Artificial Flower

テン

第1話

 別に、そんな気はない。ただ、隣の席に座る友達の横顔を見たら、男なのに綺麗な奴なんて思ってしまっただけ。俺は健全な男子高校生であり、普通に女の子が大好きだ。

 それでも、先生が黒板に書く英文を、ノートにスラスラまとめているソイツの姿が妙に気になった。中性的な顔つきだからか、等と納得しつつ聞き逃した文法に頭を悩ませる。教科書とにらめっこしていると、すらりとした綺麗な手が目の前に現れる。無骨な男文字だらけのノートの隅に、柔らかい筆圧で英単語が書かれた。

「そこはこの単語を入れるといいよ」

 ちょうど、悩んでいたところを件の人物が教えてくれる。なるほど、すっきりした。俺がテストで赤点を取らずに済むのもコイツのおかげだろうな。

「どうも」

 へへ、と笑うソイツが再び黒板の方を向くと、俺はその英単語を本文内に書き入れておく。書き写してしまえばもう必要ないのだが、その字を消さずにノートの隅に残しておく。前に目の前で消したら、なんだか嫌そうな顔をされたからだ。それに、こうやって度々チェックされるから消すに消せないのだ。

 再びソイツの顔を見る。容姿に関して言えることは、男じゃなきゃ良かったのになんて思ってしまった自分を殺してやりたいくらい整った顔つきである。

 視線を感じたのか、こちらを見てきたため目が合うが、下手に逸らすと怪しまれるので、しばらくは目を逸らさずにおく。向こうから逸らしてくれるだろうと考え、早二十秒。なぜ授業中に見つめ合わなきゃならないのか、その答えを俺は知らない。


「涼って授業中こっちのこと見過ぎ」

 授業終わりに、隣の席の速下光輝がつっかかってくる。今時、肘で小突いて来る奴がいるとは思わなかった。

「先生がそっち側にいるからしょうがないだろ」

 現に俺の席は、一番前の廊下側というアニメの主人公達の席とは真逆の位置にある。どうしても横を見ざるを得ない。ある種、言い訳じみた言い訳をする。

「というより、お前がこっちを見てる方がおかしいだろ」

「なんとなく君のおかしな顔を見ていたくてね」

 忘れてた。時々、気持ち悪いことも言う奴だ。渋い顔をして光輝を見る。高一からの友達だが、時々何を考えているのか解らない。まぁ、それでも良い奴であることには変わりない。

「冗談冗談。予習しちゃうと授業って結構暇なんだよね。だから暇つぶしも兼ねてさ。いいじゃん解らなかったとこ教えてあげたんだし」

「だからって俺の顔見るか、普通」

「美人は三日で飽きるけどブスは何とやらって言うじゃん」

「結構失礼だよなお前」

 良い奴だったか不安になってくる。

「本音を言うと、ちょっと恥ずかしいんだけどね。僕は君を一番の親友だと思っているわけで」

「なんだよ急に。俺と親友なのが恥ずかしいのか」

 急に冷たい目でこちらを見てきたため少し身構える。

「まぁ、いいや。それで僕に多少絵心があるのは知ってるよね」

「ああ、何回か見してもらったよ。それに美術部だけあって上手だよな」

 また、へへ、と笑う。こうやってコイツはことあるごとに爽やかなイケメン顔を見せつけてくる。俺が女だったら今最高に幸せだろうな。

「それで昨晩、なんとなくだけど君の顔を描いてみようと思ったんだけど、上手く描けなかったんだ。特徴のない顔って言ったら失礼だけど、君ってメガネをかけているわけでも、髭を伸ばしているわけでもないだろ。特徴だけでも捉えれば似てはくるんだけど、何度書いても似てこないんだよ。見ながらだったらそこそこは描けるんだけどね」

 華麗な字で埋まるノートの端を、少し美化された俺の横顔が陣取っていた。ほりが深く、キリリと整った眉毛に、長い睫。少し顎がシャープで、髪はさらさら。コイツには俺がこう見えているのか。というか授業中に何描いてるんだ。

「なぁ、俺ってこんなに二重ぱちくりさせてたか」

「そこは僕の趣味さ」

 似せる気ないだろと心の中でツッコむ。

「それで親友であるはずの君の顔が上手く描けないのは、僕の記憶力に問題があるからだと思って、君の顔をじっくり観察させてもらったワケだよ」

 なるほど理由はあったのか。納得はしないが。そもそも授業中に許可も得ずに人様の顔を描くんじゃない。

「ところで俺の顔なんか描いてどうする気だったのか教えてもらえるか?」

「そりゃあ女子に見せて、きゃー速下君すごい上手ー

って黄色い歓声を浴びるんだよ」

「ああ、なるほど。今まで以上にモテたいわけね。彼女持ちのくせに」

「大丈夫、僕は彼女のことを一番に考えてるから」

 光輝には、二年生の春から付き合い始めて三ヵ月の彼女がいる。二人がくっつくまで色恋に疎い俺が手助けしてやった。

「そういうのは本人に言ってやったほうが喜ぶぞ。『一番はお前だ』ってビシッと」

「最近、二番が急接近してるけどね」

「やっぱ最低だなお前」


 放課後になり、光輝とは部活が異なるためしばしお別れとなる。アイツは美術部。俺は新聞部。

 俺は幽霊部員ばかりの新聞部の部室に足を運ぶ。これといった活動をする訳でもなく、光輝の部活が終わるまで暇をつぶすために行っている。部室につくとやはり誰もおらず、すわり心地の良くないイスでしばし睡眠をとる。

 五分後、背後に人の気配を感じ、薄目を開ける。

今日はどうする気だ。

 しばし、背後の人物がどう動くか、音だけを頼りに想像する。今日は変な動物の鳴き声はしない。悪臭も漂ってこない。熱気も感じない。

 肩に手がのり、ピクッと体を揺らす。落ち着け、寝たふり寝たふり。

「これは本当にあった出来事です」

 顔を近づけ耳元でつぶやきだす。耳に息があたりこそばゆい。なんだホラーでも話すのか。いいだろう。納涼にはもってこいだ。

「あるとても寒い日、O県在住の十九歳男性が帰宅するとマンションの近くに見慣れぬ女が立っていました。その女は、髪が長く、コートを着、口元をマスクで隠していました」

 ああ、このパターンは。有名な奴だな。鼻で笑う。

「ん? 今……」

 しまった。慌てていびきをかき誤魔化す。

「まぁ、いいか。女は男性に近づきこう聞いてきました。『私綺麗?』。男は恐る恐る『綺麗です』と答えました」

 先の展開読めるよ。でも男だったら、『私って、可愛くないよね……』なんて伏し目がちに美女に言われたらコロッといくよな。

「すると女はマスクを外しこう言いました―」

 はいはい。ポマード、ポマード。

「『紫鏡!! 紫鏡!! 二十歳まで覚えていたら死んじゃうよ』」

「いいいぃ―お前っ! せっかく忘れてたのにっ!!」

 堪えきれず、ばっと後ろを向いてしまう。眩しい笑顔という表現があるが、まさしくそれが目の前にあった。

「よっしゃ今日も私の勝ち」

 ガッツポーズをとる女子高生の姿を確認し、悔しそうに見つめる。

「ずるいぞ美咲」

「涼がビビりなだけじゃん。と、いうことで今日も荷物持ちお願いね」

 ったく、と悪態をついてみるが、いつも通りスルーされてしまう。慧ノ矢美咲は中学からの同級生で、同じ新聞部の部員である。二人とも部活内容に興味はなく、一年生の時の担任が、必ずどこかの部活に入れと言ってきたのを律儀に守ってしまっただけである。

「それで今日は何するんだ」

「いつも通り」

「……何もしないんだな」

 有言実行というか本当に何もしない。ただイスに座り下校時間がくるまでのんびりする。特別何かを話すわけでもなく只々時間が立つのを二人で待つ。だがこの時間が嫌いなわけでは無い。美咲もこの時間が学校生活で二番目に好きと言ってきたことがある。なんだか気恥ずかしい。

 美咲は、鞄からスマホを取り出し、何やらゲームにいそしんでいる。俺はただぼけーとそれを見つめるだけ。たまに良い結果が出たと報告してくると、やったな、すごいな等と、あまり心にもない言葉で返答する。

 熟年夫婦かよ、と光輝が一度ツッコんできたことがあるが、そんな風に思われるのは心外だし、そもそもお前がその可能性をつぶしたじゃないか。


 美咲はお前の彼女だろ。


 俺が光輝と仲良くなり、アイツが美咲とも仲良くなった。それである時、美咲が光輝に告白したいと言い出した。そこからの俺をピエロと例える奴がいるだろうが、否定はしない。

