第32話「ネズミ谷の悲劇」
「荷物降ろして休憩、十分後出発」
無駄な言葉を一切吐くことなく伊原は指示をした後、座っているサーシャを見下ろして話かけた。
「ゲイデン」
「はい」
「線が浮いていない、
「はい」
「次は、中村が一番手だ、サーシャを見習って線を浮かすな」
「はい」
と風子が返事をする。
先ほどまでは一番手はサーシャ、そして二番手が緑、三番手が風子――ドラムを運ぶ役――であった。
「ゲイデンは二番手、三島が三番手」
「はい」
休憩。
水筒の水を口につけた後、緑が遠慮がちにサーシャに話しかけた。
「サーシャちゃん、いつも一生懸命だよね」
「別に、やるべきことをやっているだけ」
「すごいなーと思って」
緑は少し目を伏せる。
「訓練……楽しい?」
「どうして、そんなこと」
「ん、だって、いつも全力だから」
サーシャは緑から目を離し、真正面を向いた。
「ゲイデン家の将校は常にナンバーワン」
「え?」
「中隊長なら中隊のどの兵士よりも強くないといけない、連隊長なら連隊ナンバーワン、師団長なら師団ナンバーワン」
「なんでも?」
「
――ロシア人なのに、ナンバーワンって!
――でも返事の「ダー」なんかロシア語っぽい、いやロシア人か。
風子は二人の会話を聞きながら顔を俯かせてむにゅむにゅなる口元をぐっとこらえる。
近畿出身の女子のせいか、風子はツッコミ体質なのだ。
「サーシャは、女の子なのに軍人になるの?」
緑が静かな声で聞いた。
「もちろん、卒業したら国に戻って士官候補生学校に行って、それから将校になる」
「もう、将来が決まっているんだ……」
「もう……というか、ずっと前から……」
サーシャはその後はロシア語でつぶやくが、二人は聞き取れなかった。
この道の先を偵察して戻ってきた伊原がパンパンと手を叩いて合図をしたので会話は終わる。
「休憩終了一分前、出発準備」
三人は立ち上がり、お尻についた砂を払う。
そして、また黙々と有線構成が始まった。
カランカラン。
緑はその小柄な体を目一杯使って、必死にドラムを運んでいる。
サーシャはその後ろで線が絡まないように注意しながら引っ張っていた。
風子は、さっきまでのサーシャと同様に電線を道路の端にやって、目立たないように地面を這わせる。
これがなかなか難しい。
草とか道路の何かに当たって線がすぐ浮いてしまうのだ。そして、二十メートルに一回ぐらいは、道端の草とか、立ち木に電線を結びつける。
そこに手間取っていると、どんどん前に置いていかれ、走る羽目になるのだ。
すでに風子も何度か駆け足になっていた。
緑と風子の息は上がっていた、一方サーシャは平気な顔をして黙々と線を引っ張り出している。
お嬢様なのに、なんでもできる。
得意と言うのは、おてんとう様が贔屓しすぎじゃないのかと風子も緑も思う。
風子も緑も、サーシャのように綺麗になりたい、器用になりたい、と思う。
もちろん彼女が軽歩の操縦については苦手だということは知っている。
そんなもの、彼女の華やかな才能に比べればなんでもないことだと思えるのだ。
だいたい軽歩の操縦なんか、女子に必要なスキルではないのだ。
そういうことを考えながら、ひたすら、同じ作業を続ける。
道路をひたすら進む女子達。
そうしているうちに、彼女達は自然いっぱいの道を進んでいた。
そこに伸びる坂道の手前に差し掛かった。
例のネズミ谷である。
無駄口だとわかっていたが、質問せずにはいられない。
「伊原少尉、どうしてここはネズミ谷なんですが?」
風子は肩で息をしながら伊原に聞いた。
どうでもいい話だけど、気になる。
気になってしょうがない。
伊原は、特に考える風もなく、さらりと答えを言った。
「ネズミがいっぱいいるからだ」
伊原から帰ってきた言葉はそのままだった。
ひねりも何もあったもんじゃない。
ネズミが出るからネズミ谷。
「だがな」
「だが……」
「ここのネズミはでかい」
ガサガサっと草むらから音がした。
「ちゅー」
「ちゅーちゅー」
「ちゅちゅー」
五匹ほどのの群れ。本当にネズミが飛び出してきたのだ。
目の前の道路を横切る。
大大小小小。
親子ネズミ。
風子は声をあげそうになった。
目の前のネズミが巨大だったからだ。
