淋しい国のお伽話

行木しずく

1. 昨日の雨がちいさな水たまりになって残っていた朝、プラネタリウムの柔らかな椅子に座ったままで眠っていた人についての話

「お兄さん、終点だよ」

澄んだ水が跳ねるような高く柔らかい声に脳みそが揺り起こされる。

目を開いてすぐ視界に入ったのは丸く大きな金色の瞳。

少し引いて視界が開けると、黒い艶やかな髪がサラサラと頰を撫ぜていた。一瞬混乱するものの、背後から覗き込まれる姿勢か、と理解した。

「目が覚めたかい?」

「……あぁ」

「それは良かった」

少年の瞳が緩やかに弧を描く。

「よく眠っていたから、本当はそのままにしておきたかったんだけどね」

「申し訳ない……」

「良いってことですよ」

音もなくするりと隣の席を陣取って、少年は楽しそうに笑う。

「プラネタリウムって、眠るには最高の場所ですよねぇ」

「プラネタリウムで働いている君がそんなこと言っていいのかい?」

「事実ですからね」

悪戯っぽく笑うと、少年は私の手を引く。真夏の井戸水のような冷たい手。

少年の左手が私の右手に絡まって、少年の右手が私の左頬をやわやわと辿る。

未だぼやけていた脳が、徐々にはっきりとしてくる。

「……本当は、お兄さんを終点の向こうへ連れて行きたかったんだけど、」

淋しそうに笑う少年に向かって手を伸ばそうにも、冷たい手が私を動けなくする。

「さぁ、閉館だよ」


さよならだ、お兄さん。


耳元からぼこぼこと水音がする。あの頃、プールの底から空を見上げたように、視界がゆらゆらと煌めく。冷たい手が無情に離されて、俺は必死に手を伸ばす。どうして、またさよならなんだまた遊ぼうって約束したのに、俺は、君と、



ふと目を開けると、日の光が差し込む球体の天井が視界に入ってきた。

一瞬状況に混乱して、そうだあの頃しょっちゅう通っていたプラネタリウムが閉館されたと聞いて来たのだったと思い出す。

打ち捨てられたプラネタリウムは、山の中にあるせいか取り壊されることはなく、時折やってくる悪ガキに悪戯されつつも当時の面影を残していた。

椅子からゆっくりと立ち上がる。

運動不足なせいでみっともないくらいに息切れして爆音を鳴らしていた心臓も、流石に落ち着いていた。

あの頃、やっぱり悪ガキで淋しかった私を静かに受け入れてくれていた場所がなくなってしまったのは、やはり辛い。

大人になってしまった私は、きっと今日から少しずつこの場所のことを忘れていって、忙しい日常で風化してしまって、そうして二度と思い出すことがなくなるのだろうと、何故か確信していた。

ぱしゃりと、足元で水滴が弾ける。


遠くで、黒猫の鳴き声を聞いた気がした。


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