スイジョー!

七沢楓

■1『ようこそ! 水上部!』

第1話『その名はスイジョー』

 いきなり空から大量の水が降ってきて、鯨馬凛太くじらまりんたの体を濡らした。

 まだ入学したてでピカピカの制服だったのに、ずぶ濡れになってしまって新品のありがたみは消え失せた。自慢の金髪からもポタポタと水が落ちてくる。


 学校の裏手にある海を見ながら食べようと思っていた焼きそばパンは、開けたばかりだったので半分以上残っていたのに、海水に浸ってパンがふにゃふにゃになってしまっている。


「ごっ、ごめんなさぁい!!」


 おそらく水を降らせた犯人だったのだろう声の主は、海の上を滑りながら、陸地を沿うようにして逃げるように去っていった。


 凛太は、自分の手の中にある水浸しの焼きそばパンを頬張り、そのしょっぱさに涙しながらも慌てて咀嚼し、塩味がトラウマになりそうなそれをなんとか飲み込んだ瞬間、頭の中で血管が切れるような音を聞いた。


「待てコラァ!! 俺のおやつ弁償しろぉッ!!」


 脚の速さには自信があった凛太は、迷わず追いかけることを選択。黒いタイツのようなものを着て、海の上を滑る少女という、彼の常識にはありえない光景ではあったが、しかし食べ物の恨みというものは恐ろしいモノで、そんなことを一ミリも疑問に思わず、ただ地面を蹴った。


 しかし、一向に追いつけない。


 海の上を滑る少女のスピードは、明らかに原付と同じ程度はあった。

 一分ほど追いかけるも、差は開くばかり。そうしていると、さすがの凛太もだんだん冷静になってきて、疑問が蘇ってくる。


(あの子、なにやってんだ? どうやって水の上なんて滑ってんだ?)


 疑問に答えを出すには、彼女に直接尋ねる他ない。

 そしてそのチャンスは、思いの外すぐにやってきた。


 彼女が、水上で急ブレーキをして止まったかと思えば、先程とは違う緩やかなスピードで、陸地へ上がったのだ。


 すでに息も絶え絶え。しかし、それでも食べ物の恨みと好奇心から腕を振り上げて、彼女の元へ向かった。


 そこは砂浜。片隅に小さなプレハブ小屋がある以外は特に変わったところのない場所。そんな場所に、三つの人影があった。


 一人は、先程凛太に水をぶっかけた少女。後ろ姿なので顔はわからないが、黒髪を後頭部で束ねていることだけはわかった。


 もう一人、バツの悪そうな顔をした男子。凛太と同い年ほどなので、高校生だろう。赤いヘアバンドを額に巻いていて、そばかすが特徴的だった。


 そして、最後の一人――。


「やはり、ダメだったようですね……」


 溜息を吐きながら言うその人物を、凛太は知っていた。グレーのスーツに青いネクタイを巻いた中年男。枯れ木のようにやせ細った体と、いやみったらしく鋭い目つきにポマードでぺったりと撫で付けられたオールバック。


 凛太の通う二柱ふたはしら高校の教頭である。


「まっ、待ってください。も、もう一度、もう一度だけお願いします……!」


 少女は、まるで縋るように教頭へと歩み寄ろうと一歩踏み出す。

 だが、教頭は首を振って、「残念ですが、約束です。これで廃部、ということで」


 少し離れた位置から、その話を聞いていた凛太は、あまりにも重い空気の所為で「焼きそばパン弁償しろ」と怒鳴る事ができなくなってしまった。それどころか、話に割り込む勇気さえ捻り出すのに苦労しそうなほどだ。


「……あんのー」


 それでも、ここまで来た以上、流した汗分の成果を得なくては帰れない。勇気を出して、そろりそろりと近寄り、小さく手を挙げながら凛太はその輪の中に入った。


「――ん? 君は、確か鯨馬くんじゃないか。どうしてそんなにずぶ濡れなんだ?」


 怪訝そうな目を向けてくる教頭。それを説明しようとした瞬間、少女が凛太に初めて顔を見せた。



 その瞬間、凛太は倒れそうなほど衝撃を受けた。


 黒縁の、少しサイズの合っていない眼鏡をした、あどけない顔立ちの少女。地味めではあるが、しかし磨けば光る。そんな言葉が似合うような、野に咲く花を思わせる少女だった。


 要するに、凛太の好みだったのだ。


 そんな少女が、ボディラインがモロに出る全身黒いタイツを着ているのだから、凛太が惚けるのも当然だった。


「へっ、あっ、あなたは、さっきの……」


 彼女も、凛太と同じように目を見開き、彼の顔をジッと見つめていた。


「あ、あの場所から、どうやってここまで来たんですか……?」


 ずっと黙っていたかと思えば、それだけ言って、今度は凛太の下半身を凝視しはじめた。


「ど、どうやってって……は、走って……?」

「走って……?」


 今度は凛太の前に跪いて、太ももとふくらはぎを触り始めた。

 びっくりして飛び退きそうになるが、女性からボディタッチされるという美味しい場面を逃すほど、凛太は迂闊な性格をしていない。その場で耐えながら、顔を赤くして、事の成り行きを見守っていた。


「すごい筋肉量……どういうトレーニングをすればこんなに……」


 何かブツブツ言っていて、最初は女性の手の温もりを楽しんでいた凛太だったが、段々と怖くなってきて、動くに動けなくなっていた。


「……私のタイムに、陸地から、しかもライドブーツなしで……これは、もしかしたら……」

「あ、あの、すいませんがそろそろ離して……」


 凛太の言葉で、やっと自分が何をやっているのかわかったのだろう少女は、顔を赤くして、慌てて立ち上がった。


「あっ、ごっ、ごめんなさい! 謝罪もまだなのに……。さっきは、水かけちゃって……」

「いっ、いや! いいっすよ別に! 水も滴るいい男ー、ってやつですよ!」


 凛太も顔を赤くしながら、照れくさそうに頬を掻く。

 そして、また黙り込んでしまう二人。好みの女の子を前にして、何か言わないと、と焦る凛太だが、こんな状況は初めてなので、まったく言葉が出てこなかった。


 何を言えばいいのか、頭の中で大した言葉の乗っていない辞書を引いていると、いきなり少女が凛太の手を取り、涙目で上目遣い。


「お願いします! スイジョー、やってみませんか!?」 

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