死鹿の書

@rutorutoru

死鹿の書

かのけものの眠りはゆっくりと醒めていった。

この世から打ち捨てられたものだけがたどりつくどこでもない場処。

澱んだ暗闇があたりすべてを覆いつくしている。

そこに無造作に転がされていた骸のうえに、天上から虹色の光が差し込んできていたのだ。



 おれは何処にいるのだ。

 ここは何処なのだ。

 いやそれより誰なのだ、このおれは。

 だが待てよ。ほんの少しだけ覚えている。

 平原のなかを闊歩する金色のたてがみ。

 その美しさ、猛々しさにおれは慄然とした。

 まさに世上になき貴きけもの。

 そうだ、あれこそ百獣の王。

 あの相手と思う存分、雌雄を決することができたら。

 この身体の奥底からわき上がってくる情動。

 おれは勇んで血戦を申し入れた。


 だが、あいつはこのおれの思いを踏みにじった。

 血戦の場に配下のけものたちを潜ませ、一斉に襲いかからせた。

 いくら万夫不当と畏れられ、森の王と崇められたこのおれでも、ついに力つき、組み伏せられてしまったのだ。


 そうだ。

 おれは、おれの名は。

 森の王。


 あの虹色の光が大きくなるにつれ、さまざまなことが思い出されてくるようだ。

 それからどうなったのだ。

 ああ、そうだ。

 組み伏せられた、おれのまえにあいつが近づいてきたのだった。


 この卑怯ものめ。

 なにゆえ正々堂々と戦わぬ。

 なにゆえ配下のけものどもの牙や爪に頼るのだ。

 さては気後れしたか。

 それでも百獣の王なのか。


 すると百獣の王は鼻先で笑った。


 おうともさ。

 このおれこそが王。百獣の王だ。

 わが配下のけものどもすべての爪牙がおれのもの。

 このおれと一心同体なのだ。

 おまえはおれの牙や爪に敗れたのだ。

 のう、森の王よ。

 おまえも王ならば、なにゆえ単騎のみでやってきた。

 なにゆえ王としてふるまわぬ。

 なにゆえ王として戦わぬのか。

 ゆえにこの負けは必然至極。


 百獣の王よ。

 ならば、けものどもの爪牙にておれを倒すがよい。

 屍となったおれの肉叢を存分に喰らうがよい。

 そうして糞をひりだせ。

 そのなかに蠢く一匹の蟲におれはなろう。

 それから生生世世を渡り巡り、必ずやおまえとあいまみえようぞ。


 ふん、おれは喰わぬよ。

 なんだと。

 そのまま朽ち果ててしまえ。

 おまえはそのままなにものにもなれぬ。

 輪廻の輪からも外れてしまうがいい。


 そのようなこと、許されていいはずがない。 

 狩った獲物を食わぬなど、けものの条理に反するぞ。


 なに構うものか。

 すべての条理は王であるこのおれが決する。

 それよりひとつ賭けをせぬか。

 もし、おれを翻意させたいのであれば、おまえの胆力を示してみろ。

 

その言葉が終わらぬうち、森の王はむっくと立ち上がり、抑えつけられていた配下のけものたちを跳ねあげ、百獣の王めがけて一散に駆けだした。

行く手を阻もうとするけものたちをその巨大な角で蹴散らした。

だがしかし、地響きをたてて突進してくる森の王を百獣の王はひらりとかわした。

一閃。

百獣の王の爪が森の王の喉笛を切り裂いた。

森の王はそのまま倒れ込んだ。

大地が鳴動した。

これには、けものどもすべてが震え上がった。


 あな恐ろしや。

 森の王の凄まじき執念よ。

 これでは遠からず、われらが百獣の王に挑んでくることでしょう。


 いや、ないな。


 なんとおっしゃいましたか。


 見よ。森の王を。

 ふん、これしきのことで満足しおって。

 一念を果たし、この世に思い残すことはもうないということかよ。 


森の王はおだやかな面もちとなって事切れていた。

百獣の王はそのまま背を向けて歩き出した。


 だが、もしも。

 金輪の際でもよい。

 また巡り合うことがあったならば。


身体の奥底から絞り出すような低い声。

だが、近くにいたけものたちにもその声は届かず、そのまま消えていった。



 おお、なにもかも思い出した。

 これもあの虹色に輝くあの光の所為なのか。

 ならば、一刻もはやくおれの身へとふりかかってくれ。

 おれの心願をふたたびこのおれにすべて取り戻させてくれ。

 そうして、はじめておれはおれになるのだ。


 そして、今度こそ。


かつて森の王と呼ばれたけものの屍を虹色の光が包み込んだ。


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