第114話「大人になりたい」

「本当にあの子はロシアに帰ろうと……」

 大隊長室で頭を抱える佐古。

 目の前には軍隊の一室には似合わないスーツ姿の女性。

 サーシャのボディーガードをしている母娘。

 その母親の方である瓜生絵里うりゅうえりが口を開く。

「けっきょく、父と兄の説得で帰路についたから戻ってきたけど」

「あの兄が説得」

「妹ラブなのよ、あのツンデレお兄さん」

 ――ロシア語だったらマヤー、リュビーマヤな兄かしら。

 そんなのことを絵里はつぶやく。

「反抗期の娘だもの、そりゃ親は心配するでしょう」

 ――まあ、うちの娘も素直になれないまま父親とまた離れてしまったけれど。

 あの子はうまくいかないものだなと、身内の娘のことを思った。

 咳ばらい。

 大隊長が椅子をギギっと鳴らす。

 彼は深々と大きな黒い革張りの椅子に座っていた。

「それで、学生は全員異状はないのか」

「確認できました、異状ありません」

 大隊長は頷く。そして、自分の顎に指先を付け撫でた。

「君が、扇動した、それでいいんだな」

 その低い声はどことなくダンディーである。

「はい、ですがこんなに遅くなるとは思いませんでした、煽りすぎたのと、しっかりと帰隊時間を示していなかった私の責任です」

「どうして? 責任どうこうではなくて、扇動した理由」

「同期愛の醸成じょうせいを」

「ゲイデン捜索で?」

「まさか本当にロシアに帰るとは思っていませんでした……偶然でしたが、横浜の兄に会うというのを利用して、そういう噂を」

「苦しいな」

「何がですか?」

「言い訳が」

「言い訳ではありません、すべて私が責任を」

「そういう意味ではなく……嘘のセンスがないな、佐古」

 大隊長の言葉に、ニヤッとしたのは絵里だ。

「佐古くんはここの学生の頃から下手でした」

 同級生の声。

「昔のことは関係ないだろ瓜生さん」

 一瞬だが、二人はあのころに戻っていた。

「……」

「どうであれ、一学年のほとんどが帰隊遅延になったことは、君の指導力不足であることは間違いない」

「……はい」

 ふと、佐古の頭に『更迭』という二文字が浮かぶ。

「副官」

 大尉の階級章を付けた若い男性が一歩前にでた。

 人事系統の大隊副官が「はい」と答える。

「職権乱用、それでいいな」

「は、はい」

「程度は」

 重大な場合、軽微な場合、極めて軽微な場合に分けられる。

「極めて軽微な場合、かと」

「四十人を扇動してか?」

「……軽微な場合……になる可能性もあります」

 ギギ。

 大隊長が立ち上がり、窓の方へ歩く。

「処分は」

「停職の軽処分から戒告まで幅があります」

「うん、面倒くさいな」

「……は、はあ」

 副官が汗をぬぐった。

 上位者である中隊長を目の前に、そのひとの処分の話をするのはひどくプレッシャーがかかるものである。

「面倒くさい」

 佐古は直立不動のままだが、訝し気な表情に変わった。

「面倒くさい」

 つい、復唱してしまう。

「面倒くさいのは嫌いだ」

「……お言葉ですが、そういう問題ではないのかと」

「ぼくは知らない、そうだ知らなかった……うん、そうすれば楽だな」

 くるっと背を向ける。

「……ですが、私が責任を取らなければ、他の中隊に示しが」

「どうせ嘘をつくならもっと大きな嘘をつけ」

「もっと、大きな……」

「そもそも、こんなことはなかったことにすればいい」

「……ですが、噂は」

「しれっと作戦」

「しれっと作戦」

 大隊長が変なことばかり言うものだから佐古は、ついつい復唱するのが癖になってきた。

「人のうわさなんてたいしたことがない、それに規則規則だ杓子定規に言うよりも、何かオトコギが溢れる都市伝説になったほうがいいじゃないか、集団不正外出事件とか」

「……ですが」

「それに、君も思ったよりも人望があるかどうかわからんが、さっきからあっちの裏が気になってしょうがないんだ」

 そう言って扉の方を指さす大隊長。

「君ひとりに責任を負わせたら、俺も私もと来る人間が増えてたまったもんじゃない」

 扉の向うでガタっと音がする。

 ――早く帰れ、子供のお前ら出る幕じゃない。

