亡霊たちは踊る

@ichiuuu

第1話 呪われたのは私

―死んだ黒猫をまた見かけるようになったのは、いつの頃からだったのか―


「はい、そうですね。はい、そういう症状の方で。はい、ただちに入院という程ではなさそうですが。はい、そうですね。予約をお願いします」

 ああ、あの女カウンセラーの声は驚くほど綺麗だ。よどみがない。高音で、鼻濁音が潮の満ち引きにさらわれるように出る。顔だって悪くない。あぐらをかいた鼻が気にならなければ、目だって大きいし、唇の紅さも鮮やかだ。そっくり血の色だ。あの日、母が吐いた色と同じくらい綺麗な色だ。

「はい。そうです。あの扇市の事件、あの事件の生存者の方で。え? ご存知ない?」

 ただ、あのカウンセラーには致命的な欠点がある。声音が大きすぎる。豊かな乳房を誇るように、ご自慢の声も思わず張ってしまうのだろうか。隣の部屋とて壁が薄いから丸聞こえですよ。そう言いたくなるのを、一面真っ白な壁に囲まれた部屋でこらえた。何もない部屋のうちで、唯一目立つ赤い花瓶には百合の花がさされている。あの白は死の色だとよぎる。母が亡くなった時の、死に装束の色。今や母の死に顔の色さえ思い出せるから、私の中で(扇市事件)は随分過去のものになったのだろう。ふふ、と自嘲のこぼれる私を、不気味そうに別の男のカウンセラーが見やる。

「ええっ、困ったな。扇市事件をご存知ないんですかあ? あれですよあれ。よくニュースで流れたでしょう。二年前の事件くらい覚えていて下さいよ」

 私との面談を中断し、電話をかける女性カウンセラーのアホさが致命的に感じられた瞬間、あの髪の毛が私を追いかけてきた。ほら、壁のすみから、ドアの隙間から床の溝から溢れる髪の毛がそよいでいる。真っ黒な艶のない髪。ほら、私に向けて女の腕みたいにゆっくり伸びてくる。この突然の不思議な幻覚では、黒髪はごそごそと伸びてきているけれど、頭がまだ出てこない、のが救いだ。顔を見たら最後、あの真っ白な顔が追いかけてきたら私はさすがに正気を保っていられそうにない。華子の真っ白い顔が追いかけてきたら。

「だからあ、あれですよあれ。あのガス中毒で四十二名の方が突然に死んだ、あの事件ですって!」

 これを聞くなり、私の隣に立っていた小男のカウンセラーが身震いするのが分かった。

それから密やかに厚い前髪ごしに私を凝視する。後ずさりさえしそうな顔色で。怖がりなの? 大丈夫? そうね。もしかしてあなた、ネットの住人なのかしら。ならあの噂を知っていても無理はないね。怖いよね。離れたらいいと思う。あ、無理か。今仕事中だもんね。でも怖いよね。私の近くにいたら、死んじゃうかもしれないものね。あの日、七夕の夜、扇市駅前に偶然いた人たちみたいに。 

「あつーい。これって何の現象なのお」

 二年前、私は十七歳だった。

 扇市の小さな高校に通っていた。自分で言うのも何だけれど私は綺麗な子だった。水泳で少し脱色された髪に内緒でパーマをあてて、腰まで髪が波打っていた。目も平均以上に大きくて、鼻も鋭すぎない程度に高くて、唇も赤かった。白雪姫みたいって幼い頃からよく言われた。私の夢みたいな、物語じみた話を好む嗜好はこの頃から養われたと思われる。後輩先輩ともなくモテて、調子にのっていた。そりゃあそうかも、と今思えば笑えるけれど。だって学校に登校して、適当に挨拶すれば男がみんな笑みがこぼれるレベルだったんだもの。ある人は私に声をかけられただけで一日幸せだった、ということもありえたかもしれない。ちなみに言えば中学の文集では将来悪女になりそうな人NO1だった。美女ランキングで二位だった。

そんな私だから、友達は多くなかった。入学当初は私と親しくすると女の先輩に睨まれると風潮されて、浮いて、厄介な性格が余計に歪んだ。こんな私と親しくしてくれるのは、幼馴染の太一と、彩香だけだった。

「ねえー暑くない? 溶けそうじゃない」

 と、朝の教室にてクラスでも目立たぬ存在の眼鏡男子に声をかける。男子は顔を赤らめてこうべを垂れた。

 十七歳の私は下敷きをうちわがわりにそよがせて言った。ミニスカートを朝の涼風にひらひらさせながら、机の隅に座って。

「ねえったら。何か言ってよ眼鏡くーん」

「やめろって」

 そこで低い男の声が走った。サブバッグをひっさげ、登校してきた太一が私を軽く睨む。太一は小さい時からの幼馴染だった。幼稚園の時はハーフの双子と間違えられて、子供心に

