 横尾中佐はため息をついた。

 そんな彼は野中の直属の上司にあたる大隊長である。

 年が変わる直前にはるばるモスクワまで派遣された遠征旅団。

 その旅団の主力とも言える三つの歩兵大隊、そのひとつを率いている指揮官だ。

 その横尾中佐の大隊に所属する軽歩中隊の中隊長をしている野中。

 ストーブを挟んで話をしているふたりは、統合士官学校の同期であった。

 モスクワの冬。

 二重窓の向こう側に見える景色はない。

 ただ真っ白な世界。

 外はひどい吹雪である。

「大隊長にタメ口なんて聞けないだろう」

「……それでいい」

 横尾はコーヒーメーカーからプラスチックのカップに茶色の液体を注ぐ。

「飲みすぎじゃないか」

 野中がそう言うと横尾が笑った。

「いや、お前にだ」

 ぐいっと彼はコーヒーカップを差し出した。

「まずそうだな」

 沈殿物が底に沈んでそうな液体を上から覗くようにして、野中はそんなことを言っている。

「おいおい、大隊長が入れてやったものを」

「……タメ口って言ったり、上司ヅラしたり」

「はは」

 野中はその液体を口にする。そして、少し顔をしかめた。

 半日近く煮沸してしまったそのコーヒーは煮立っていて、妙に喉にひっかかる味だった。

「伝令に新しいのを作らせたらどうだ」

「それぐらい濃い方がうまいんだ」

 横尾は自分の飲みかけのカップを取り出すと、上から黒い液体を流し込んだ。そして、口に含むと美味いと言わんばかりにうなずく。

「だから、最近、匂うんだよ」

 野中がため息交じりにそう言った。

「やかましい、もう四〇だ、口臭だろうが体臭だろうが気にしてられるか」

 ふと、数年ぶりにあった自分の娘がそんなことを連呼していたことを思い出す。

 ――三和は元気にしているだろうか。

 野中はそう思いつつ自分のコートを匂ってみた。

 確かに、すえた匂いがする。

「ま、そりゃそうだな」

 彼はそううと窓の外を見た。だが相変わらず真っ白だったため、しばらくして視線を元に戻した。

「で、動いてるのか……ソヴィエトの奴らは」

「ああ、そういう情報は入ってきている、ロシア帝国からだが」

「我が社は」

 日本帝国。

「偵察衛星には映らない、吹雪を利用して動いて、そして晴れたら白いの被せて隠れる」

「そりゃ、わからん……つうか、こんな時によく動けるもんだな、あいつら」

「……それだけ本気なのかもしれないな」

「……」

 野中はため息をついた。

「中隊はどうだ?」

「訓練、訓練、訓練、整備、訓練、訓練」

「わかったわかった」

「やってもきりがない」

「少しは休ませろよ」

「ああ、それはやってる」

 野中のその言葉に横尾は頷いた。

 ――目が窪んだな。

 横尾の表情を見て、野中はそう感じる。

 ――こいつはこいつで、責任を背負っているんだろう。

 野中はなぜかそんなことを思った。

「……本当にイクサがあるんだろうか」

 野中はひとりごとのように言った。

「我が社は、そうは考えていない」

 横尾は笑った。

 本国の人間は、まだこの事態に対して楽観な感じを持っている。

 現場にいる彼だからこそ、そう感じているのかもしれない。

「脅しで出した部隊だといっても最悪の事態は考えている、だから後詰になっているだろう」

 ロシア帝国及び反コミンテルン連合軍。

 そんな長い名前の諸国連合軍の隷下部隊に日本帝国の遠征旅団は入っている。そして、政治的配慮も含め、彼らは後詰――予備――であった。

「ま、出番はないと思うが」

 横尾はそう言って、椅子に座った。

「そう願っているよ」

「でも、最悪の場合は」

「いつでも最悪を考えて準備をしている」

「そういう星の下に生まれているからな、俺らの期は」

 数少ない同期。

 彼ら以外の多くはあの二〇年前の戦争で死んだ。

「でも、一応生きているからな」

 野中が笑った。

 多くの同期の死を目の当たりにしていた彼と、多くの同期の死を離れた場所で聞いていた横尾。

「確かに」

 横尾がそう言うと、二人は顔を合わせてもう一度笑った。


 

