第89話「好きになるって」

 スマフォの画面をススッと操作した幸子は、窓の外の流れる風景を見てため息をついた。

 新幹線は最高速度に達しており、窓の外の風景は流れるというよりも飛んでいっているような感覚だった。

 幸子、風子そしてサーシャ達三人が向う先は次の目的地、静岡にある三島緑の実家である。

 長崎旅行の次は富士山ツアーだった。

「幸子ちゃん、どうしたの?」

 風子がそう言って心配そうな顔で尋ねるが、幸子は目を閉じ顔を横に振った。

「なんでもない」

 なんでもないわけではない。

 彼女はニヤケる表情を必死に隠すためにそういうそぶりをしたのだ。普段、表情を見せない幸子である。そんな自分が急にニヤニヤしたらさすがに気持ち悪いだろうと、彼女は自覚していた。

 彼女は必死に表情を偽りながら、再度差出人が『三島緑』と書かれたメールを開く。

『幸子ちゃんが来たら、ご希望の修羅シュラ本がいろいろあるから、楽しみにしておいてね』

 共和国で密かに出回っている帝国のアニメ――二〇年ほど前に放映されていた『天空戦記修羅といっしょ』――である。

 それはとあるギリシャ神話をモチーフにした大人気少年漫画をおもいっきりパクったと言われる少年向けのアニメであるが、一部の女子にも人気があることで知られていた。

 美青年だらけのアニメだったからだ。

 もちろん帝国だけでなく、極東共和国も同様であった。

 幸子がコソコソ読んでいたのは、共和国のそういう愛好家――男同士の女子的な友情が過激に描かれたもの――達が作っていた二次創作ものである。

 緑の家にはその元祖本ともいえるものがあると言うのだから興奮しないわけがない。

 二〇年のタイムラグ。

 ちなみに緑の趣味は母親譲りである。だから、彼女の実家はそういうたぐいのお宝ともいえる数々の薄い本がストックされていた。

 垂涎。

 幸子にとっては富士山なんてどうでもいい。

「幸子、ニヤケてる、なんかいいことあった?」

 サーシャの声にハッとする幸子。

 ついつい宝の事を想うという至福の妄想を前に、表情が緩んでしまった。

「ち、違う」

 じーっと幸子を見つめる青い瞳。

 これでもかというぐらいにいやらしい表情をする金髪娘。

「大吉と、なんかいいことあった?」

 サーシャの言葉に不意を食らうかたちの幸子。

 彼女は口をパクパクしてしまう。それと同時に隣で激しく咳き込む女子がいた。

 風子だ。

「だ、大丈夫、風子?」

 話題を変えようと、大げさに心配する幸子。

「う、うん」

 左腕の肘で顔を挟むようにして咳をしている風子はコクンコクンとうなずく。

 食べていたスナック菓子のカスが、気管に入ってしまった。

「幸子、あやしい、とってもあやしい、すごくあやしい、その反応があやしい」

 たたみかけるように言及するサーシャに怯む幸子。

「な、なんでも」

 仰け反る幸子にグイッと迫るサーシャ。

 ジト目である。

「大吉」

 もう一度話題を戻す。

「な、なんであいつが」

 そういう二人を見ている風子は、妙にそわそわした気分になってしまった。

 仕方がない。

 告白されたのは幸子ではなく、自分だからだ。

 もちろん、そんなことを二人とも知るわけはないし、彼女も言うつもりはなかった。

「ずっと気になってた」

「な、何が……」

「ふふふ」

 サーシャの表情は変わらない。

「思い出作りできた?」

「な、なんの思い出よっ」

「そりゃー、アレとかコレとかソレとか」

「このえろろろロシア人」

 微妙に『ろ』がうまく言えず、多めに言ってしまった幸子。ひどく動揺していた。

 そんな姿を見てハッとするサーシャ。

「……ほ、本当に何もなかったとか」

 口の前に手の甲を当てて、背中をびっちりシートに付けるぐらい引いた。

「だから、なんであいつとっ」

「だって、だって、あんなに距離が近くなったし、パンツ見せたし、すぐ隣にいたし、チャンスだったのに、チャンス」

「この毛唐、そ、そんな目的で旅行をっ」

 普段感情を表に出さない幸子だが、顔を赤くして反応している。

 二人の顔がどんどん近づいた。

「え、他にどんな目的が」

「エロ、えっち、へんたい」

「それ以外で、思い出作りしようという方がどうかしてるっ」

「破廉恥なっ」

「こんな歳で恋をしないなんて信じられないっ」

「文化が違うの、文化が」

 向き合う二人の間にぐいっと体を入れたのは風子だ。

「声が大きい、ほら、周りの人が、ね」

 ドスン。

 二人は同時にシートに体を預ける。

「幸子は一年生で帰るんだよね」

 サーシャは目をそらしたままそう言った。

「……そうだけど」

 幸子は下を向いたままだ。

「急がないと」

 風子はサーシャのその言葉で、二人が何を言っているのか悟った。

 幸子は一年しか同級生としてすごせない。

 時間がない。

 サーシャが言いたいことがわかってしまった風子は顔を伏せた。

「幸子ちゃんは、あの、大吉君のこと好き?」

 風子には珍しく控えめで、慎重な感じの口調。

「ふ、風子まで」

「あ、あのね。私も、サーシャと同じで」

「えっちなのね」

「えっちじゃないっ、サーシャはえっちだけど」