 ただ俺には一線を越える勇気がなかった。それだけ。

「なんか、浮かない顔してるよ」

 突然話しかけられ、はっとする。

「また顔絡みの話かよ」

「『また』ってことは光輝がなんか言ったの?」

 休憩時間の俺と光輝の会話を聞かせる。美咲が光輝のことを興味津々に聞いて来るので、まだ二人の関係は大丈夫そうだと知り、少し残念に思う。少しだけ、な。

それでも本日一番腹が立った、二番目急接近の話はさすがに言わない。そんなことをして、親友の別れを望む野暮な人間と、他人に思われたくないからだ。

「やー、やっぱ、みっくん最高だよ」

「……惚気んなって腹立たしい」

 光輝だからみっくん。向こうは美咲をみっちゃんと呼んでいる。M&Mなんて光輝に惚れていた女子が陰で呼んでいたのをふと思い出す。

「あー、みっくん取られて嫉妬してるんでしょ」

「どうしてそうなる」

「大丈夫、私束縛厳しい女じゃないから、帰り道も少しくらいの会話は許してあげる」

「だから、どうして毎回そうなるんだよ」

 毎回と言うより、学校がある日は毎日だが、帰りは何故か光輝・美咲カップルに同伴させられる。主に荷物持ちとしてだが。光輝の方も、どうして二人だけで帰ろうとか言わないんだ。


「お待たせ」

 下校十分前になり、新聞部の部室に光輝が現れる。

「今日は遅かったね」

 美咲の顔が先程より、わかりやすいくらい明るくなる。少しむっとしてしまう。俺はいったい何様だ。

「後輩にセクハラしたら怒られちゃってね」

「わかるような嘘つかないの」

「皆が僕の裸体をモデルにしてデッサンしていたら、パンツを誰かに持って行かれちゃってね」

「無い、とは……言えない……かな」

 美咲が悩んだ顔でこちらを見てくる。こっちを巻き込むな。

「良いから帰るぞ」

 そんな話を延々する下校タイムは実は嫌いではない。時々気まずくもあるが、美咲も一番目に好きな時間と言っている。せめて俺がいない時を一位にしてやれといつも思う。

「結局どうして遅くなったの?」

「先生と進路について話してたんだ」

 光輝は勉強が出来て、先生の覚えも良い。まさしく模範生と言える。だが運動は出来ないみたいで、体育の時も端っこから見学している。その分を勉学でカバーしているから誰も文句を言わない。

「やっと信じられる答えだな」

「親友ならもっと僕を信じても良いんじゃないかな。みっちゃんは信じてくれるよね」

「信じる、信じないは別として、みっくんのことは好きだよ」

 えへへ、と惚気る二人。そこは信じてやれよ。

 なんでこんな思いをしなければならないのか。美咲も俺には見せないような良い顔で笑う。周りから見たら、俺の姿は美男美女カップルに付属する野獣だろうか。草食系男子である自分を野獣と例えるのもどうかと思うが。

「進路の話ってことは美術学校でも行くのか?」

「僕としてはそっちの方も視野に入れてはいるんだけど、あまり絵ばかりに捕われるのも辛いからね」

「絵の学校だったら私は行けないな」

 美咲が凹む。長い付き合いを想定しているんだな、お前さんは。少し妬いちゃうぞ。

「まぁ頭も良いからどうとでもなるか。決まらないなら、俺と一緒の大学でも目指すか?」

 すかさずアプローチ。美咲がビクッと反応し、俺を凝視する。お前プロポーズと勘違いしてないか。しかし、そもそも自分が行きたい大学すら決めていないし、いけるかどうかも実は危うい。

「ふっ、僕と偏差値二十も違うくせに」

 さすがに把握されているか。赤点こそ取らないが平均点以下のテストを見せるたびにコイツの顔が曇るのを何度も見てきたしな。

「まぁ、まだ一年半あるし、少しは鍛えてあげようじゃないか」

 何か企んだような笑みを浮かべこちらを見つめる。コイツこんな妖しい顔もするのか。

「お、お手柔らかに」

 口は災いの元。この後本屋に行き、なけなしのお小遣いで光輝と同じ参考書を買わされることになる。

「私も鍛えて欲しいー」

 と美咲も言うので、三人での勉強会を決行することが決定してしまった。決めてばっかだな。しかし、美咲の参考書代が足りないからって俺にまで出させるとは。


「どうやら……私はここまでの様ね」

「みっちゃん!」

「さよなら、みっくん。私のことは置いて行って」

「忘れない……忘れないよずっと」

「私がいないからって涼と浮気しちゃダメだから……ね」

 いつものクソ寒い演技を見せつけた後、美咲は自宅へと入っていった。俺と光輝の帰り道に美咲の家があるため、いつも家まで送っていく。そこでようやく荷物持ちという運搬作業から解放される。

 満足そうな顔をして、光輝がこちらを見てくる。

「オスカー男優賞もらえるよね」

「ラジー賞すらあげたくないな」

 毎回こんなものを見せつけられては、さすがに愚痴の一つもこぼしたくなる。

「それは残念。そういえば君の役目が無かったね。明日は結婚式当日に花婿である僕が、君に連れ去られる体でいこう」

「だから俺を巻き込むなよ。というより、二人で帰ればいいのにどうしていつも俺を誘うんだ」

「あれ嫌だった? 僕は親友と彼女に挟まれて至高の時を謳歌していたんだけど」

 言われてみると、車道側に俺が立ち、横に光輝、その横に美咲。唯一の異性を挟んでいない。最初の頃は俺と美咲を遠ざけているのかと思ったが、コイツの趣味だったのか。

「愛してやまない二人に囲まれるなんて最高の高校生活なのにさ」

「お前ってそっちの気もあるの?」

 前から言動の節々に、違和感を覚えていたが、ここまで言われると若干気持ち悪く感じる。親友ならぬオホモ達なんて勘弁だ。

 顔に出てしまっていたのか、光輝は少し寂しそうな顔をする。

「さぁ、どうかな。でも男でも女でも人から好意を持たれるのは嫌いじゃないよ。 むしろみんな僕のことを好きになってくれって思うもの」

「つくづく強欲な奴だよな。顔も良ければ、頭も良い。彼女もいるのに、まだまだ好かれたいの?」

「言い方は悪いし自惚れもあるけど、持っている者が自覚するとより多くの物を欲するようになるんだよ。持っていない者と比べ自制という物を知らないからね。それに持っていない者は、欲している物があっても我慢を覚えてしまっているから、諦めがついちゃうだろ」

「諦めやすい俺は持っていない者ってことかねぇ」

 なんでこんなに落ち込まされるんだ俺は。光輝が慌てて慰めようとする。同情するなら、先程美咲に渡した分の金をくれ。

「ごめん、ごめん。話が飛躍しすぎたかな。でも好かれると言っても、さすがに同性から性的な目で見られたりしたら、さすがの僕でも困るかな」

「俺もいくら好かれたくても、男からそう言う目で見られるのはな」

「そうか……」

 しばし沈黙。おい、なんでここで黙る。黙られるのが一番反応に困るんだが。

「……嫌なら今後涼のことを直視できないや」

 ごめん。やっぱ黙っていて欲しかった。なんなのコイツ、俺の身体が目当てなの?

「そういう冗談止めろよな」

「冗談を言わない僕の姿が想像できるかい」

 冗談だとわかりいささか安心する。時々、真顔で言ってくるから本当に不安になる。しかし、冗談ばっかのコイツが冗談を言わないのか。

「想像出来ないな。もしそうなっていたら、何か悪いことでもあったのかって心配はしてやるよ」

「さっすが親友」

 青春ドラマの如く肩を組んでくる。どこまでも演劇気分の抜けない奴だと思いつつ、なんだか俺と親友であることを強調してくるコイツのことが妙に気にかかる。


 短いようで短かった夏休みも終わり、学校が始まると、放課後はいつもの様に部室で仮眠する。別名狸寝入り。今日こそは、美咲の拷問に耐えきってみせる。これ以上巻き込まれてたまるかってんだ。

 でもなんだか、いつもより来るのが遅くないか?

このままじゃ寝ちまうぞ。本当に寝ちまうぞ。いったい何やってんだ――。


「……下校時間ぎりぎりじゃないか」

 どうやら寝すぎてしまったようだ。まだ夏の暑さが残る時期だが、この時間ではあたりも暗くなっている。

「光輝も来なさそうだな」

 スマホを確認しても連絡は入っていない。こちらから連絡するのもいささか億劫に感じ、そのままスマホをポケットにしまう。

 電気を切り、部室を後にする。下駄箱までの廊下が異常に長く感じる。時々窓ガラスの方を見ると、寝ぼけて間抜けそうな面をした自分と目が合う。そんな目で見てくるなよと、欠伸で返す。我ながら言動がアホらしい。

 下駄箱を覗くと、光輝と美咲の靴は置いていない。やっと二人で帰るようになったかと、嬉しくもあり寂しくもある。

 一人で帰るのは久々だった。美咲の家が帰路の途中にあるため一緒に帰っていたが、高一の夏からは光輝とも仲良くなり三人で下校していた。

 一人で夜道を帰ると今まで見えてなかったものが見えてくる。見ようとしてなかったと言う方が正しいのかもしれない。横道にある、シャッター商店街が増加しているなんて言われている世の中で、和気藹々と商売を続ける商店街。古臭いなんて思っていたが、同年代の奴らもちらほらいる。若者向けの店でも増えたのだろう。