親ネズミは五十センチ、子ネズミでも二十センチはある。
巨大ネズミはドタドタと走っていく。それを子ネズミ追っていくが、たまに親が止まってきょろきょろしている。
きっと外敵に警戒しているんだろう。
「○×△ー!!」
声をあげたのは風子ではない。
緑でもない。
サーシャだった。
彼女の声にびっくりしたのか、混乱した子ネズミが二匹、彼女に向かって走りだした。
「きゅぴー」
親ネズミが叫び声のような鳴き声を上げるが、子ねずみは止まらない。
母親か父親かわからないが、一匹だけ親ネズミが、方向転換をして子ネズミを追ってきた。
悪循環。
怯えるサーシャに向かい、ネズミが突っ込んでいった。
「いや、いや……」
サーシャが電線を手放して風子に抱きついていた。
一瞬のことで何がなんだかわからなかったが、風子はぎゅっと彼女を抱きしめ返す。
――かっわいい……!。
サーシャの声に怯えて突飛な行動に出た子ネズミ、それを追う決死の親ネズミ。
そのネズミ達に怯え、腰を抜かしそうなサーシャ。
「こらっ!」
風子が子ネズミに向かって毅然とした短い言葉で警告を与える。
はっとした子ネズミは立ち止まる。
その瞬間、親ネズミが器用に二匹の子ネズミの首をパクッと噛んで抱え上げ、他のネズミがいる方に戻っていった。
ネズミはどたどたと草むらの中に消え、その足音も聞こえなくなった。
震えるサーシャ、抱きつかれた風子は電線を持ったまま突っ立っている。
「サーシャ?」
「ね、ね、ねずみ、変態、
彼女は母国語でごにょごにょ言いながら、いつまでも震えている。
普段クールで、そして勝気なサーシャとは思えない怯えっぷりに風子は驚く。そしてほわっとした暖かい感情に包まれた。
「かっわいい……飼いたいなぁ、欲しいなあ」
もう一人、いつもと違う反応をする女子がいた。
緑だ。
うっとりしながら、もれる言葉はいつもと違って声に力もあるし、そして音量が違う。
「もふもふしたい、もふもふしたい、もふもふしたい」
連呼する緑は、なんだかやばい目をしている。
スイッチが入ったようだ。
なんだか、ほわほわして春の陽気に照らされたような顔をする風子、そして怯えるサーシャ、涎を垂らしそうな表情でネズミ達が消えた方向をうっとり見つめる緑。
三者三様の姿をみて、伊原は困った顔をしていた。
「サーシャ大丈夫だ、あれは噛み付いたり襲ってきたりはしない」
そう言って伊原がなだめようとするが、サーシャの耳には入っていない。
そういう問題じゃないんだけど、と風子は思う。
サーシャはあのネズミを生理的に受け付けないだけなのだ。
だが、あんなことを言う伊原少尉。
さすが女性なのに『男の
「……」
「あのネズミは食用として軍で飼っていたものだ、それがいつの間にか野生化してこの辺りに生息している、別に人間に襲うとかそういうことはしない、草食動物だしこの辺りの雑草を食べてくれるから、駆除もしていないんだ」
淡々と伊原は説明をする。
「フー」
ネコのような声をだしてサーシャは息を吐いた。
一応、弱気を見せていたが動転が収まり、ネズミに対して強気の姿勢を出したのだ。
だが、もう遅い。
「あの巨大ネズミが、
学校の自販機の広告欄に飾られたりしている。
「あの、あれ捕まえて、飼っていいんですか?」
いつになく、大きな――興奮気味の――声で緑が質問する。
「学生棟で動物の飼育は禁止」
と伊原。
「緑ちゃんやめて、部屋がたいへんなことになるよ」
と風子。
「だって、もふもふしてるもん」
キラキラした目のまま緑がそう答える。
残念なくらいに成立しない会話。
「ああ、飼いたい、捕まえたい、いっしょにお風呂に入りたい、いっしょに寝たい」
普段大人しい緑が、こんなに積極的な言動をするのを初めて見た風子。
すでに驚きを通り越して、引き気味になっていた。
しょうがない。
もう二ヶ月が経つというのに、こんな緑見たことがないのだ。
そしてサーシャ。
まだ少し震える彼女を風子がよしよししている。
――これは意外……かわいすぎ。
風子は固い材質の作業服をお互いに着ていたが、抱きしめた彼女はなんとも言えないふわふわ感があって、とても心地良く感じていた。
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