「ありえねー」

と笑っていた。二人して笑っていた。ついでに言えば太一は昔からちゃらちゃらしていた。幼稚園の時にキスを済ませていた。それ以上のことは中学の時、二個上の先輩に教えられたと微笑していた。女じみた美貌で。若かりし私たちは美しかった。

「お前は相変わらずちゃらいなー美佳。いい加減にしろよ。眼鏡が本気にするだろ」

「でも、太一には関係ないじゃん」

「お前がモテると俺が困るの」

 そう言って腰に手をあててくる太一のことは、憎からず思っていた。だけれど私たちは付き合っていなかった。太一は別な綺麗な女子大生とか可愛い後輩とかと付き合っていたし、私は私で蜜吸う蝶生活を楽しんでいた。気分次第でそういう関係にもなれたけれど、私はなんだか太一が怖かったから厭だった。腰に絡める太一の手には異常な力が通っていた。

「俺以外見るなよなー」

 そう言って微笑む太一は本当にほれぼれするくらい、いやちょっとぞっとする程、綺麗だった。この朝の教室に美しいものは私たち以外いなかった。後は先ほどの眼鏡と、影みたいに気配を消す華子と、そしてもう一人。

「おっはー、元気だね二人ともーお盛だねー」

 そして彩香だけだった。彩香は可愛いけれど、私や太一と比べるとふつうだった。黒目がちの瞳がぬらぬらと光っているのが、蛇みたいと言われて一部で嫌われていた。太一だけが

「あいつの黒目だけはいいよな。むらっとする」

と褒めていたけど。

彩香は中学から知られた有名ないじめっこだった。金髪に染めた髪を時代錯誤に巻き上げて、リップグロスで唇の色を巧妙に隠している。

「もー二人ともそんなクラスで盛んないでーみんな見てんじゃあーん」

 やたらに人目を気にして大声で衆目を集めるやり口が気に喰わず、私も正直、彩香がすごく好きかと言われたら違うけれど、でも彩香とは一緒にいた。彩香も寂しかったし、私も寂しかったんだと思う。そして太一も。

「ほらー二人とも。あの華子さんも見てるよー?」

 言われた華子の方を私は見た。華子は固まっていた。いや静止していた。何か重たそうな本を開きながら、一瞬も一ミリも、こちらを一瞥すらしなかった。華子はクラスの片隅で、人形みたいにしっかりと椅子に座っていた。

 【扇西のめちゃくちゃきれーな蛾】

と、私は名指しされて女子トイレに書かれたことがある。それの脇に、

【扇西の怖すぎるハナコさん】

 と書かれたのが華子だった。華子は重たそうな前髪と腰までの黒髪を垂らす、トイレの華子さんだった。昔流行った某呪いのビデオに出てくる女にそっくりだった。あまりに暗くて友達もいない、声も小さくて教壇に届かない。友達がいなすぎていつも休み時間、昼食時間とトイレに籠っている。だから、トイレのハナコさん。けれど生徒の本分を忘れている訳ではなく、頭はいいし、生物委員会にされたらきちんとメダカに餌もやるし、花にも水やりする。このあいだは蜘蛛の巣にかかっていた蝶を助けていたのも見た。悪い奴ではないと思う。

だけれどあちらと私では全く持って仲良くなれる気がしなかった。ただ怖かった。あの黒い瞳が髪の毛が、夢にでてきそうで。たまに私を見る瞳は穴があいているように恐ろしかった。空洞に見つめられているみたいだった。

「あいつってさあれで歴史ある? ノロイ神社の娘なんでしょーそれにしては、ねー」

 なぜ彩香は歴史、すら正しく発音できないのか、そこは気になったけれど、華子には歴史がある、それは本当だった。華子はこの扇市でも大きな神社の娘だった。森の深い。いつでも日の陰ったようなノロイの森の。姉がいたけれど自殺していると聞いた。かつては古墳時代の神官もつとめた家柄らしく、古く貴く、貴族院議員も出していたとも噂された。ただし、その噂には厭な匂いもつきまとっていた。華子の一ミリもこちらに媚びない態度を、彩香が不快に思ったらしく告げた。

「あいつんちさーキンシンソーカンやりすぎて、みんな頭おかしーんだって」

 くけけっと彩香は何がおかしいのか笑った。一瞬豚鼻になるくらい勢いよく笑った。その噂も、本当だと言われていた。うちの母でさえ知っている噂。

【高遠家は家柄を重んじるあまり、近親相姦を繰り返して、呪いの力を濃くしている】

と。

 華子はそういういわくつきだった。神官が神官たるためには、主君の敵を呪い殺さなくてはならぬ。そのためには他家の血を、何の力も持たぬ人間の血を混ぜてはならぬ。呪いの力が弱まる。華子の両親は父の違う兄妹だと言われていた。

「ねーね、そうなんでしょー聞いてるんですかあ、トイレの華子さあん」

 華子へと変顔をしながら近づいて訊いていく彩香。あいつ、いじめっこ魂がうずいたな。その魂も弱いものだ。うずくのは一人の時ではない。私と太一がいる前だけ。私は思わず声を発していた。