 その中にデートしている二人の姿が無いか探してみたが見つからない。なぜかホッとする。見つけたところでどうするんだろうな。混じって一緒に帰宅するのか俺は。

 色々と見渡していたら、いつの間にか美咲の家の前まで来ていた。部屋の明かりが点いているので、少し気分がモヤモヤとする。居ないなら居ないで、どうしたんだなんて心配に思えるが、居るのがわかってしまうと、どうして俺のことを無視したんだ、なんて恨み言ばかり思い浮かんでしまう。

「俺って面倒臭いな」

 誰に言うでもなく、ぼそっと呟いてその場を後にする。痛い男。まぁでも今日は別れ際の喜劇悲劇を見させられなかっただけでも良しとするか。


「昨晩はお楽しみでしたね」

 翌朝、開口一番に嫌味を言う。いや、なんで嫌味なんか言っているんだ。光輝は不機嫌そうな顔でこちらを見てくる。

「涼、今日の僕は男の子の日なんだ。少し黙っていてくれないかな」

 何なんだ男の子の日ってのは。

「冗談が言えるなら大丈夫だろ」

 キッと睨み付けてくる。よくわからないが、黙っていて欲しいというのは確かなのだろう。

 しょうがなく無言のまま着席する。今日は先生の方を見ようと思ったら、一日中コイツの不機嫌そうな顔が視界に入るのか。そう思うとため息が出る。


 午前中の授業が終わり、手作りの弁当を机に置く。母親曰く、男も料理出来なきゃダメよ、なんだそうだ。

「飯食う時も喋っちゃダメなのか?」

 隣にいる不機嫌な顔をして座る光輝に聞く。

「話したいことがあるなら話したらいいよ。聞くかどうかは別だけどね」

 どうしてここまでわかりやすいくらいに不機嫌なのか。理由は聞きたいが問い詰めるのも悪いんだろうな。

「男の子の日ってなんだったんだ?」

 意地の悪い質問だと思う。そもそも一方的に話せと言う奴に、質問して無理矢理会話を成立させようと言うのも悪い魂胆だ。

 案の定、眉間のシワが濃くなる。

「悪かったって、この愛情がたっぷり入った卵焼きをあげようじゃないか」

 少しだけ表情が綻びる。そりゃあこの旨そうな卵焼きを前にして怒り続ける奴なんてチキンだけだ。

「肉くれ、肉」

 そう言って俺の弁当箱から、ミートボールを盗りだす。

「あっ、うまいよコレ」

「ついでに卵焼きも食ってみたらどうだ」

「肉くれ、肉」

 そう言って俺の弁当箱から、メンチカツを盗りだす。

「これもイケる」

「口直しに卵焼きはどうだ? 甘くておいしいぞぉ」

「肉くれ、肉」

 そう言って俺の弁当箱から、唐揚げを盗りだす。

「うまーい」

「甘―い、甘―い卵焼き。デザート代わりにどうだ?」

「僕はダシ巻き卵派なんだ」

 そんなうちの親父直伝の愛情たっぷりの大得意料理に食指も動かないなんて……。こいつ前世でサルモレラ菌にでもやられたのか?

 もごもごと口を動かし、ごくんと音をたてる。その様子を見て、咽喉仏出てないな、なんてどうでもよい感想を抱く。

「さて涼の愛情がこもった料理を食べさせてもらったんだ。質問に答えてあげようか」

 どうやら機嫌は良くなったようだが、いちいちひっかかる言い方をする。

「じゃあなんでそんなに不機嫌なんだ」

「男の子でいたい日だからだよ」

 ますます訳がわからない。まぁ確かに男らしさは少ない気がする。顔つきは言わずもがな、髭も無いし、指もすらりと細長い。男として見られたいわけね。どうして見られたいのか。少し踏み込んだ質問をしてみることにする。

「美咲に男らしくないとでも言われたのか」

 ピクッと反応を示す。やはり美咲絡みのことに違いない。しばらく無言になる。こういう時はなぜか教室の喧騒も耳に入ってこない。

「……話してあげるから、今から君の部室に行ってもいいかな」

「他の人に聞かれたくない話ってわけか」

 了承し、弁当の残りをひっさげ部室に向かう。部室には当然誰もおらず、向かい合って座る。美咲も自分のクラスの連中と飯でも食べているのだろうから、この部屋に誰か来る確率は実質0%だ。だが常日頃からテロリストやゾンビが入ってきたパターンも想定しているため、三十%位はあってもいい。

 等と妄想するくらいには、しばらく何も話さないので、弁当を食い終えてしまうことにした。

「やっぱりその卵焼き頂いてもいいかな」

「ん、ああいいぞ」

 箸で掴み、光輝の弁当の蓋にのせる。やっぱ欲しいのか欲張りさんめ。卑しんぼ。

「ありがと」

 光輝はそう言い咀嚼する。旨そうに食べてくれるとやはり嬉しく思う。

「おいしい」

「だろ」

 冗談でもかましてくるかと思ったが、そういう気分ではないのだろう。

「……美咲に言われたんだ」

 食べ終わると唐突に話し始めた。いつもみっちゃんと言っていたのに、急に呼び方が変わると不安になる。

「私達はここまでだって」

 美咲から別れ話か? 何があったんだ。

「実は僕、キスする勇気がないんだ。ぐいっと引っ張って欲しかったみたいだけど、どうもね」

「お前等キスすらしてないのか?」

「したいとは思っていたんだけど、最近キスしたいとすら思わなくなっちゃったんだ」

「何言ってんのお前?」

 本当に何を言っているんだコイツは。

「身体が拒んでいるのかも知れない」

 拒絶反応ってなんだよ。

「それで夏休みから少し険悪でさ。僕からも何もしないから。進展がないし、なんやかんやで二人でいるよりも、三人でいる方が楽しいし。どちらかと言うと僕より、君の方が仲良いんじゃないかな。それでね、ついに昨日の夕方に別れ話を切り出されちゃった。なんだか付き合ってる気がしないって」

 夏休みって、部活が無い時はほとんど一緒に勉強していたよな。三人で笑いながら……。

「全然気づかなかった」

「美咲も僕も気づかれないよう気を使ってたかもね。せっかく三人仲良くなれたのに、これで気まずくなると皆で顔を合わせづらいから」

「無理させてたのか……」

 俺を巻き込むな、なんて言わない。いや、言えない。二人を付き合うように導いてしまったのは自分だからだ。

「でもね、これで良かったのかもしれない」

「強がり言うなよ」

 首を横に振る。否定するなよ、美咲と別れてよかったなんて話をお前の口から聞きたくない。

「強がりなんかじゃないさ。このままずるずると付き合っていたら僕は彼女を悲しませていたからね」

「何でだよ」

 聞きたくないはずなのに、質問してしまう。理由が理由ならあるいは納得できるかもしれないが。

「理由は二つ」

 指を二本立て微笑む。なんとなくVサインに思えてしまうのは顔のせいだろうか。

「一つは他に好きな人が出来てしまったんだ」

 思いつく中でも最低な部類に入る答えだった。

「何だよそれ」

「だから、向こうから切り出してくれた時、少しホッとしちゃったんだ」

「ふざけ―」

 立ち上がり、胸倉を掴もうと手を伸ばす。だがこちらの手が届くことは無かった。俺が授業中に躓いた時、答えを書き示してくれる、あのすらりとした綺麗な手が先に俺の襟元を掴み、光輝の方に引き寄せたからだ。

 そして、怒りを顕わにした俺の言葉も遮られる。

 何が起こったか解らなかった。いや、頭が理解することを拒んだ。だが、だんだんと知覚する。触覚より先に味覚が、俺に事態を伝えた。


甘い。


 そして理解した。

 慌てて光輝を突き放す。押された反動から、光輝は新聞部室にある張り紙を破く。あまり活動していない俺と美咲が作った原稿も、いとも簡単に裂かれていく。

「……美咲は僕との関係が停滞したままなのを嫌がり、別れ話を切り出した。僕も停滞は嫌い。それで一度失敗したから。今度は―」

「意味がわかんねえよ!」

 カッターシャツが汚れるのも気にせず、肩の部分で口を拭う。痛みを感じつつも、光輝の前だというのも気にせずただひたすら拭い続ける。

 光輝は、ただ俺のその様を見続けていた。弁明も謝罪もせず。

 数ある疑問の中で、一つの疑問が頭を駆け巡る。

 どうして俺はコイツの前から逃げださないんだ、と。


「何か言えよ」

 授業のチャイムはとっくに鳴っている。今頃、誰かが俺達がいないことを噂しているだろう。そんなことは今どうでもいいが。

「性急すぎたかな」

「そういう事じゃない。なんでこんなことしてきたんだ。身体が拒みだしたとか言っていただろ」

「歯止めが効かなくなっちゃったんじゃないかな」

「他人事のような言い方するな!」

 机を叩く。とにかく怒りをどこかにぶつけたかった。殴ってもいいのなら殴ってやりたかった。別にファーストキスがどうのこうのと言うわけでは無い。男同士というのもこの際我慢してやる。だが美咲と別れた次の日に、こんな行動を起こす光輝が信じられなかったからだ。