 ■□■□■


「あけましておめでとうございます」

 年末年始の休暇明け。

 少年学校の教場はそんな言葉で賑わっていた。

 ほとんどの者が実家に戻り、正月を迎え、そしてまたこの学校に戻ってきていた。 

 そんな中、大きな紙袋を抱えた緑はサーシャや風子、他には幸子がいる席に近づいていた。

「緑ちゃん」

 それに気づいた幸子が手を振った。

「せっかく実家に帰ったから、いいもの持ってきちゃった」

 いいもの。

 嫌な予感がする三人の女子。

 緑の笑顔。

 サーシャの口の端がピクピクっと動いた。

 緑の瞳に異常な光を見てしまったからだ。

 思い出す、夏の沼津……緑の実家でのホームステイ。

「……あ、うん、そのどうだった実家は」

 サーシャが仰け反る勢いでびびっているので、風子は助け舟を出していた。

「お母さんとお父さんが、みんなによろしくって」

 こんな緑に対して、普通のお母さんとお父さんだったという記憶がある。

 いい人だった。

 それは三人とも共通している認識だ。

 そんな彼女たちの気持ちも知らず、緑はすっと別の紙袋から四角い箱を取り出した。

「この前、うちに来た時、美味しいって食べていたのを思い出したって、お母さんから三人に」

 はんぺんと書かれた箱が出た瞬間、風子が喜びの声を上げる。

「黒はんぺんっ!」

「はんぺん」

 彼女の反応に対し、緑が間髪を入れず口を挟んだ。

 広島のお好み焼き同様、郷土の食べ物に人はうるさい。

 当たり前の世界を壊されたくないという想いがあるのかもしれない。

「あとで部屋で食べよう」

 サーシャがそう宣言する。

 黒はんぺんは日本に来て彼女が美味しいと思った十位内に入っているのだ。

「幸子ちゃんとサーシャちゃんの分も」

 そう言って別の箱を緑は差し出す。

 もちろん大きな袋の方はまだ保持されていた。

「……まだ、あるんだけど、お土産は……でも、あとのお楽しみ」

 にっこり。

 緑の笑顔に対し、ビクンと反応する三人。

 怖がっていた。

 夏のトラウマ再びである。

 きっと、緑の年末年始はミシンに向かう日々だったのだろう。

 たぶん。

 そう三人は思った。

 そんな恐ろしい光景を思い浮かべるのを打ち消すように、サーシャが声を出した。

「風子も実家に帰ったよね、どうだった?」

 なんとか話を逸らしたい一心だったようだ。

「ん、うん……舞鶴は相変わらずここと同じで天気が悪いというか、ずっと雨か雪というか」

 相変わらずネガティブな反応をする風子。

 北陸も北近畿といった日本海側の冬は、曇り空と雪、雨、そして雷がセットでやってくる毎日。

「中学生の友達と会ったり」

「どうだった?」

 緑が目を光らせる。

 怪しい光ではない。

 その瞬間、遠くで聞き耳を立てる男子二人がいることは、言うまでもない。

「どうだったって」

 風子は警戒した。

 きっと、中学の時の男子とか、そういう話を期待しているのだろう。

 ――言えない! ……同窓会っぽい集まりで『姐さん』って男子も女子も寄ってきたなんて!

 不良ではないが、風子は前述したように中学ではいろいろと頼りにされていた、一匹狼的な地位を持っていた。

 もちろんそんな女子には悪ぶっている男子も女子も寄ってくる。

「まあ、普通にカラオケ言って、歌って楽しんで」

「成長した同級生と会って、変な雰囲気になったとかっ」

 期待した目を向ける緑。

 そう言えば、例の男子二人が少しだけ近づいているようにも見える。

 ――言えない! ……後輩の茶髪にした不良君に土下座して『お、俺を蹴ってくださいっ』て言われたなんて!

 中学時代は暗黒である。

 いじめられている後輩君を助けようと実力行使した時の相手だった。

 もう、そんなことはしないと決めていたのだが。

 なんか、つい、この間イケメンお兄さんに対してそんなことをしていたような覚えもあるが、風子は記憶を封印した。

 彼女達が知らなくてもいいことはあるんだから。

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