 声を潜めていても明らかに小山の声とわかる。

 図太過ぎるから小声が小声にならないのだ。

 ――子供、子供って関係ないじゃないですか。

「佐古、家に帰って寝ろ、もういい」

 大隊長からしてみれば、俺も学生と同じか……などと佐古は思ってしまう。

 あの戦争の時には少尉で戦場にいた人だ。

 松本の連隊が敗走して、自分達と同じ飛騨で戦ったとは聞いている。

「日曜日の夜だ、ぼくもはやく家に帰りたいんだ」

 けっきょく責任を取れなかった。

 佐古は思う。

 責任を取ったのは、と。

 それは自分の腹にすべてを飲み込み、閉まってしまった大隊長なのかもしれない。

「まだまだだな」

 そう言って佐古は軍刀の柄をギュッと握った。

 


「すみません」

 サーシャはそう言ってペコリと頭を下げる。

「ま、お姉さんも今日は大目に見て、あ、げ、る」

 そう言いながら鏡に向かって化粧水を顔に塗ったくっているのは風子の部屋の三年生、田中純子である。

「ユキもたまには一人部屋で寝たいって言ってたし」

 二年の長崎ユキとサーシャは部屋を入れ替わったため、寝間着姿のユキはいない。

 今頃、留学生専用一人部屋を満喫しているんじゃないだろうか。

 消灯。

 その合図であるラッパ吹奏が、室内スピーカーを通して流れた。

「おやすみー、たっぷり夜話しなさい」

 そう言ってシングルタイプのベットに潜り込む純子。

 同様に二人も二段ベットの上と下の毛布に包まれる。

「……風子」

 下にサーシャ、上に風子。

「なあに?」

「……はやく大人になりたい」

「……うん」

「何もできない」

「……うん」

 それからサーシャは、ポツリポツリと話を始めた。

 結局手続きもできずロシアに帰ることができなかったこと。

 自分の行動が兄にはお見通しだったこと。

 ボディーガードの女性に連れられて帰ったこと。

 みんなが探していることを知ってびっくりしたこと。

 うれしかったこと。

 そして、辛かったこと。

 父親から心配するなと言われたこと。

 その声が聞いたこともない優しい声だったこと。

 兄が明日出港するにも関わらず、自分を探しに来たこと。

 けっきょく、兄に迷惑をかけ、父親が忙しいのに電話をさせ、大人に迷惑ばかりかけてしまったことに対し、とても恥ずかしいということを話した。

「サーシャは子供のままじゃイヤ?」

「……大人になって、お父様の力になりたい」

 陸軍のお前が父の何を手伝えると思っているのか、と兄にバカにされたばかりだった。

「私はまだ、子供のままでいいと思う」

「どうして?」

「まだ、力がないから」

「ちから?」

「知恵も、経験も、それから意志も」

 風子は天井を見ながら話を続ける。

「この学校に来て、たった半年だけど、すっごく世界が見えてきたような気がするし、半年前の私からずっと成長した感じがする、だから、あと二年ちょっとするともっと大きくなれる気がする」

「だから大人にはやくなれば、それも手に入る」

「時間が必要なんじゃないかな」

「時間?」

「大人になるのにかかる時間」

「……わたしは、今すぐに、でも」

「私は自信ないな」

 風子は布団の中の体を横にする。

「弱いから」

「弱い……」

「今、大人扱いされても、きっと、ちゃんとできないと思う」

「ちゃんと、できない」

「うん」

「そうかな」

 サーシャは自分の無力さをこの二日間で思い知っていた。

 認めたくない弱さ。

 今、ロシアに戻ることさえない自分の力。

 そして、父親のあの声を聞いた瞬間、国に戻ることが萎えてしまった自分に。

「……それでも」

 ギシ。

 そう言って寝返りをうつサーシャ。

「わたしは、はやく、大人に……」

 なりたい。

 それは言葉にならず、嗚咽に変わっていた。

 小さな声。

 鼻をすする音の方が大きな、そんな泣き声が、響いた。

 カーテンの隙間から覗く青白い月の光。

 いつのまにか、雨は上がり、空の雲は消えていた。

 静かな夜。

 そして、静かな涙がこぼれていた。 

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