「君の怒りはごもっともだよ。欧米風のあいさつなんて日本じゃ通用しないからね」

「お前は俺を怒らせたいのか」

「ああ、怒ってもらいたいし、出来れば叱ってくれないか」

 怒りもあるが、だんだん恐怖感の方が増してきているのが自分でも解った。

「お前怖いよ」

 素直に今の気持ちを伝える。本当に怖い。この先、何を言い出すのか、想像できないから。いや、想像したくないから。それでも展開を想像してしまう。

 そんな俺の姿を見てか、光輝は寂しげに微笑む。

「怖がらなくていいよ。これ以上、僕の方から手は出さないから」

「俺が出すとでも言うのか?」

 光輝のニコリと笑う顔に、背筋が凍る。想像を超えている。ここからは未知との恐怖である。

「男女の間に友情は存在すると思う?」

 脈絡のない話に、戸惑う。いや、かなり前から戸惑ってばかりだが。

「……存在するなんて答えるのはリア充くらいだと思うけどな」

 とりあえず、質問には応える。逃げ出したい気持ちでいっぱいだが、今逃げ出せば最悪の未来しか見えてこない。身の危険。そんな一時的な痛みじゃなく、軽く使われがちな〝トラウマ〟という言葉が本当の意味を持ってやってくる。

「僕もそう思うよ。ただその男女の概念が解らないけどね。何を持って男とし、女となるのか」

 俺はお前が何を言いたいのか、まったく解らない。

「君は男で僕も男だ。そう思っているし、そうでありたい。僕は小さい時から女の子が好きだった。中学の時には親に隠れてパソコンで女性の裸体を見ていた。今でもアダルトな内容な本は好きだよ。だから僕は女性が好きなんだろうな。だけど美咲には手が出せなかった。身体的接触に嫌悪感があったんだ。……でもね、例外がいる」

「……それが俺か」

 こくりと頷く。

「僕は男だ。それなのに男である君を好きになってしまった。アイデンティティの崩壊だよ」

 そう言うと光輝は俺の腕を掴む。慌てて振り払おうとするが、見た目に似合わず力がこもっている。

「危害を加える気はないよ」

 そしてそのまま、俺の腕を胸元に押し付けた。

「なんだよ」

「解らないかい」

「ああ」

 光輝はそっと手を離すと、軽くため息をついた。

「男であるとは言え、なんだか傷つくな」

 ますます何がしたいのか解らない。俺が頭をひねらせていると、今度は自身のカッターシャツのボタンをはずし始めた。

「何する気だ!?」

 後ずさりし、部屋の扉に手をかける。前言撤回。逃げ出す準備は良し。このままでは貞操の嬉々。いや危機。危険危険危険。

 ここまで露骨に嫌がると、光輝は今まで見せたことも無いような悲しい顔をする。

「……脱ぐよりも、口で説明した方が早いか」

 なんとか思い止まってくれたようだ。俺も扉から手を離す。

「もう一つの理由、美咲にも言ってないんだけど、僕は一般的に言う性同一性障害なんだ」

「ん?」

 一瞬、頭が機能停止し、再び動き出すと、ものすごい勢いで事態を把握し始める。

 つまりこいつはホモになったんじゃなくて、心が女の子になっちゃったのか。だから女である美咲を避け、男である俺のことを好きになったのか。これなら辻褄が合う。

「僕は生物学的には女なんだ。心は男で、身体が女ってこと。心が男なら、女性を好きになるのが普通。だけど男である君を好きになってしまった。アイデンティティの崩壊ってのはそういう意味さ」

 俺の頭は処理能力の限界を迎え、思考を放棄した。


「昨日はごめんね」

「ん、ああ」

 放課後になり、部室に美咲が訪れる。

「どうしたの呆けて?」

「色々あってな」

 美咲が不思議そうな顔でこちらを見つめてくるが、応えようがない。数時間前、この部屋でお前の元彼と接吻したぞとか、お前の彼氏、実は彼女だったぞなんて言ってしまったら、混沌とした高校生活を送る羽目になりかねない。

「実はね、私の方も色々あったんだ」

 知っている。知っているから。これ以上俺に悩み事を増やそうとしないでくれ。悩み過ぎて、コイツが実は男でしたなんて言い出さないか不安になってきた。

「多分もう光輝から聞いたよね」

「……ああ」

お前もみっくんと呼ばなくなるのか。まぁ、実際はアイツもみっちゃんなんだよな。いや、アイツは一応、一応は男だからみっくんで正しいのか。

現実逃避は止めておこう。

「そう……。うん、別れちゃったんだ私達」

「やっぱ辛いのか」

 こくんと頷く。こういう時、俺はどうするべきなんだ。

「何でだろうね。あんなに好きだったのに、どうしてこんなに急に冷めちゃうんだろうね」

 美咲は、ぽろぽろと涙を零し始めた。ううむ。

「ごめん、美咲。俺こういう時に何してあげればいいか解らないんだ。必死こいて空ぶる慰めの言葉を言うべきか、何も言わずただお前の気持ちを聞いてあげるべきか」

 我ながら、逃げに徹している気がする。慰めたいと言う気持ちだけはあるが、下手なことをして嫌われたくないという気持ちのせいで動けない。

「そういうの―」

 泣きじゃくる美咲。俺はただおろおろし、先程の解答を待つ。

「―ずるいよ」

 なんでだ。

「相手の気持ちを考えての行動って大切だけど、時には我がままに自分の気持ちを相手に押し付けることだって大事だよ」

 なんで説教されなくちゃいけないんだ。

「それに何か、特定の何かをして欲しいから泣いているわけじゃないの。涼に慰めて欲しいって思ってるだけなの。方法は求めてないの、欲しいのは結果なの。過程がどうあれ、私が慰められたなら良いわけだし、逆に過程がどれだけ素晴らしくても私が泣いたままだったら無意味、無価値、無駄なの。結局は自己満足。偽善的行為にすぎないの」

 突然饒舌になり困惑する。こんなやつだったっけ。

「私は今、彼氏と別れました。振ったのは自分。嫌いだから別れたわけじゃなく、付き合っていることに意義を感じなくなったため。それに二人でいても、三人でいる時の方が楽しいなんて思っちゃうし。二人でいても心から楽しめない。なら別れてみて、自分の気持を整理してみる。だから昨日別れた。どう慰められたいのか自分でも解らない。でもなんだか涼に慰めて欲しい。それらをふまえ、考慮したうえで、自分なりの方法を用いて、この私を慰めてくださいお願いします」

 もしかしてだけど、コイツが別れたがった理由に俺が大きく関わっているんじゃないだろうか。そしてどっちも浮気性なんじゃないか。

「慰める側にも権利ってあるよな」

 逃げに徹する。今度こそ逃げなくてはいつか痛い目を見かねない。退却的撤退だ! 違った、戦略的撤退だ!

「今回に限りその申し立ては却下します。だから慰めて」

 玉砕せよと申すか。面倒臭い。光輝や美咲といい。どうしてこんな面倒なことを言ってくるんだ。

「時間が慰めてくれる」

 俺はそう言い、狸寝入りを始める。下校時間まで美咲が妨害をしてきたが、この日は初めて耐えきることが出来た。


 それから半年後。

 なんてことはなく。漫画やアニメ、創作物だったら、ここで数か月後なんて簡単に飛ばして、なんやかんやあったけど解決したよ、なんてことに出来るんだが、俺は今現在この問題に直面している。解決なんてしていない。

「それで俺は今日どうすればいいんだ」

 今はまだ光輝から女と言われ、美咲に慰めろと言われたその日の下校時間である。

「好きなように」

 光輝が言う。

「慰めて」

 美咲が言う。

 どういう状況かと言うと、一緒に帰る。うん、三人一緒に……。

「昨日別れたばかりなのに気まずくないのか?」

 我ながらわかりきったような質問をする。

「「すごく気まずい」」

 ハモる程仲がいいなら別れないでいて欲しかった。

「なら三人で帰らなくても良いんじゃないか?」

 そう言うと二人共ため息をつく。何か間違ったことを言ったか俺?