「やめなって彩香。いい加減にしなよ」

 その刹那、華子と目が合った。気がした。やっば、と思った。あいつ、私を友達認定しないだろうな。

「悪趣味だよ」

と我知らず付け加えていた。 

華子がもたげていた顔を下げた。セーフ。

「えええーでもお」

「やめとけって。美佳の言う通りだって」

と太一も頷く。彩香はつまらなそうに唇を尖らせた。

「あーあ、みんな、美佳の味方なんだあ」

と、悔しさを微笑に滲ませて。

 その場はそこで収まったかのように、思えた。

私はその頃、秘密のブログを持っていた。昔の流行だった、鍵アカウントをかけたネットブログ。このブログの存在と、鍵を知っているのはほんの数人の友達で、いつも来客数が三人ほどしかない弱小ブログだった。けれど楽しかった。思うさま自分の思ったところを書けるのは。学校もさして楽しい場所ではなく、家族との仲も微妙な私にとって、唯一の救いだった。

【今ちょうど二十二時。まだお母さんは帰ってこない】

 そうブログに書いて、軽く舌打ちする。二十二時。あたりは闇に静まり返って、近所の海の匂いがした。この白いアパートは狭いけれど、一人でいる分には十分だ。二人では狭い。三人では息するのも苦しいくらい狭くなるだろう。三人にならないことを願った。

【私の住むアパートはね、キッチン、トイレ、お風呂以外は、一部屋しかないの。お母さんはよくそこに男連れ込んでさ、男が来る時ってすぐにわかるの。ちょっとお外で遊んできてね、だって。五百円渡されてさ。あれはまだ中学生できつい。はああ、まあ、前みたいにすぐに家に連れ込むお母さんじゃなくなったし外デートだから、今回の人はいいのかもね】

 私がそうまで書いて、しばらく扇風機にあたりながらソーダアイスを舐めていると。メールがきた。ブログにコメントがきたらしくそのお知らせだった。

【そうなんだー。私も一緒、一緒。ていうか美佳の方がましかも。私は子供ん時から殴られてたからさーシンママだったおかんの彼氏にはボーコーされるし、散々だったよーでも、前向いて生きてこっ☆愛彩☆】

 ああ、彩香のコメントだ。彩香は自分の名前の字面が厭で、よく愛に彩を足して読ませていた。この底の知れない明るさが、時に怖くもあった。底が見えないくらい透明度が低くて、よどんだ沼みたいで。だけれど彼女の明るさにはいつも助けられていた。どんな時も前向きで、おバカちゃんだけれど一生懸命で。悲しい時は泣いて鼻水垂らしてたりする。そんな彩香が、私は嫌いではなかった。

そこでまた携帯が鳴った。コメント? まだ彩香にも返信していないのに。ブログ画面を見てみる。

【今日はありがとう。本条さんも大変なんだね。なんかわかるなあ。これからは仲良くしてね 🌸】

 なんだこれ。私は訝しく思い眉を寄せた。なにこれ。こんな桜のスタンプなんて使ってコメントする人初めて。おかしいな。本当に限られた人にしか教えていないのに。どうもこのコメントは新参くさい。だいたいブログを教えたメンツで本条さんなんて呼んでくる子はいない。それも、【これからは仲良くしてね】

って、なんだか妙だ。まるで今までは仲良くなかったような言い回しだ。そしてこれからは仲良くしなければならぬような言い回し。誰だろう、今日感謝されることをした人で、桜のスタンプを使ってくる人。あ……。

私は一瞬、寒気を覚えた。やば……これ、華子じゃない……? 

「ただいま美佳―遅くなってごめんねえ」

 その時母が帰ってきたので、私の怖い妄想はそこで終わった。

母は酔ってもいない様子で、白くて年の割に綺麗な顔を私に向けて、笑った。

「待っててくれたの? 先寝てていいんだよ。私はほらパートもあるし、どうしても遅くなるから」

「……ううん。お母さんもパートで大変なんだもん。夜ごはんあっためる?」

 これに母は少し罪悪感を覚えたようだった。

「あ、お母さん仕事場で食べてきちゃったの。本当にごめんね。美佳、早く食べて休みな。明日も学校なんでしょ」

 ――父に先立たれた妻として娘を守り、パートで食いつないでせっせと私の学資保険の積立を頑張る母。その母がまた恋をした。今度の人はいい人かも、しれない。だけれど。私はどこかにまだ拗ねたい気持ちがあった。

デートに行ってもパートだったと嘘つく気持ちもわかるし、母が今まで死ぬほど頑張ってくれたのも分かる。だけれど、本当は。

 私はさみしかった。

 【またうちの母、彼ぴとデートして帰ってきたよーもう厭になりそ♰美佳】

 ブログで彩香にだけコメントして、私は暗い柔らかい布団のうちにもぐった。

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