 そこはフォローしない風子である。

「……なに?」

「一年を一日で考えたらもう、お昼前なんだよ」

「へっ?」

 いきなり何を言っているんだ、という表情の幸子とサーシャ。

「お、お母さんが言ってたけど、時間の大切さをよくわかる例えとかで」

 赤面する風子。

「四月を夜中の〇時にして、十二ヶ月を二十四時間に当てはめる」

 突拍子もないことだが、幸子もサーシャも頭の中で時計の針とカレンダーを浮かべた。

「今八月よね、それで四月から五カ月がたったところだから。一日にすると、ちょうど十時から十二時ぐらいになる」

「だから?」

 と、サーシャ。

「で?」

 と、幸子。

「だから、ほら、ちょうどお昼前ぐらいだから、もう午後の授業受けて、ご飯食べて、消灯時間きたら……そう考えるとあと半年なんてあっという間」

 自分で説明してて、何を言っているんだとうかと、風子自身汗が噴き出していた。

「だから……」

 天井を見上げる幸子。

 眉をひそめて考えるサーシャ。

「あ」

「あ」

 二人とも同じ言葉で風子を見る。

「ほんと、時間がない」

 サーシャがうなずく。

「やばい」

 幸子が顔を引きつらせる。

「一年、短いかも」

 彼女はそう言って、がくんとシートに体を預けた。

「だからといって、こっちで何を残すとか……そういうのないんだけど」

 ため息とともに、つぶやく。

 そんな幸子とは違う反応をしたのはサーシャだ。

「よかった」

「え?」

 風子は、サーシャの顔を見た。

 満足した表情。

「したいことしてよかった」

「し、したいことって!?」

 サーシャらしからぬ少し恥じらいを持った表情でコクリと頷く。

「ジロウと」

「なっ!?」

 今日は『なっ』が多い風子と幸子である。

「……」

 いつもは『破廉恥っ』と叫びそうな幸子だが、絶句していた。

「サーシャ、そんな……行為を」

 風子は顔を赤くするとともに、目がグルグル回っている。

「した、けど」

「した」

 と言った風子はぐいっとサーシャに顔を近づける。

「けど」

 と言った幸子もぐいっとサーシャに近づき、言葉を続ける。

いた……かった?」

 少々幸子の鼻息が荒い。

「痛……くはないけど、あれ、なんか幸子、かん違い」

 ぐいっと近づく幸子に対し、少し引いた感じのサーシャ。

「や、やっぱり、サーシャかわいいし、そういうの慣れてそうだし……だから」

「ま、まって幸子、微妙にかん違いしてるし、微妙に引っかかること言ってるんだけど」

「で、でも高校一年生でしちゃうとか早すぎるし……」

 ぐいっと、幸子の肩を両手でおさえ、サーシャは押し返す。

「違う、えっちじゃない、ただのキス」

「……」

 あ、と半開きに口を半開きにして、何か考えるような顔をする幸子。

「あ、なんだ、違うんだ」

「そうそう、ただのキスだから、ただの」

「そうかそうか」

 幸子は安心したような表情でうなずく。

「そうか、たいしたことないよね」

 風子も、二人の際どい話題の応酬を神妙な顔つきで見守っていたが、ここにきて一息ついたような雰囲気だ。

「ただのキスだもんね、ただの」

 繰り返す風子。

「そうそう、チュッてしただけ」

 安堵の表情とともに、はははと笑いながらサーシャはそう言った。

 さっきまでは幸子の剣幕に押されていたから、やっと力が抜けた感じである。

「ちゅうだもんねちゅう」

 と、幸子。

「そうそう挨拶みたいなもん」

 と、言いながらサーシャはその言葉を繰り返す。

「挨拶ね、挨拶」

「な、わけねええ!」

 迫力を込めた声をだす風子。

 一応、周りのお客もいるから、叫び声にならないように声は抑えめにしている。

「破廉恥っ!」

 同意の幸子。

「隙があったからブチュっと」

 悪びれずにサーシャがそう返すと「上田君は存在そのものが隙だらけだって」と間髪をいれずにツッコミを入れる風子。

「思い出作り」

 幸子が両掌で自分の頬を挟むような仕草をする。

「なんて破廉恥な思い出作り」

「卒業までに行為をしないとね」

「大人の階段!」

「時間がないもん」

「そんなに簡単に捨ててどうする」

「だって、好き」

「あ、好きならしょうがない」

「でしょう」

 パン。

 音の方向を振り向く、サーシャと幸子。

 両手で太ももを叩いた風子が見つめる二人の目を見て慌てる。

 彼女自身、どうして自分の太ももを叩いたのかわからないのだ。

「風子、どうした?」

 パチパチとまぶたを動かすサーシャ。

「いや、その」

 ――俺は中村が好きだから。

 ――ち、違う、本当にわかんないの、人を好きになるとか恋をするとか、そういうの。

 頭の中に響く、あの夕暮れ時の出来事。

 ――本当にごめん、私、恋とか好きとかそういうの、ごめん、わかんないから……。

「なんでもない、しょうがないよね、うん」

 風子は何か言おうとしたが、あの夕方の事を思い出すと、何もしゃべってはいけないような気になってしまった。

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