「君は僕のなんだい?」

「……親友?」

そう答えると光輝はうんうん、と腕を組み頷く。今日その親友に犯されかけたんだが。というより、なぜ今まで通りの生活を送れると思ってんだ。身体は女、心は男、でもホモ。一周回って普通の恋。そんな恋する男女(おとめ)に、これからどう接しろと。

 そして何より一番恐ろしいのが、あんなことをされたのにあまり嫌悪感を抱いていない自分である。女性とわかってしまうと、その、何と言うか、あれだよ、あれ。

 美咲が光輝を見て、軽く睨む。対処に困る。

「じゃあ私にとっての涼は?」

「……友達兼実験動物兼愛玩動物?」

 言いたくないが、弄ばれているとしか思えない。美咲は一瞬考えたような顔をし、にやりと口元を動かす。

「それでも良いか」

 なんなのコイツ。俺が惚れてた頃と印象が違い過ぎる。

「それで三人一緒な理由は?」

「三人一緒じゃないと、君はどちらか一方と帰るだろ」

「まあ、そうなるのかな」

「そうなるのはなんだか腹立た……相手に申し訳ないから、これからも三人一緒に帰ることにしたの」

「険悪なムードに巻き込まれるのは嫌なんだが」

「大丈夫、明るく振る舞うから」

「と言うことで、これからも変わりなく一緒に帰るの」

 よくわからないがこれはハーレムと言えるのか。光輝も女として見れば可愛く思えて来たし。美咲も可愛いし。

 考え方としては最低だが、最低すぎるが、なんだか悪くないんじゃないか。もちろん当分は気苦労の方が多そうだが。

「そういう事ならしょうがないか」

 自分でもわかる。今、相当ゲスい顔をしていると。

 でも、少しくらいは役得がないとな。



 時は必ず流れる。良くも悪くも。俺は三人でいる時間を楽しむだけ楽しんだ。だから答えを出さなかった。思えばあの日以来、光輝を男として見なくなっていた。それがアイツを苦しめていたとも知らずに。


「うちの高校は僕を男として扱ってくれたんだ」

 そういう制度がちゃんとあるから、光輝は男子の制服を着ていた。

「でも人はそうじゃない。必ず偏見を持っているんだ」

 体育を受けていなかったのは、どうしてもその偏見が顕著に出てしまうからだそうだ。

「僕だって隠したいわけじゃない。でもね、好奇な目で見られるのも辛いんだ」

 光輝はその気持ちを中学までは隠していたそうだが、高校で親の転勤と重なり遠くに来たため、それを機に、親にこれからは男として生きたいと告げた。

「結局僕を男の子として扱ってくれたのは真相を知らない人だけだった」

 そう言い、俺の頭を人差し指で突く。

「君もそうだろ」

 何も言い返せず、俺は光輝とは反対の方向を向いた。

「ごめん」

 こんな言葉しか出てこなかった。



 三年の冬、長い受験勉強の結果、志望校に合格した。俺と美咲は同じ東京の私立大学。光輝は……。

「あそこを目指すにはちょっと足りなかったかな」

「そうか」

 東京にある難関の国立大学を目指し、前期後期と頑張ったそうだが、どちらもわずかに点が足りなかった。美術学校を諦め、難関の国立大学を目指した時のことを今でも覚えている。

 人気のない喫茶店で、光輝と対面しながら座り、味気ないミルクティーをすする。

「これからどうするんだ」

「先生から受かった私大に行くように薦められたんだけど、僕はこの大学が良くてね。親に無理言ってもう一年勉強させてもらうことにしたんだ」

 受かった私大とは俺達と同じ大学である。相当悩んだようだが、結局夢を追うことにしたそうだ。

「俺も応援するから」

「言葉は空虚だよ。何を言っても心に響かない時は、無駄なだけ」

「なら俺に何かでき―」

 一年半前と同じように口を塞がれた。今度は俺も抵抗はしない。ただ受け入れた。甘いキスばっかりでさすがの俺も砂糖を吐きそうだ。

 光輝は、唇を離すと寂しげに下を向く。

「これが今の君にできること」

まただ。俺は善意を持って何かをしようとはする。けど、いつまでたっても何をして欲しいかを相手に尋ねてしまう。

 光輝が下を向いたまま、話し始める。

「僕がいなくなると涼は美咲とくっついちゃうんだろうな」

 何も言えない。この一年で美咲との仲が深まったのも確かだ。だが、未だに美咲に光輝が女であることを言っていない。傷つくかもしれないと思い、言うタイミングを逃したなんて逃げ口を言うつもりはないが、今はまだ俺と光輝の二人だけの秘密にしておきたかった。

「涼は寮に住むのかい?」

 光輝は今のが駄洒落になっていたのに気づき、少し顔を赤らめる。これが男のする反応かよ。

「今、やっぱ女の子だとか思わなかった?」

 今度はムッとする。

「お前が親友であることには変わりないよ。家に関してはまだ決まってないな」

 そう言うと光輝の顔から笑みがこぼれる。一瞬ニヤリとしなかったかコイツ。

「美咲の方は寮だっけ」

「ああ、そう言ってたな」

 まただ。絶対ニヤリとした。

「実は大学に受かった場合と、落ちた場合のプランがあるんだ」

 なんだか嫌な予感がする。

「たまに応援されても一年持つ気がしないんだよ、僕。誰かが傍で頑張れって言い続けてくれるとありがたいんだけど」

「言葉は空虚なんだろ」

「時と場合によるよ。それで僕の行こうと思う予備校と、君達の行く大学の中間地点にいい物件を見つけてね」

 資料を渡される。大きく赤丸が書かれ、愛の巣なんて言葉が注釈でつけられている。ここまであからさまに好意を見せつけられても反応に困るんだが。

「……ルームシェアってやつか?」

「これならまぁまぁ良い値段だろう?」

 確かに、金銭面的にはかなり良いが。良い……のかな?

「だが、男女が一緒の部屋に住―」

 すかさず、右手を口の前に持ってくる。案の定、右手に光輝の唇が触れる。行動パターンは把握した。俺が気に障るようなことを言ったらそうやって口を塞ぐ気だろ。

 だが、三度目はない。

「ちっ。おかしいな女なんていないはずだよ。僕と君は男じゃないか」

「男なら、同じ男である俺にキスしようとするんじゃない」

「君は知っているだろ。僕がホモだってこと」

 ああ言えばこう言う。なんなんだコイツは。

「お前が三年の春にそういう感じのこと言ったから、美咲がショック受けたのを忘れたのか」

 忘れもしない。三年の春。運良く同じクラスになれた俺達は、昼飯も三人一緒に食べるようになった。そして俺が弁当の卵焼きを食べている時、光輝が横から盗りだし『キスと同じ味だ』なんて言うから……。

「まぁ、美咲も僕がそういう気があることは薄々わかってはいたみたいだよ。恋のライバル出現に度肝を抜かしていたけどね」

「それに、元彼がホモでしたってアイツが呟くからクラス中にも広がっただろ」

「あの時は辛かったな。実は俺もなんて隣のクラスの人が言ってきて。告白を断る時に『涼限定だ。勘違いするなホモ野郎』って遠まわしに涼に告白しちゃったもの」

「アレのせいで俺までホモ疑惑出たんだぞ」

「認めちゃいなよ。自分もホモだって。そうすれば僕は嬉しいんだけど」

「俺は――」

 ―俺は今どんな顔をしているのだろう。光輝の背後に微笑む美咲が立っていた。裏がある笑い。作り笑い。心から笑っていない。怖い。

「涼はホモ達と一緒に住むのかなー?」

 光輝もビクッと体を震わす。

「やあ美咲……元気だった?」

「大学に落ちて、凹んでやしないかと心配してみれば、いちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃ。彼氏が親友(男)に寝取られたとでも写真添付して書けば、反応凄いわね」

 ああ、俺もホモだと思われているのか。もうどうにでもなれ。

「って、そもそも俺達はそういう関係じゃないぞ。俺はフリーだぞ」

「そういや涼って万年オールフリーだよね」

「意味がわからんが、彼女がいたことはないな」

「はは、彼氏がいるじゃないの」

 美咲は笑っているが、美咲に手を肩に置かれている光輝はすごく引きつった笑みをしている。万力のような圧力がかかっているのだろう。

「いったいなんなんだよ……」

 ひと悶着あったが、四月から光輝とルームシェアすることが決定した。美咲が最後まで渋い顔をしていたのは言うまでもない。


 五月。美咲と共に適当なサークルに入り、交友関係を着々と広げている頃。光輝は予備校で同じ大学を目指している仲間が出来たらしい。

「瑞樹さんって言ってね。なかなか可愛い子なんだ」

「写真とか無いのか?」

「僕は遊びに行っているわけじゃないからね。写真を撮り合うなんてしないよ」

 光輝はそう言い、ご飯を茶碗によそう。共通の机に夕食をのせ、食事を開始する。

「しかし、光輝の口から女の子の話が出てくるとは」

「まー、ホモって自分で言ってはいるけど、君以外の男には興味ないし。基本は女の子が好きだからね」

 じゃあ、たまたま好きになっちゃった子が男だったってだけなのか。まあ、他人事の様に言うけど、該当者俺だった。

「前に女性とキスするのが嫌になったとか言ってなかったか?」

「うーん身体的接触に違和感は覚えるね。それに短絡的に気になる子=性欲を満たしてくれる子って考えないでほしいな。あくまで健全に、ピュアに行きたいんだ。好意=性と捉えるのも苦手だね」

