ありふれた失恋の話

ごんべい

ありふれた失恋の話

「大丈夫か、沙夜」

「っ……、ええ。大丈夫よ……、兄さん」

 恋をするというのは、あまりにも苦しくて切ない。胸を締め付けられて、息が苦しくなる。目の前でご飯を食べている兄さんの顔をぼーっと見ていると、すぐにでもその唇を奪いたくなってしまう。

「なら、いいんだけど。生徒会長、大変か?」

「ううん。大丈夫。生徒会の人たちはいい人だから……」

「そっか。まぁ、沙夜なら大丈夫だと思うけど、困ったことがあったら言えよ」

「ありがとう。兄さん」

 優しくしないで欲しい。心配しないで欲しい。できれば、話しかけてほしくない。そうされればされるほど、自らの抱いてはいけない感情に、気がついてしまうから。

「兄さんこそ、大丈夫? 原稿の締め切り、近いんでしょう?」

 今日は兄さんと私しかいない。父さんと母さんは、仕事の都合で出張中だ。あと1週間もすれば帰ってくるらしいけど。だから、今は兄さんと2人きりになれる貴重な時間だ。

「ん、まぁぼちぼちかな。でも、間に合わせるよ」

 原稿の締切が近いのに、兄さんは顔色1つ変えない。それは過信でも、自信でもないのだろう。きっと、兄さんには与えられた仕事をこなすことは、当然なのだ。

 いつも冷静で、だけど私を気にかけてくれる兄さんが好きだった。

 私は兄さんが喜んでいるところも、怒ったところも、哀しんでいるところも、楽しんでいるところも知らない。ただ、兄さんは、求められていることを淡々とこなしている。

「片付け、しておくから。兄さんは原稿の続き書いてて」

「そうか。じゃあ任せる……。

 それは、とても美しい。無愛想で、冷たい人だと思われているようだけど、それで良かった。他の誰にも兄さんのことを理解して欲しくはなかった。本当は優しい人だって分かるってるのは私だけでいい。

 そう、私だけで良かった。












「はじめまして、沙夜ちゃん。えっと、これからよろしくね、かな?」

「え、ええ。よろしく……お願いします」

 私の目の前には兄さんと兄さんの婚約者がいた。

 セミロングの黒い髪の毛に、女性としては決して勝てないと分かるようなプロポーション、綺麗に化粧がされた、整った顔。

 見たことない人だった。

「私は藤堂みさきって言うんだ。来月、お兄さんと結婚する予定で、まずは妹さんに挨拶しておこうと思って」

「そう、ですか」

 嘘だ。

「祐也には聞いてたけど、綺麗な娘ね。お義姉さん、嫉妬しちゃう」

「いえ、そんな。藤堂さんには……、かないませんよ」

 嘘だ。嘘だ。嘘だ。

「謙遜しなくてもだいじょーぶだって。それと、みさき、でいいよ」

 嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。

「それで、これからご飯でもどうかな? 私の手作りになっちゃうけど」

「みさきの料理は美味いからな。沙夜も気にいるだろう」

「ちょっと、あんまりハードルあげないで」

 遠い。こんなに近くいるのに、兄さんと藤堂さんの声が、遠い。何もかも届かない場所の話だ。

 私には決して届かない兄さんの一番近い場所に、知らない人が居る。その場所はあなたの場所じゃないのに。誰のものでもないはずなのに。私が届かない場所に、誰もいてほしくないのに。

 胸に穴があいて、頭の中は真っ白で、何も考えられなかった。

 料理の味なんて分かるはずもなくて、ただ私は思い浮かんだ言葉を適当に並べたてていた。 

 ただ、藤堂さんの料理をおいしい、と言って少し微笑んだ兄さんの顔を見たとき、自分の心が壊れる音を聞いた。


「じゃあ、またね。沙夜ちゃん。祐也も」

 そう言うと藤堂さんは、兄さんにキスをして帰っていった。

「兄さん、いつから、藤堂さんと付き合ってるの」

「3年ぐらい前。沙夜が高校にあがった頃ぐらいかな」

「そう……。兄さん、来月結婚するっていってたけど」

「ん、まぁ、な。俺はこの家から出ていくし、少しはこの家も広くなるだろ」

「どうして?」

「え?」

「どうして、みさきさんと結婚するの」

 ああ、止まらない。止められない。止められるわけがない。あんな、キスするところを見せられて、冷静でいられるわけなんてない。だって、私は兄さんが好きなのよ? どうして、止まる必要があるの?

「そろそろ歳だし。みさきはいい女性ひとだから。親父と母さんもうるさいしな」

「父さんと母さんが結婚しろっていうから、結婚するの?」

 少しずつ兄さんに近づいていく。きっと、もうこれが最後だから。だから、最後くらい良いでしょう? 私のわがまま、聞いてよ、兄さん。

「そういうわけじゃないさ。どうしたんだ、沙夜。みさきのこと、嫌いか?」

「ううん。そうじゃないの。ただ、私、兄さんのこと好きだったから――」

 そう言って、私は兄さんの唇にキスをした。あの女性ひとがキスした唇の上から。少しだけ濡れているその唇を、私の唾液で上書きするように。自らの止まらない感情を、押し付けた。

 あの女性ひとの味がしなくなるまで、ただ私は兄さんにキスをした。脳髄が痺れるような背徳感と、肌の触れ合う快感が、背中を伝って私を震わせた。

「っ、沙夜、離れろ!」

 倒錯した快感は、すぐに終わってしまった。それも、当然と言えば当然だけど。

「ごめんなさい。兄さん。少し、1人させて」

「あっ、おい、沙夜!」

 自分の部屋に閉じこもって、唇を指でなぞると、まだ少しだけ兄さんの温もりが残っているような気がした。 

 心の隙間はきっと、二度と埋まらないんだろう。兄さんの見せた笑顔を思い出して、私は誰にも聞かれないように、独りで泣いた。

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