「俺に対しても健全であって欲しいな。それに俺が言うのもなんだが、結構浮気癖あるよなお前。ピュアとか言うくらいなら一人の子だけを好きでいろよ」

「男なんて皆そうだって。それとも俺だけを好きでいろとでも言うのかい? 嫉妬かな?」

「馬鹿言え」

「大体、男は皆、付き合えるなら付き合ってもいいなんて思ってるよ」

「それって両性共に当てはまらないか?」

「男の方がその気が強いと思うけど? やれたら良いみたいな」

「でも、お前は女性をそういう目で見られないって言ってるわけじゃん?」

「違うよ。いざとなると身体が拒むだけだって。知人の裸体には興味はないけど、エッチな本とかは持ってるじゃないか」

「でもそれだけだと、なんだか男らしくない―」

 ―このパターンは。

素早く右手を口の前に持ってくる。今回も防げる。そう確信した。

しかし、いくら待っても光輝に動く気配がない。それどころか平然と飯を食べている。

「どうしたの? 変な恰好して」

 ニヤニヤとこちらを見つめてくる。早とちり、そして痛い奴。これじゃキスするのを期待しているみたいじゃないか。

「……何でもない」

 そう言い、再び箸を掴もうとすると、光輝に引っ張られ、口を塞がれる。

 やられた。ブラフだ。

「ご馳走様」

 今時、少女マンガでもなさそうなセリフを吐いて、食器を持ってキッチンへと去っていった。

 そして皿洗いを終え、当然の様に俺の前に座る。

「前から思ってたんだけど、お前って気まずさとか羞恥心とか感じないの? いつも後々のこと考えずに行動に移すけど。俺が逃げ出したり、訴えたらどうするの?」

「後悔先に立たず。思いたったが吉日。それに僕らは親友だろ?」

「親友を都合の良い様に解釈するんじゃない」

「最近美咲とばっかり仲がいいから嫉妬してるんだよ」

 ムスッと顔をしかめる。この表情を何度見てきたことか。

「この前の土曜だって美咲と遊んでて朝帰りだったでしょ」

「サークルの飲み会の後、カラオケでオールだったんだよ」

「本当は何してたんだか」

 疑ってくるなよ。そもそも俺等は付き合っているわけじゃないんだから自由だろ。ただの同居人だろ。


「それで光輝は瑞樹さんとどうなったの?」

 美咲は目をキラキラとさせて聞いて来る。コイバナが好きな女の子だったかコイツ。

「なんも進展がないってよ」

「なんだ、つまんないの」

 本当につまらなそうな顔をする。

「しかし、生粋なホモになったわけじゃないんだね」

「まぁ今でも普通に男向けのエロ本読んでるしな」

 高校時代とは打って変わり、美咲の髪は明るい茶髪になった。黒髪の頃を知っている分、最初は慣れなかったが最近は似合うと思ってきた。

 そんな髪を悠長になびかせながら、俺の隣を歩く。キャンパス内を二人で歩くとき、大学で出来た友人が冷やかしに来るが、彼らが妬むような仲ではない。

「そういう涼は光輝との進展は?」

「何にもないぞ」

 キス以上は何も。

「好き好き言われてたじゃない」

「今でも言ってくるけど、あいつは浮気癖っぽいところあるから、ころころ好きな人変わるぞ」

「あー。元カノながら、そこらへん苦労したわー」

 二人が付き合っていた時期がすごく遠くの頃の様に感じられる。

「もしかしてだけど、あの頃から光輝って涼に惚れてたのかな」

 言えない。君達が別れた次の日に、キスされたなんて。

「まあ、いいか。昔のことだし」

 コイツ心広いな。

「今が楽しければそれでね」

 そう言うと、美咲が腕に抱き着いてくる。珍しい行動だったが、特に無理矢理引っぺがすようなこともしない。

「あれ、涼って意外と女性慣れしてる?」

「なんで?」

「どぎまぎしそうなもんなんだけど」

 光輝に抱き着かれることが多く、気にしないようにしていた結果、純粋な女の子に抱き着かれても平然としていられるようになってしまったようだ。

「なにか裏がありそうだね」

「単純にお前だからドキドキしないんじゃないのか」

 ムスっと顔をしかめる。こっちはこっちで愛嬌のある顔である。

「ああ、もしかして本当にホモに……」

 しかし探られると、色々と面倒なことになりそうだ。


「あの子可愛いいよね?」

「メガネの子か?」

「そのおデブちゃんの隣」

 待ちに待ったクソ長い夏休み。俺は光輝の気分転換に付き合わされ、とある世界的なアミューズメントパークの近くの喫茶店にいる。光輝はそこで、大学に受かったら行ってやる、という気持ちで勉強している。さすがに疲れたようで光輝は息抜きに人間観察をしていた。さっきから聞いていれば中々に口が悪い。

「デブってのは失礼じゃないか。あんくらいはまだ許容範囲だろ」

「君はポッチャリの方が好みなのかい?」

「まあ痩せすぎなのよりはな」

 光輝はそう言い、自分の腹をつまむ。つまめてない。少し不満げな顔をしているが安心しろ、俺もデブはお断りだ。

「ストレス溜め込んでるみたいだな」

「予備校のアイドル、瑞樹ちゃんがレズビアンだったことにショックを受けてるんだよ」

 レズってことは女の子が好きなんだろ。ならちょうど良くないか、と口に出しかけたが、コイツは一応男なので対象には当てはまらないようだ。

 しかし、前々から疑問に思っていたことを話せる良い機会ではないだろうか。

「光輝って心が男って言ってたよな?」

「まあね。身体に関しては隅々まで知っているだろう?」

「黙ってろ変態。でだ、身体が女性で、女性が好きってことは性同一性云々の前にレズビアンと一緒なんじゃないのか?」

「うーん、応えづらい質問だね。僕は違うと思うよ。男から女になるのは、それらしい恰好をすれば一発なんだけど、逆だとボーイッシュな女性としか受け取ってくれないから、理解され難いんだ。テレビにオカマはよく出てくるけど、逆の立場の人は見かけないだろ? 筋骨隆々じゃなきゃ男らしさというのをアピールしづらいんだよ。でも皆が皆、マッチョに憧れているわけでもない。だから華奢な女性の身体で、心が男の人はただのレズだと思われてしまう。まったく生きづらい世の中だよ」

 やれやれ、といった様子で、再び外を見学する。気に障る質問だったようだ。反省し、後で詳しく調べておこう。

「後、バイセクシャルなだけじゃないかという質問も禁止。男には欲情しない。例外は君だけ」

 俺にも欲情しないで欲しいんだが。知ってるからな、俺と同じボクサーパンツを履いて、洗濯物たたむ時にどっちがどっちのか解らなくしてるってことは。

 人間観察を堪能し終えたのか、こちらを向き微笑む。

「涼、僕が大学に受かったら、一緒にあそこに遊びに行かないかい?」

「良いけど、美咲もつれてか?」

 一瞬体がピクッと動く。私という女性がいながら、他の女の話はするなとでも言うみたいに。違った光輝は男、光輝は男。染色体がXXの男の娘。

「そこは君に任せるよ。二人きりが嫌ならね」

「今更、嫌なんて言うかよ。生まれて初めてのデートの約束だ。後半年程待ってやるから、これ以上遅刻しないでくれよ」

 我ながらキザらしい言い方をするものだ。だがこれで赤面してくれるとは、少しちょろいぞ光輝。

 次の月、美咲と一緒のサークル仲間で遊びに来たことを光輝に知られ、俺の顔が液体的な意味で真っ赤に染まったのは良い思い出。


「実際の所、涼って光輝をどう思ってるの」

 美咲よ、先生の話がつまらないからって講義中に聞いて来る内容じゃないと思うが。

 秋にもなると授業にも慣れてきてしまい、少し堕落する者も多くなる。俺と美咲も例外ではない。

「親友。以上」

 こういう時は簡潔に答える。下手にあれこれ言うとボロが出そうだ。

「親友以上恋人未満ってとこか」

「以上の前にちゃんと区切っただろ」

 美咲はふむふむと頷き、何やらスマホに打ち込む。

「何やってんの?」

「BL好きの先輩がいるから教えてるの」

「マジで止めて」

 しぶしぶスマホを鞄にしまい、俺のノートに落書きを始める。授業の内容以外は消してしまいたいが、消すとコイツも怒るのだ。高校時代の光輝を彷彿させる。こちらは絵があまり上手ではないみたいだが。

「じゃあ私のことはどう思ってるの?」

「どうって、すごく気の合う友達」

 もはや愛玩動物とご主人様という感じではない。

 期待通りの返答じゃなかったのか、ため息をつかれる。

「まぁ、それでいいか」

 描くのに飽きると、今度はうつ伏せになる。

寝るのか、と聞く前に美咲が口を開ける。

「よし決めた」

「何を?」

「今日遊びに行っても良い?」

「良いけど、なんももてなせないぞ」

 さらっと了承してしまったが、光輝の許可も得るべきだったか。

「じゃあサークル終わったらね」

 今更却下出来ず、そのうえ美咲は眠りについてしまった。俺は、つまらない授業を聞く気にもなれず、ぼーとその寝顔を見ていた。


「ただいま」

 ドアを開ける。鍵はかかっていない。基本は光輝の方が先に帰っているからだ。俺が靴を脱ぐより先に、美咲は上がっていき、光輝のいるであろう共有スペースへと向かう。

「光輝いるー?」

 美咲の声が玄関に響く。どうやらリビングにはいないみたいだ。

「美咲じゃないか、久しぶり」

 部屋から、光輝が現れる。勉強していたようだ。

「元気だった光輝?」

「んー、勉強ばっかりで少し疲れてきたけどね」

「自分で選んだのだから、頑張りなさいよ」

 態度が少し冷たくなったか。M&Mなんて呼ばれていた頃がウソのようだ。

「今日はどうしたの?」

「愛の巣窟を見学に来ました」

 了承するんじゃなかった。光輝もなんだか焦りだす。

「あっ悪趣味だね」

「冗談冗談。光輝もよく冗談言うでしょ」

 じゃあいったい何しに来たんだ。それに光輝よ、そこで安心したら何か隠していることがバレバレだぞ。

「ちょっと聞きたいことがあってね」

 光輝に用事か。スマホで話せばいいのに。俺は、立ちっぱなしの二人をよそに座椅子に座る。

「何かな?」

「光輝って本当に男?」

 座っていてよかった。立っていたらずっこけていただろう……光輝みたいに。

 腰を抜かしたのか、倒れたまま動けないようだ。目で助けを求めてくる。助け舟を出すか。

「美咲は、どうしてそう思ったんだ?」

「否定をしない、そのうえ冷静を装い根拠を求めてくる。探偵ものの真犯人にありがちな行動をとるのね」

 助け舟がいきなり沈没するとは。

「僕は男だよ。たしかに見た目は女性みたいだけどね」

 嘘は言っていないな。心は男だし、見た目は女性というか身体が女性だしな。

「実は前々から気になってたの。女性っぽい仕草をするなって。かなり疑い出したのは夏休み。掃除を手伝いに行ったでしょ」

 ああ、光輝のエロ本が見つかって、大騒ぎしてた時か。でも、あの時の本は普通に男性向けの本だったはずだが。

「その時は聞く勇気がなかったんだけど。なんでクローゼットに生理用品があったのかしら」

 男にとっては生々しい話。だが、これって下手に女物の品があるより言い訳できなくないか?

 予想通り光輝の顔が青ざめていく。

「女友達が忘れていったとでも言えばいいのに。まぁいいわ。それに最近ね、私の友達に男なんだけど女性の服を着てくる人がいるの。その人、心が女の子なのよ」

 話し方からして確信しているようだ。事実を伝えなかったつけが今夜回ってくるだろうな。

「それでその子のことを見ていたら、今までの光輝の言動に納得がいったの。本当は女の子で、男のフリをしているんだって」

 今の言葉はまずい。そう思い立ち上がる。やはり光輝もカチンときているようだ。眉間にシワをよせている。

「男のフリって何かな。フリも何も僕は男だよ」

「隠さないでよ。別に怒りに来たわけじゃないの。事実確認に来たの。本当は女なんでしょ」

「君は何をもって僕を女だと言うんだい」

 美咲が喰い気味に言うため、光輝も喰い下がらない。怒りに来たわけではないと言う彼女の瞳は、見る者を恐慌させる凄みがある。このままだと殴り合いに発展しかねない。

「落ち着け、二人共」

 ありきたりな行動しかとれない自分をつくづく情けなく思う。

「涼も他人事じゃないよね。私に隠してたんでしょ」

 当然こちらに飛び火する。確かに隠していた。けれども。

「光輝は男だ。一緒に暮らしている俺が言うんだから」

「そう、あくまで白を切る気」

 美咲の怒りももっともだ。嘘は言っていないが、本当のことも言っていない。

 光輝が深呼吸し、美咲を見つめる。

「美咲。じゃあ君が望んでいる答えを言うよ」

 良いのか、と目で訴えると、光輝はコクンと頷く。

「たしかに僕は君が思う通り女だ」

「やっぱり嘘ついてたのね」

 美咲があきれた顔をする。

「でもね心は男なんだ。だから本当の意味で女性じゃない」

 光輝はしっかりとした口調で言う。言いたくて仕方がなかった言葉なのだろう。

「だから男のフリじゃないんだ。僕は男なんだよ」

 美咲は何も言わなくなった。俺の方を一度見ると再び、光輝の方を見つめる。泣いていた。哀しそうな顔をして。その涙が何を意味するのか、理解する前に美咲が次の質問をする。

「じゃあ、なんで涼のことを好きになったの? 私はそれが聞きたくて来たの」

 俺もそれは聞きたかった。心が男なら、女性を好きでなければおかしくないか。

「僕も解らない」

 美咲の顔が一変し、怒りを顕わにする。

「それは私の望む答えじゃない」

「僕にはこれが精一杯な答えだ」

「まだ私に隠しごとする気なの」

「正直に答えたよ」

 光輝に鞄を投げつける。避けそこねもろにお腹にくらう。

「光輝っ!」

 光輝に駆け寄る。光輝はお腹を押え、顔を苦痛で歪める。

「大丈夫か」

「うん。……美咲、暴力で訴えるのは良くないよ」

「じゃあ、私に嘘をついていたのは良いって言うの? 言葉の暴力は許されるの? 言葉で訴えられない人は黙らなくちゃいけないの? 言葉で言っても聞いてくれないからこうしたんじゃない! 二人して私を騙して、陰で笑っていたんでしょ? そんなの精々、痣になるだけ。私が心に負う傷よりも優しいもんじゃない」

 出てくる言葉が無かった。言葉で伝わるモノには限度がある。言葉以上に伝えたいモノがあるから人は暴力で訴えるんじゃないか。でもそれを認めるわけにはいかない。これ以上光輝を傷つけさせたくない。

「光輝。私だって涼が好き。あなたが男だと思っていたから同居も最後は認めた。でも実際あなたは女だった。あなたのやり方が許せないの。身体が女だろうが男でいたいなら男でも構わない。でも、それなら女性を好きでいなさいよ。中途半端にならないでよ」

「好きになっちゃったんだから仕方ないじゃないか」

「なら女でいなさいよ。身体にあった行動をしなさいよ。女の子らしく生きなさいよ。だから男のフリをしているようにしか見えないのよ」

 光輝も黙ってしまった。かなりショックを受けてしまったのだろう。以前アイデンティティの崩壊と言っていたことがあるが、このことが悩みの種なのだろう。

「光輝、男でいたいなら涼のこと諦めてよ。女性として生きるなら私は納得するし、今までのことも大目に見てあげる」

「美咲、それはお前が決めることなのか?」

「解ってる。ただの醜い嫉妬だってことは。でもね、負けるにしてももっと気持ちよく負けたいの。正々堂々戦って負けたいの。今のままだと、光輝は男のフリをして涼に接近するずるい女じゃない。変に女性慣れしてる理由もわかったし。こんなのフェアじゃないわ。それに涼が決めないから。嫌がりも、受け入れもせず、弄んでるのと一緒じゃない」

「弄んでるってなんだよ」

「私と光輝をよ。ずっと高校の頃みたいにいられると思ったの? 時間は進むの。前に、前に。ただの友達なら停滞でもいい。でも熟れる前の恋心をほったらかしにするのは悪趣味。答えを出して、逃げ出さずに。好きなら好きと言って。狂おしい程、あなたに愛を口ずさむから。今度こそ逃がさないように、崩れないように。二人の未来を愛でるから」

 まただ、また俺は動けず、ただ聞き入るしか出来ない。このポエムの様な言い口は何なんだ。自分を飾っているような言葉の羅列はいったい。

「振るなら振って。縛り付けないで、昇華させて、この恋心を。諦めさせて、道に落ちたアイスの様に、腐った果実の様に。振り返らせて、甘酸っぱい青春だったと。一人で過去を懐かしむから。停滞は嫌。時の流れに逆らうようで。景観を害すダムの様で」

「……美咲?」

 美咲は涙をボロボロと零していた。自分でも支離滅裂なことを言っていることに気付いているのだろう。それは自分自身を納得させるかのように続く。

諦めたい、と言わんばかりに。

 鞄を拾い、美咲は部屋を去ろうとする。

「決めてよ涼。私はこれ以上先延ばしにされたくないから」

 そう言い、部屋を出て行った美咲に、俺は何の声もかけることが出来なかった。

 言いたくても、言えなかった。行動の裏が読めてしまったから。

 なぁ、美咲。どうして嫌われようとするんだ。

こんなことを言われて、俺がお前を選ぶことなんて出来ないじゃないか。お前がやろうとしていることは、俺がお前達をくっつけた時と似ているからわかるんだ。自分を押し殺してまで相手を幸せにしようとする。自己犠牲の精神なんだろ。

 噛ませ犬のように。情けなく、惨めで、他者から嘲笑され、愚弄される。どうしてお前までその道を選んだんだ。

 俺が動かないからか、決めないからか。

 お前に対して、好意を示さなかったからか。

 俺が、お前と光輝をくっつける手伝いをしなければ、こんなことにはならなかったのか?

 責任は俺にあると言うのなら。

 決めるよ。

 お前が気づかせてくれたんだ。

 俺は昔から光輝が好きだったんだと。

 だからあの時、キスされても逃げなかった。

 コイツと離れるのが嫌だったから。

 だから二度目は受け入れた。

 傷つく姿を見たくなかったから。

 だから……。

「光輝」

「……なにかな」

 光輝の瞳から涙が零れていた。男泣き、そんな言葉が不釣り合いな泣き顔を見てしまうと、俺は堪えきれず光輝を抱きしめた。

「涼?」

「ごめん。でもしばらく、こうしていたい」

 抱きしめてみると、男にはない、女性特有の柔らかさを感じた。その時、俺の方から抱きしめるのは初めてだと気づいた。

「好きなんだ。お前のことが」


「やっとくっついたんだ」

 気まずい。すごく気まずい。人生には省略できないことがある。だから言わなくては。

「ああ、光輝とちゃんと付き合うことにした」

 美咲への報告。一瞬キャンパス内の時間が止まったようにさえ感じられた。

「おめでとう。心からは喜べないけどちゃんと決断したんだから誉めてあげる」

 ごめん。そう言いかけた。だが、それはすごく失礼なんじゃないかと感じ、心に留めておく。

「ありがとう」

 前に進ませてくれてありがとう。

 俺がそう言うと美咲は一瞬だけ寂しい顔を見せ、その後微笑んでくれた。

「やっときれいさっぱり涼のこと諦めることが出来たよ。いろいろ言いたいことはあるけど、言い訳だし、立つ鳥跡を濁しまくりだし、女がすたるから言わない。でもね、涼。老婆心と言うか、嫉妬心から一つだけ意地悪なことを言うけど」

 大きな山を乗り越えた今なら、何を言われても耐えられそうな気さえする。

「涼は光輝を男として見てる?」

 越えるべき山はまだあったようだ。


 早いもので、テストが終わり大学生活で初めての春休みがやって来た。

 そして、光輝も見事志望校に受かることが出来た。

 美咲も光輝との交友関係を回復し、合格発表を一緒に祝ってくれた。

 何事も順調の様に思えていた。

 だが、俺はまだ一つの問題を抱えていた。

 光輝との付き合い方だ。

「涼、そろそろいいんじゃないかな」

 光輝がぼそっと聞いて来る。

 お互い寝間着姿でリビングに居た時のことだった。

 何が言いたいかはわかっている。据え膳喰わぬは男の恥と言う言葉があるが、この場合どうなるのだろうか。俺は男、光輝も身体は女性だが一応は男。これは女性の方からのアタックの仕方であり、男同士では関係ないのでは。この場合、喰わずに腐らせてしまうのもありではないか。

「君が何を悩んでいるかはわかるよ」

 だが、隣にすり寄られてまで誘われているこの状況は、鼻先に飯があるのに待てと言われる犬よりも辛い。

「光輝……」

「でも君に任せたい。はっきりしたいんだ。君が僕のことを好きなのは本当かもしれない。けど、僕を好きな理由は僕が女性だからじゃないのか?」

 反論出来ない。光輝が本当に男だった場合、俺は果たして恋心を抱けていただろうか。男だと頭では理解しつつも、女性として見てしまっていた。光輝が好きだとわかった理由も、コイツを守りたいと思ってしまったからだ。結局は同じ男として見ていなかった。

「俺は……」

 でも言えない。言ってしまうと俺は光輝を傷つけることになる。

「深く悩まなくていい。ただ率直に素直に、本能的に僕を求めてくれ。言葉は空虚だ。行動で示してくれ。それが僕の望む答えじゃなくても」

 そう言うと俺の口を塞いでしまった。言葉で逃げられないように。

俺も答えを出すために、それに応じた。



「結局僕を男の子として扱ってくれたのは真相を知らない人だけだった」

 そう言い、俺の頭を人差し指で突く。

「君もそうだろ」

 何も言い返せず、俺は光輝とは反対の方向を向いた。

「ごめん」

 こんな言葉しか出てこなかった。

 ぎゅっと身体を抱きしめられる。

 肌と肌が触れ、背中に光輝の頭部があたる。

 そして先程まで甘い吐息が漏れていた口から、すすり泣く声が発せられる。

 俺は今、速下光輝を女として抱いてしまった。

 彼女、いや、彼が望まぬ、自分の我がままを押し付けてしまった。

「確かにこれは望んでいなかった答えだ。僕が一番恐れていた答えだよ」

 背中を冷たい雫が伝う。

「でも涼が僕を求めてくれたのには感謝しているよ。哀しさと嬉しさ、この涙は二つの意味をもってる」

 堪えきれず俺は、光輝の方に振り返り抱きしめる。

「ごめん。ごめんな」

「良いんだ。答えが出て満足している。それに急かしたのは僕だ。もっと時間を置けばよかったのかな」

「悪いのは俺だ、俺なんだ。だけど信じてくれ。俺はお前が好きだ。本当に好きなんだ」

「わかるよ。愛されているってことは。でも、それは本当の愛なのかな」

 いつの間にか俺も大粒の涙を流していた。自分のこの気持ちが自分勝手な愛情表現だと、怒りと情けなさを覚えて。

「その人の本当の姿を愛せないなんて、愛と言えるだろうか。僕が牧師さんだったらそんなことを言っているだろうな。でも愛し方、愛され方なんて、生きとし生ける物の数だけあると思うんだ。だから僕は涼の愛し方を否定しないし、恨まない」

 光輝が顔を上げる。そしてじっと俺の目を見つめる。

「そのうえで聞きたい。涼はこの先、僕にどうあって欲しい? 僕も悩んでいるんだ。自分の生き方についてね。男でいたいなら、手術や薬物投与で男になればいい。だけど男になったら君は、僕を好きでいてくれるかい? 僕は君を好きでいたい。この思いが男の心か、女の心かは解らないけど。それらを越えて僕自身は君を望んでいる。だから教えて欲しい。君は僕にどうあって欲しいか」

 光輝の生き方を決める重要な決断。俺は、光輝が好きだ。そのことに嘘偽りはない。しかし、本当にそうなのだろうか。俺が明確に恋心を抱き始めたのは光輝が女性だと知ってからだ。しかしそれ以前にも兆候はあったのかもしれない。時間の問題だったかもしれない。だが、俺が好きになった光輝は……。

 嘘はつけない。傷つく姿を見たくないと思っていたのに。俺は――光輝、ごめん。

「俺の……俺の女でいてくれ」

 そして俺はありのまま、我がままで、自己中心的で、自分に都合の良いような言葉にして吐いた。

 光輝は悲しそうに微笑み、俺の胸に顔を埋めた。



「お父さん投げて投げて」

 河原で子供が買ってもらったばかりのグローブをはめ、大きく手振りする。

「ああ、頑張ってとれよ」

 父親とのキャッチボール。ドラマや漫画で良く見る親子のシーン。

 俺は息子に取れるような速さのボールを投げる。上手く取れずに慌てる姿も可愛いものだ。

「パパって感じがするね」

 青い芝生の上にシートをひき、そこに座る女性が言う。手元には色エンピツと画用紙が置いてある。そこにはキャッチボールをする親子の姿が少し美化して描かれていた。

「まぁ、自分のイメージのお父さんを演じているからな」

「演技なんかじゃないよ。あなたのその姿は自然な姿」

「じゃあお前も良いママって感じがするよ」

 息子の投げた球を受け取り、さっきより取りやすそうな速さを意識して投げ返す。

「それって皮肉かな?」

「ごめんごめん」

 俺が謝ると光輝は、優しく微笑み返してくれた。

 彼、いや彼女は自分を偽って生きていくことを選んだ。

 本当の愛じゃないと知りつつも、俺の気持ちに答えてくれた。

 辛い生き方をさせていると思う。

 どこかで償いたいとも思う。

 どうやって償えばいいのか、なんてもう聞かない。

「ちょっと休憩」

 そう言うと俺はグローブを外し、光輝に渡す。

「どうしたの?」

「お父さんでいたい時もあるんじゃないか?」

 光輝は一瞬ため息をつき、下を向く。

「女性でいてって言ったのは涼じゃないか。僕を女にしたのも」

 少しだけ昔の口調に戻る。なんだか懐かしく、そして心地いい。

「俺はすごく我がままなんだ。光輝には女性でいて欲しいが、我慢もさせたくない」

「ホントに我がままだね。僕の決意が揺るぎそうじゃないか」

 ぽろぽろと涙を流す光輝を、息子の前だというのにぎゅっと抱きしめる。

「お父さん! お母さん泣かしちゃだめだよ」

 息子にごめんごめんと謝ると、この子はムスっと顔をしかめ光輝に抱き着いた。今の顔は光輝に似ている。

 光輝が息子の頭を撫でる。その目はどう見ても母親の目である。そしてその瞳をこちらに向ける。

「でも、その優しさは失敗かな。だって僕……私が男でいたらこの子には会えなかった。あなたと子供の三人でいられなかった。我慢せずに得た生活が、我慢して得たこの生活より勝っていたとは思えないもの」

 余計なことをしてしまった。俺は馬鹿だ。結局、自分で決めるのはどうにも苦手なようだ。

「でもね」

 俺が差し出したグローブを左手にはめて言う。

「男とか女とか関係なく、子供と遊びたいのは確かだよ」

 そういうと泣いていたのがウソのように良い笑顔をして、息子を誘いキャッチボールを始めた。光輝も息子もすごく楽しそうに笑っている。その光景が、彼等の笑顔が眩しくて、とても眩しすぎて涙が止まらなかった。

 俺のエゴが生んだ幸せを、幸せと思ってくれる光輝に申し訳なさと、感謝の気持ちでいっぱいだった。

 そんな俺に息子が近づき、ぎゅっと抱き着く。

「もう。お父さんもお母さんも、泣き虫なんだから」

「ちょっと眩しかっただけだよ」

「嘘はいいよ。本当は寂しがりやなんでしょ」

 そう言うと、俺の手を小さな手で掴み、光輝の待つ場所へと連れて行く。

 微笑む彼女と息子に、俺はありがとう、と小さくつぶやいた。




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Artificial Flower テン @ten1028

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